日之出小学校
師の君にみちびかれつつ分け入りし
文の林のおもしろきかな
友だちと日の出の庭にたはむれし
幼きころのなつかしきかな
一九三九年(昭和十四年)。
かつて私が通った日之出小学校が創立四十周年を迎えた際、記念の誌面に、私はこのような二首の和歌を寄せました。
遠い異国の地で、あの日々を狂おしいほどの愛おしさで思い返しながら、
そっと紡いだ歌でございます。
日之出小学校での生活は、思い出すだけで胸の奥がじんわりと温かくなるほど、本当に楽しいものでした。
私は日本人の生徒たちと肩を並べて日本語で学び、当時としては最も新しい、日本式の教育を受けたのです。
当時の朝鮮では、高貴な身分の者はただ静かに頭を働かせるものとされ、
自ら身体を動かすことを好まない風潮がいまだ根強く残っておりました。
女子が学問を修めることにも控えめで、漢字は殿方の文字とされ、ハングルが広く健やかに普及していくのも、時代の移り変わりを待たねばなりませんでした。
そのような環境で育ったからでしょうか、私にとっても体育だけは勝手が違い、どうしても苦手で仕方がありません。
それでも、学校の先生方は決して私を置き去りにすることなく、不器用ながらに頑張った足跡をちゃんと見つけては、温かく励ましてくださるのです。
音楽に合わせて手足を取り合うダンスだけは、そんな苦手な時間の中でも、心から楽しいと思える特別なひとときでございました。
そして何より、小学校へ通うようになって、私は初めて“詩を作る”という喜びに出会ったのです。
それまでの朝鮮において「詩」といえば漢詩を指し、それを詠むのはやはり殿方だけの特権とされておりました。
女性が詩を紡ぎ、あるいは音曲をたしなむのは、宴席に侍る技生のすることだと見なされ、高貴な身分の家ほど、それを激しく遠ざけていたこと。
だからこそ、小学校に上がるまでの私は、自らの想いを詩に託すなど、ただの一度も知らずに過ごしてまいりました。
学び舎という新しい世界で初めて詩の結び方を教わり、それを先生や同級生に褒められたときの嬉しさは、たとえようもないものでした。
嬉しさのあまり、王宮に帰ってから
「今日はこんなお勉強をして、たくさん褒められたの」と、自ら作った詩を誇らしげに朗読して聞かせたこともございます。
けれど、それを耳にした女官たちは、きまって曇った顔をして私をたしなめるのでした。
「翁主様、あなた様のような尊いご身分の方が、そのような軽薄な真似をなさるものではございません」
学校ではあんなに拍手を浴びるのに、どうして生まれ育った王宮の中ではいけないというのか。幼い私の頭では、さっぱり理解が追いつきません。
けれど、一歩王宮の外へ出れば、私の言葉を待ってくれる味方がたくさんおりました。
「あなたの作った詩は、本当に素晴らしい」
先生も、机を並べる友だちも、学校中の誰もが私の言葉を愛し、慈しんでくれたのです。
私はいつしか、親しみを込めて
「童謡の姫君様」と呼ばれるようになっていきました。
特に、私が紡いだ『雨』と『蜂』という二つの作品には、高名な日本の音楽家が美しい箏の旋律をつけてくださり、京城で大々的に開かれた発表会では、本当に大勢の人々が私の小さな言葉に耳を傾けてくれたものでした。
また、『びら』という詩にも曲をつけて演奏してくださる方が現れ、やがてそれは日本ビクターからレコードとなって世に送り出されることに。
日之出小学校という場所において、私は先生からも、共に学ぶお友だちからも、心からの優しさで包まれておりました。皆が、私の詩に曲のついた歌を、まるで自分のことのように誇らしげに口ずさんでくれた、あの愛おしい日々――。
まるですべての歯車が私を中心に回っているかのように、あの頃の私は、間違いなく、日之出小学校の“太陽”であったのだと思うのでございます。
その後の、あまりにも過酷な私の人生を静かに振り返るとき。
あの日之出小学校で過ごした四年間こそが、私の命の中でいちばん眩しく光り輝いていた、たった一つの幸福な季節でございました。
私はいつだって、あの自由な風が吹く教室へ、あの日々へ還りたかったのです。毎日がまばゆいほどに楽しく、明日への希望に満ちあふれていた、あの頃へ――。




