学び舎の人々
私が通った日之出小学校の興りは、
朝鮮王朝末期の一八八九年(明治二十二年)にまで遡ります。
山口太兵衛という方が、日本人居留民の子弟わずか八、九人を集めて開いた、小さな寺子屋のような私塾がその始まりだったそうでございます。
やがて、現地で暮らす日本人の増加とともに学校はみるみる規模を拡大し、一九〇六年(明治三十九年)には、
日出町に堂々たる煉瓦造り二階建ての、近代的な校舎が完成いたしました。そのあまりの美しさに、当時は「スエズ以東で最大の小学校」とまで称賛されたほどでございました。
統監府や総督府にほど近いその学び舎には、日本の高官のお子様や、朝鮮人両班の名門家の子女たちが集うようになっていたのです。
初代統監の伊藤博文公をはじめ、歴代の統監や総督、さらには幾人もの宮様方がこぞって足を運ばれたというその歴史は、まさに“朝鮮の学習院”の名にふさわしい格式を誇っておりました。
私が二年生として編入した当時、学校の舵取りをしておられたのは、第五代校長の大山一夫先生でございました。
一九一九年から校長を務めておられた大山先生は、
「李王家の徳恵姫様をお迎えするからには、決して失礼があってはならない」と深く心に期し、私を迎えるにあたって、それこそ細心の注意を払い、様々な準備を整えてくださったのだそうでございます。
まず先生は、ご自身の校長室を改装し、私と御学友、そして私に付き従う女官たちのための専用の控室にしてくださいました。
校長室は南山の青々とした緑を一望できる、学校でいちばん眺めのよい、特等席にございましたから。
それだけではございません。
教室の机や腰掛けも私に合わせた特別なものを誂え、不自由のないようにと専用の洗面所まで新しく造ってくださったのです。
大山校長ご自身は、私に明け渡した校長室の代わりに、賑やかな教員室の一角へと席を移されたのだと言います。
日本の学習院における皇族方への待遇に勝るとも劣らないようにと、そこまで心を砕いてくださったのでございました。
私の「御学友」として選ばれましたのは、幼稚園時代からの無二の友である閔龍児さんと韓孝男さん。さらに、信頼のおける官僚の子女五名も学友として指名され、彼女たちは毎日の登下校から控室でのひとときまで、いつも私の傍らで優しく寄り添ってくれたのでございます。
祭日の式典の折には、私は大山校長よりも上座に席を占めることを許され、閑院宮載仁殿下が学校をお訪ねになった際には、校長先生と並んで宮様をお迎えするという、大きな役目まで仰せつかりました。
宮様は私の教室にまでわざわざ足を運んでくださり、私の朗読をじっと温かく聞いてくださったこともございます。
私は毎日、昌徳宮から、黒塗りに李王家の象徴であるスモモの紋章が施された二頭立ての馬車に揺られて通学しておりました。
馬車が到着するたび、担任の先生がわざわざ校門まで迎えに出てくださいます。そして下校の時刻になると、私は教員室の戸をそっと開けさせて、まずは大山校長先生に、それから在室している先生方お一人お一人に向けて、丁寧にお辞儀をしてご挨拶を交わすのが日課でございました。
学校へ行く朝は、真ん中で分けた長い髪をきれいに三つ編みに結い、王宮の韓服ではなく、モダンなセーラー服に身を包みました。日によっては、歩くたびに軽やかに揺れる女学生の袴を穿くこともあったのです。
不器用だった運動の時間には、その三つ編みの髪をいっぱいに揺らしながら、必死になってグラウンドを走ったものでございました。
私を担任し、我が子のように導いてくださった鈴木ハル先生、麻柄トヨ先生、小川吉太郎先生――どの先生方も、本当に熱心に、そして深い慈愛をもって私に学問を授けてくださいました。
やがて私が小学校を去り、東京の学習院へと旅立つその日、麻柄先生は新聞に宛てて、このような温かい追憶の言葉を寄せてくださったと言います。
『徳恵様は童謡に限らず、何事に対しても一体に御熱心でいらっしゃいました』 ――そして先生は、ある学級旅行の帰り道、にわか雨に降られてしまった同級生たちを私がひどく心配し、その日の作文の結びに「心配、心配」と何度も熱心に綴っていたという微笑ましい姿を明かしてくださった上で、こう書き添えてくださっていたのでした。
『十二、三歳ほどのお子さんではなかなか気がつかないような細やかな点で、やはり自然と外へ表れる徳の光であります』と。
音楽の清水先生も、忘れられない恩師の一人でございます。発表会の晴れ舞台で、私たちの歌声に合わせて優しくピアノを奏でてくださったあの旋律は、今も耳の奥に残っているのです。
慣れ親しんだ京城を離れ、東京の学習院へと移ってからも、私の心はいつも日之出小学校にございました。
小川先生や麻柄先生へ向けて熱心にお手紙を書き、東京での慣れない暮らしや日々の出来事を、まるで親に打ち明けるように報告しておりました。
そんな私を心から案じて、先生方がわざわざ遠い東京の学習院まで、私の様子をそっと見に来てくださったこともあったのだと、ずっと後になってから知ることになります。
『運動場でタスキ掛けとなり、フットボールを一同と共にお遊びなさる様を拝しては、日之出時代のお弱く拝された御体とは、まるで別人の如くに感じられた』
――そんな風に、東京での私の元気な様子を、見届けてくれた先生が学校へ持ち帰ってくださったというのです。
大山校長先生をはじめとする日之出小学校の先生方は、我が子の成長を喜ぶかのように、その報告に目を細めて耳を傾けてくださったそうでございます。
あの日之出小学校での日々のなかで、私は朝鮮王家に対する差別や冷遇など、ただの一度も感じたことはございませんでした。それどころか、日本の皇族方と何ら変わらぬほどに、下にも置かぬ手厚さで私という存在を抱き留めてくれたのでございます。
大山校長先生は後年、
「徳恵姫様を我が校にお迎えできたことは、私の校長人生において最も光栄な出来事だった」と、誇らしげに語っておられたというのです。
だからこそ、私も先生方の大きな愛に報いたかったのでしょう。
大山校長先生をはじめとする恩師の皆様、そして大好きな学友たちを、私は王宮へと何度も丁寧にお招きいたしました。
お茶を淹れ、ささやかなもてなしの席を設けること――それだけが、幼い私にできる、精いっぱいの温かな“恩返し”のつもりだったのだと思うのでございます。




