貞明皇后のお導き
思えば、私が幼い頃に徳寿宮の専用幼稚園で日本語を学び、やがて日之出小学校という恵まれた学び舎へ通うことになったその道筋は、すべて遠い帝都の、あるお方の温かな眼差しから始まっていたのでございます。
私が十二歳で日本へ留学することになった裏には、大正天皇のお后であられる貞明皇后の、並々ならぬお心遣いがあったのだと言います。
かつて明治天皇が、まだ幼かった垠お兄様の日本留学をお計らいになったのと同じように、貞明皇后もまた、李王家の女子の教育に深い関心を寄せられました。そして、朝鮮総督へ直々にお考えをお伝えになったのが始まりだったそうでございます。
東京へ来て間もない頃、私は方子殿下に手を引かれ、宮中で貞明皇后に拝謁したことがございます。
その凛としながらも慈愛に満ちた眼差しを、私は今でもよく覚えているのです。
一方、私の縁談のお相手となる青年もまた、若くして皇后陛下に拝謁しておりました。陛下は彼をご覧になり、近侍の者に「あれならば、一国一城の主として恥ずかしくないであろう」と、満足そうに仰せになったというのです。
おそらく皇后陛下は、その早い時期から、孤独な私とその青年を結びつけようという、深いお考えをお持ちだったのでしょう。
お相手の名は、宗武志様。かつて日朝の国交を命がけで繋ぎ続けた、旧対馬藩主・宗家の当主であり、現在は日本の伯爵の爵位を持つ青年でございました。
この縁談が持ち上がりましたとき、垠お兄様と方子殿下は、まるで我がことのように深く喜んでくださいました。
そして、私のこの不安定な病のせいで大切なお話が壊れてしまわぬよう、
お相手のご実家に細心の注意を払い、心を砕いてくださったのです。
しかし、この報せが朝鮮の本国に届きましたとき、返ってきたのは祝福の声ではございませんでした。
「翁主様の結婚相手が、日本の皇族でもなく、ただの伯爵だと?」
「対馬藩など、元を正せば我が国と日本の間でうまく立ち回っていた、小さな藩ではないか。天皇の家臣に我が国の王女を嫁がせるなど、もってのほかだ」
そんな反対の声が、海の向こうから風の噂として聞こえてまいりました。
すでに時代が変わり、王家のために何かできる力もないのに、昔ながらの誇りばかりを並べ立てて不満を口にする故郷の人々。私はその騒がしい声を、毛布にくるまりながら、どこか遠い世界の出来事のように冷めきった気持ちで聞いていたのでございます。
あなたたちは、この寝室の寒さを、
私の絶望を、一瞬でも想像したことがあるのでしょうか。
「どうせ、こんな病を抱えて心をなくしかけている女など、向こうからご辞退が来るに決まっている」
お話はなくなるだろうと思っておりました私は、この縁談に何の期待も抱いてはおりませんでした。
むしろ、早くお断りのお手紙が届いて、また静かな暗闇に戻れることだけを願っていたのです。
ところが、運命は私の考えた通りには動きませんでした。宗家からはお断りどころか、「ぜひ、翁主様にお目にかかりたい」という、真摯な返答が届いたというのでございます。
王公族の私に、拒む権利など最初から与えられてはおりません。私は重い身体を起こし、お付きの者が用意してくれた衣服に袖を通しました。
日を定め、私たちは初めて顔を合わせることになったのです。
私の凍りついていた時間が、再び静かに動き出そうとしておりました。




