大正の風、朝鮮に及ぶ
私が生まれた一九一二年(明治四十五年)の七月、明治天皇が静かにお隠れになりました。
ですから、私が幼少期から瑞々しい青春時代を過ごした背景には、常に「大正」という時代が流れていたことになるのでございます。
大正――。
のちに人々が“大正浪漫”や“大正デモクラシー”と呼んだあの時代は、政治や社会、そして文化のすみずみにまで、自由で新しい風が尊ばれた、どこか眩しい季節だったのでしょう。
女性たちの間ではモダンな髪型が流行し、街角には童謡や唱歌、小粋な流行歌が流れていたと言います。
映画の雑誌が初めて創刊され、新しい劇団や、のちの宝塚歌劇団が産声をあげたのもこの頃だったと聞いております。
けれど、それが決して安穏とした世の中ばかりでなかったことも、私はよく知っているのです。
大きな戦争があり、また世界中で猛威を振るった病が人々の暮らしを脅かし、さらには関東の地を未曾有の大震災が襲いました。
華やかな文化の裏側には、どこか物憂げで、この世を儚むような寂しい気分も漂っていたと言います。
光と影、華やかさと不安が背中合わせに同居する、じつに複雑な時代だったのですね。
そんな大正の世に、ひときわ大きく花開いた文化がございました。それこそが「童話」や「童謡」の世界だったのです。
関東の大震災から逃れるようにして、日本本土からその道の大家たちが、次々と海を渡って朝鮮の地へとやって来られました。そして、各地で熱気あふれる朗読会や大会を開くようになったのでございます。
佐田至弘氏という方が「朝鮮児童協会」や「母の会」を立ち上げ、海を渡ってきた童話界の大物・久留島武彦氏の謝恩会を催したり、大規模な童話大会を企画したりして奔走しておられました。
この佐田氏こそ、のちに「内鮮児童愛護連盟」の活動を通じ、日本本土で私のことを「詩の女王」として広く紹介する講演を行ってくださった、大切な恩人の一人でもあるのです。
佐田氏が提唱された「児童愛護デー」は、いつしか朝鮮の春と秋を彩る、欠かせない年中行事となっていきました。
ある時、作曲家の黒沢隆朝先生が朝鮮を訪れ、私が書き留めていた詩に美しい旋律をつけ、私の目の前で演奏してくださったことがございます。
黒沢先生といえば、あのドイツ民謡『山の音楽家』に日本語の美しい訳詞をつけた水田詩仙その人であり、子供たちのための音楽教育に深く心を砕いてこられた方でございました。
先生が編纂された童謡集には、私が作った『雨』や『びら』という詩が収められ、やがて世へと送り出されることになるのです。
こうして日本の詩人や作家たちが朝鮮や満州を巡り、何十万人という子供たちに童話や童謡を語り聞かせて回る輪が広がっていきました。
日本語が浸透し始めていた朝鮮の子供たちは、身振り手振りを交えたその温かなお話の世界に、瞬く間に引き込まれていったのだと言います。
私が生まれる少し前、皇太子の御成婚を祝うために編まれた童謡集にも、朝鮮や満州の子供たちの作品が多く選ばれておりました。
当時、絶大な人気を誇った童謡雑誌『金の船』の投稿欄にも、朝鮮の子供たちからの瑞々しい便りが毎月のように届いていたそうでございます。
そして――のちに私の夫となる宗武志様の詩の師である北原白秋先生もまた、数々の名作童謡を世に送り出し、後年、朝鮮や台湾の地を訪れたお一人でございました。
武志様ご自身も、若い頃に詩や童謡の同人誌を主宰されていたと聞いております。
過酷な運命の中で結ばれた私たち夫婦の間には、実は「童謡」という、何よりも温かで共通の言葉が初めから存在していたのでございます。
私が紡いだ詩は、当時まだ珍しかったラジオの電波に乗って人々の元へ届けられ、一九二八年にはレコードという形にもなりました。
のちに夫となる武志様が、「童謡の姫君」と呼ばれていた私の存在を、私と出会うずっと前から知っていらしたとしても、決して不思議なことではなかったのでございます。
その頃の日本では、澄宮様――のちの三笠宮崇仁親王殿下が「童謡の皇子」と呼ばれ、国民から親しまれ、持て囃されておりました。
私の童謡活動も、振り返ってみれば、朝鮮の子供たちや母親たちの教育を広めるための、時代の要請が生んだ一つの手立てだったのかもしれません。
だからこそ、朝鮮総督府をはじめとする日本人の上流社会は、私を「姫君」として、これ以上ないほど手厚く、下にも置かない扱いで迎えてくれたのでしょう。
そもそも、かつての朝鮮の王朝時代には、「子ども」という存在を指す固有の言葉さえなかったのだと言います。
それまで子供たちは「児孩」や「童蒙」といった言葉で呼ばれ、一人の独立した人格としては、まだ十分に認められていなかったのでした。
――そこへ、一つの大きな変革がもたらされます。
方定煥という方が、それまでになかった「オリニ(幼き者)」という新しい呼び方を世に広め、老人や青年と同じように、子どもの人格をも一人の人間として尊重しようという熱い運動を起こされたのです。
方は、五月二日を「オリニの日」と定め、「どうか、子どもを見下げないでください」と大人たちへ向けて切に呼びかけたのだそうでございます。
日本から新風のように入ってきた童話や童謡の文化は、それまでの無機質な唱歌教育の枠をはるかに超えていきました。
もっと子どもたちの心に寄り添う、生命の躍動感にあふれたものとして、朝鮮の子どもたちの間にも瞬く間に、そして深く根づいていったのでございます。
あれは単なる流行などではなく、子どもの未来を心から願う志を持った人々による、尊い“文化の運動”だったのだと、今にして強く思うのでございます。




