結婚へ
私がそのお方――宗武志様と初めてお目にかかりましたのは、一九三〇年(昭和五年)の十一月初旬のことでございました。
お屋敷の広間で私を待っていらした宗様は、一目見て驚くほど背が高く、
とても端正なお顔立ちをされたお方でございました。
それまで垠お兄様以外の殿方とまともにお話しした経験などない私は、あまりの緊張にどうしてよいか分からず、ただ視線を落として、もじもじと指先を動かすことしかできなかったのです。
きっと私のこの暗い態度を見て、すぐにがっかりされるに違いない――。
そう身を硬くしていた私に、宗様は静かな、心地よい声で語りかけてこられました。
「私は、徳恵姫のレコードを持っているんですよ」
思いもよらないお言葉に、私は思わずパッと顔を上げました。私の戸惑いを包み込むように優しく微笑みながら、宗様は言葉を続けられたのです。
「昔、あなたが京城で詠まれた詩に曲がつき、それがレコードになったでしょう。京城で盛大な発表会が開かれ、あなたが『童謡の姫君様』と呼ばれていたこと、私は新聞のグラビアで見て、よく覚えているのです。
私も、実は詩を作るのが好きでしてね。だから……失礼ながら、当時のあなたは、子どもの頃の私の憧れの人だったのですよ」
それは、私の胸の奥に仕舞い込まれていた、あの眩しかった日々の扉をそっと叩いてくれるお言葉でございました。
日本に来て以来、誰も触れようとしなかった、そして自分でも忘れようとしていた、あの頃の、本当の私。
それを、この日本の青年が大切に覚えていてくれたのです。私は驚きと、込み上げる熱い愛おしさを抑えきれずに呟いておりました。
「もう、私の詩のことなど、誰も覚えてはいないと思っていました……。
あの頃は、毎日詩を考えるのが本当に楽しくて、小学校に通うのが嬉しくて。
でも、日本に来てからは、すっかり書かなくなってしまいました……」
「それは、あまりにも寂しいことです。また、お書きになればいいのに」
宗様はそう言って、懐から一冊の薄い、丁寧に仕立てられた小冊子を取り出し、私に手渡してくださいました。
「私も、他人にお見せするほどの物ではありませんが、こうして詩を詠みます。
よかったら、御覧になってください」
指先に触れた詩集のぬくもりが、私の冷え切った心に、じんわりと染み渡っていくようでございました。
私はそれを両手で大切に抱きしめ、
「ありがとうございます。読ませていただきます」と、心の底から応えておりました。
心を病み、世間から置いていかれたような心地でいた私に、宗様はどこまでも優しく、対等な一人の人間として接してくださったのでございます。
それから数ヶ月ののち、一九三一年三月に私は女子学習院本科を卒業いたしました。
そして同年五月八日、私は旧対馬藩主・宗家当主である伯爵、宗武志様のもとへとお輿入れをしたのでございます。
婚礼の夜、二人きりになったお部屋で、武志様は私に向き合い、真摯な眼差しでこう打ち明けてくださいました。
「この縁談は、少し苦しかった宗家の暮らしを整えるために、貞明皇后陛下が下されたご配慮がきっかけです。
それは事実です。
でも、それはあくまで始まりに過ぎないのです。私は今、徳恵姫というあなた自身を、とても大切に想っています。詩を愛する者同士、あなたも私に心を寄せてくださると嬉しいです」
その言葉に、偽りは少しも感じられませんでした。私は武志様の胸にそっと寄り添い、自らの頼りない心の内を明かしたのです。
「私のこの病は、容易には治らないのだと思います。これからも、お手を煩わせ、ご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません。
でも……日本に来てから、これほど深く詩のお話ができる方と巡り会えるなんて、思ってもみませんでした。
私も、武志様をお慕いしております」
それは、私が大韓帝国の翁主としての重荷をそっと降ろし、初めて一人の女性として、日本に来て良かったと心から思えた瞬間でございました。
この人の隣であれば、私もいつか、本当の幸せを掴めるかもしれない
――暗闇の先に、確かな光を見た気がしたのです。
結婚の後、武志様の深い愛に守られて、私の病の症状はしばらくの間、
とても穏やかに落ち着いておりました。
そうした静かな日々のなか、翌一九三二年(昭和七年)八月十四日には、私たちの愛のしるしである長女・正恵が産声を上げました。
我が子を初めてこの腕に抱いたときの愛おしさは、何物にも代えがたいものでございました。
けれども、運命の神様は、私たちがこれ以上の幸福に浸ることを、長くは許してはくださいませんでした。
出産という心身の大きな変化が、きっかけになってしまったのでしょうか。あんなに落ち着いていた私の病の兆候が、少しずつ、しかし確かにまた姿を現し始めたのでございます。
正恵の泣き声が、時に鋭く私の脳裏を突き刺すように感じられ、幻聴や悲しい思い込みが、再び私の視界を塞いでいくようでした。
産後、私の心の病はだんだんと重くなっていき、愛する夫や娘と暮らす平穏な我が家での生活さえ、次第に続けることが難しくなっていったのです。
世界が大きな戦争の足音を響かせていくのと重なるように、私の心も深い霧の底へと沈み込んでまいりました。
そして、日本が戦争を終え、これまでの暮らしが大きく変わってしまった後の一九四六年(昭和二十一年)
――私はついに、家族の住む家を離れ、東京の松沢病院という静かな場所の一室へと、その身を移すことになったのでございます。




