離婚
私が身を寄せることになりました東京の松沢病院は、古くから精神医療の専門として知られ、当時としては最も進んだ治療を試みてくれる病院でございました。
世間の人は、夫が私を遠ざけたのだと噂したのかもしれません。けれど武志様は、私のために限られた暮らしのなかで本当に心を砕いて、あの静かな居場所を探し出してくださったのでございます。
病室の白い壁をただ見つめるだけの、長い、長い時間が過ぎていきました。
一九五〇年(昭和二十五年)の、まだ寒さの厳しい一月のことでございます。
韓国の新聞記者である金乙漢という方が、この松沢病院の私の部屋を訪れ、取材をしていかれたというのです。
当時の私の意識はひどくぼんやりとしており、その方の顔も、交わした言葉も覚えてはおりません。
彼は本国に戻り、
「大韓帝国の王女が、日本で悲しい状況に置かれ、精神病院に放置されている」という、世間の同情を誘うような記事を書き連ねたのだそうでございます。
それがきっかけとなり、海の向こうで私の「帰国促進運動」なるものが始まりました。
しかもそれだけで終わらず、
「金記者の弟こそが、かつて徳恵翁主の許婚だった男だ」という、どこからともなく生まれたお話までがまことしやかに広まっていったと言います。
そんな許婚のお話など、私は一度だって耳にしたことはございません。
そもそも、私や、李王家を継がれた垠お兄様ご夫妻が、戦後になっても故郷の朝鮮へ帰れずにいたのは、日本のせいなどでは決してなかったのでございます。
新しく誕生した大韓民国の李承晩大統領が、旧王室の人間が帰国することによって、ご自身の立場を脅かす存在が生まれるのを好まず、私たちの帰国を拒み続けていたからに他なりません。
政治の現実から目を背け、すべてを日本のせいにして片付けようとする――。
「余計なお世話だわ」
私は病床の毛布の中で、小さく、しかし強い思いを込めて呟きました。
彼らが正義の味方のような顔をして騒ぎ立てれば立てるほど、この二十年もの間、病に悩まされた私を誰よりも深く愛し、世間の冷たい目から必死に守り続けてくださった武志様が、私を苦しめる悪者にされてしまいます。
その割り切れなさに、私の心は引き裂かれるような心地でございました。
武志様とお別れすることなど、これっぽっちも望んではおりませんでした。
できることなら、この静かな病院の片隅で、あの人の妻のままで終わりを迎えたかったのです。
けれど、海の向こうの騒がしさは、
もう私たちが静かに思い合うことを許してはくれませんでした。このままでは、宗家の名誉が、何より武志様という誇り高き詩人の心が、政治の道具として泥に塗れてしまいます。
一九五五年(昭和三十年)六月。
実家である李王家側からの切実な願い、という、形を取り繕ったやり方で、私と武志様は正式に離婚することとなりました。
籍を抜く書類にペンが走る音を、私は松沢病院のベッドの上で、ただ遠い雷鳴のように聞いていたのです。
愛するお方を、これ以上傷つけないために、私はあの人の手を放したのでございました。
武志様は私と別れた後、その胸の痛みと、癒えることのない悲しみを、日本の古い神話に託して詩に綴ってくださったのだそうでございます。
海神の娘である豊玉姫が、地上の王である山幸彦と結ばれながらも、本来の姿を見られたことで、海へと帰っていかなければならなかった、あの切ない離別の物語――。
ああ、武志様。
あなたは最後まで、私を「詩人」として、美しく見送ってくださったのですね。
こんな病を抱えただけの私を、あれほど深く、優しく愛しんでくださって、本当にありがとうございました。
私の魂は今も、あなたのあの薄い詩集のぬくもりの中に、確かに置かれたままなのでございます。




