プロローグ
九歳から十二歳までを過ごした、
日之出小学校での四年間。
それは、
私が私でいられた、
たった一つの場所であり、
時間でございました。
振り返れば、
あの時こそが、
私の生涯で
最も光に満ちていた季節だったのだと、いま改めて思うのです。
◇
私の名前は「徳恵」。
時代やその時々の状況によって、
私の名前や呼び名、敬称は目まぐるしく変わっていきました。
けれど、あまりにややこしく入り組んでおりますので、ここでは親しみを込めて「徳恵姫」という名で通させてくださいね。
世間には、私のことを
「大韓帝国最後の皇女」や
「徳恵翁主」
と呼ぶ方もいらっしゃるようですが、
実はどちらも、厳密には正しくないのです。
私が生まれた一九一二年(明治四十五年)五月二十五日は、すでに日韓併合の後のこと。
その時にはもう“李氏朝鮮”も“大韓帝国”も存在せず、私の父・高宗は、日本の王族である「徳寿宮李太王」というお立場になっておられたからでした。
王宮の中ではずっと「翁主」と呼ばれて育ちましたが、それさえも、厳密に言えば正しくはなかったのかもしれません。
私がこの世に産声をあげた時、私の故郷はもう、地図の上から姿を消していたのですから。
私の母は側室でございました。
元々は徳寿宮の厨房で働く下級の女官でしたが、私を授かったことで、
最高位である「従一品貴人」の位を与えられました。
しかし、それはあくまで王宮内だけでのしきたりであって、公式に王族としての扱いを保証されたわけではございません。
それは私の母に限らず、他の側室たちもみな同じでございました。
父の身分も一代限りのものでしたから、私も本当なら、王族としての暮らしは望めなかったはずなのです。
けれど、私をひとすじに深く愛してくれた父は、朝鮮総督に幾度も掛け合い、私に王族としての待遇を整えてくれました。
直系ではなかったために「殿下」という尊い称号こそ得られなかったものの、公族に準じる「姫」の身分を授けてくれたのでした。
父が六十歳の時に、初めて授かった娘――。
それだけで、父がどれほど私を慈しみ、可愛がってくれたか、きっとお分かりいただけると思います。
私への愛が募るあまり、父は徳寿宮の中に、私のためだけの幼稚園まで造ってしまったほどでした。
私はその『専用幼稚園』に四歳から通いました。それまで王宮の中では朝鮮の言葉しか使っていなかった私が、初めて日本語を覚えたのもこの場所でございます。
教えてくださったのは、のちに京城幼稚園の園長などを歴任される京口さだ先生。
先生は、日本語の読み書きや、美しいお歌をたくさん教えてくださいました。
けれど、そんな夢のように幸せな幼稚園時代は、長くは続きませんでした。
一九一九年(大正八年)一月。
私が満六歳を迎えたばかりの、厳しい冬の日のことでございます。
父・高宗が、あまりにも突然に、お隠れになりました。前日の晩までは何のご様子も変わらなかったと聞いております。それが夜半になって俄かに苦しみだされ、夜が明ける頃には、もう静かに息を引き取っておられたというのです。
あまりに突然の出来事に、幼い私は、父がもうこの世にいないという現実をすぐには受け止めることができません。
王宮全体が深い喪に服し、私をいつも愛おしそうに見つめてくれたあの温かな眼差しが、もう二度と戻らないのだと気づいたとき。
私の心には、ぽっかりと冷たい風が吹き抜ける穴が空いたようでした。
父の崩御は、朝鮮全土を激しく揺るがす大きな事件となりました。
あの頃、街のあちこちから、祖国の自立を叫ぶ民衆の声が響いていたことを、のちになって知ることになります。
そんな大きな時代のうねりの中でも、母は気丈に、幼い私を必死に守ろうとしてくれていたのでしょう。
父を失った後、私は母と二人、静かで、どこか寂しい日々を、お互いに身を寄せるようにして過ごしてまいりました。
そうして二年あまりが過ぎた一九二一(大正十年)年。
九歳になった私は、“朝鮮の学習院”と称された日之出小学校の二年へと、編入することになりました。
上流階級の朝鮮の子らや、現地に住む日本の子供たちが通う学び舎でございます。
この時、私は人生で初めて、王宮の外へと足を踏み入れました。
当時の王宮内は、いまだ李氏朝鮮時代のまま、静かに時が止まったかのような暮らしぶりだったのです。
半島全体が貧しさに喘いでいる中でも、王宮が膨大な数の女官や職員を抱え、古くからの厳かな祭祀を続けていられたのは、ひとえに李王家の暮らしが豊かだったからに他なりません。
日韓併合の条約には、日本が李王家に対し、その格式に見合う暮らしを保障するための歳費を支払うと定められておりました。
その額は、日本の宮家に支払われるものよりも、ずっと巨額だったと聞いております。
もっとも、それだけの格式を維持するには、やはり膨大な人手と経費がかかるものでございます。
いくら多額の歳費が届けられても、王宮の財政を司る李王職の人々は、いつもやりくりに頭を悩ませていたようでした。
そんな、世間から優しく隔絶された王宮の外へと、私は毎日通うことになったのでございます。
一歩外へ出てみれば、そこには大正浪漫の華やかでモダンな空気が、この半島の端にまで満ちあふれておりました。
日之出小学校には、自由で、眩しいほどに明るい風が吹き抜けていたのです。
そこで“詩”を学んだことで、私の内に眠っていたささやかな表現の種が、静かに、けれど確かに芽吹いていくのを感じました。
私は、詩という短い言葉の中に、自分の傷つきやすい心や、秘めた想いを託す喜びを知ったのでございます。
だからこそ、あの場所が、いまもたまらなく愛おしいのでしょう。
閉ざされた王宮から解き放たれ、後に待ち受ける時代のうねりに翻弄される前の、ほんのひととき。
自由な風の中で
詩を詠んでいたあの四年間だけが、
私が私として
心地よく呼吸できた、
唯一の時間だったのでございます。




