ある若者の生き様と悪徳不動産
八月になり平地では毎日のように猛暑日が続き、連日四十度に近い気温が各地で連発する中、北浅間村は暑くても最高気温で三十度程度の比較的快適な日々が続いていた。そんな夏のある日、丈一郎は貸別荘の清掃・管理のバイト終了後に万座温泉へ向かった。いつも同じ温泉旅館の露天風呂と内風呂に浸かるのだが、濃い硫黄の香りの余韻に浸りながら、帰り道にある『最愛の丘』というちょっとした観光スポットで景色を眺めるために車を停めた。そこで、写真撮影なのか少し揉めているような夫婦らしき二人に出会う。「最愛の丘なんだから二人で仲良く写ったほうが良い」と妻が言うが、「現地調査だから付き合ったけど、呑気に写メを撮るなんて・・」と夫が言っているのが微かに聞こえた。
丈一郎は親切心で写真を撮ってあげようかどうしようか少しばかり迷った挙句に、
「写真、お撮りましょうか?」と申し出ると、それまで少し揉めてた様子だが、元々中の良い夫婦のなのか、すぐに笑顔で「それじゃあ、お願いします」と言うことになったので、スマホで写真を撮影してあげた。写真撮影後、丈一郎は二人に 「観光ですか?」と尋ねられ、
「はいとも、いいえとも、答えにくいのですが、すぐ近くの別荘に住んでいる」と告げると、二人の顔は少し暗くなったような気がしたが、丈一郎は構わずに
「そちらはこのお近くなのですか?先ほど、調査が何とかとおっしゃていたような気がしたのですが・・」と尋ねると彼らは躊躇いがちに
「実は私たちは北浅間村役場に勤務している」という。丈一郎は例の”前のめり癖”が出て、つい感想を言いたくなり、
「そうなんですか、私は何回かここに来てますが、ここからの景色は素晴らしいですよ。深呼吸をして眺めると風景の一部になったような気になります。また、『最愛の丘』というネーミングもとても良いですよね。ただ、ドライブインがやっていないのにはがっかりしましたけど。これだけの雄大な景色を眺められる場所に建物があるのだったら、無人でも良いのでオープンしておいて欲しいですよね」と率直に話した。夫婦は顔を見合わせ、どう答えて良いか戸惑っている様子なので、
「ああ、すみません。余計な話をしてしまいました。少し工夫すれば立ち寄る人も増えるのではないと思いまして・・」と、丈一郎は「しまった余計な話をしてしまった」と心の中で反省しつつも、「過疎化はこのような観光施設の維持にも影響がでていて、この『最愛の丘』のドライブインも休業状態だし、勿体無い」と思ったのだ。妻の方は丈一郎の話に興味を持ったらしく、
「実は何とか施設を再開させて欲しいのですが・・」と話しかけたが、夫の方が
「たまたま、いらっしゃっている方にそんな話をしてもお困りになるよ」と諌める口調だった。妻の方はひょっとして役場の観光関係の仕事でもしているのでは?と感じたが、夫の方は話を終わらせたがっている気がしたので、丈一郎は気を利かしたつもりで挨拶をしてそこを後にした。
後日、丈一郎が何か面白そうな観光案内チラシはないかと思い役場を訪ねると、偶然牧野刑事と遭遇する。牧野刑事が丈一郎の用事を聞くので、良さそうな観光地を調べに来たと告げると、
「そうですか。丈さん、すぐ終わるので下で少し待っていてくれませんか?」と言うので
「良いですよ」と答え、観光課の掲示板を眺めるふりをして、牧野刑事の訪問先に何気なく目を向けた。すると驚くことに彼が会っているのは先日愛妻の丘であった妻の方で、近くの打ち合わせコーナーで数分話をしていたがすぐに終わったようだ。丈一郎はのぞき見をした訳ではないが、牧野刑事の面談が終わりそうになったので、慌てて一階の受付に降りて行って、さも、そこに暫くいたような振りをして、待ち合わせ用のベンチに座った。暫くして、丈一郎の座っている横に牧野刑事は「お待たせしました」と笑顔で座った。丈一郎が
「観光課の女性に会ってたよね?実はあの女性には先日愛妻の丘で偶然会ったけど、剛君は何の用事なの?」と事情を聞くと、彼は少し驚いた様子を見せたが、小声で
「肥後さんだから話しますが、実は彼女は例の別荘での事件のリーダー格の青年のお姉さんなんです」牧野刑事の用事はその後のその青年の状況を知りたかったようだが、彼は村を出て信州の方へ仕事を探しに行っていて、彼から連絡が入ったら牧野刑事に連絡をくれることになったそうだ。
丈一郎と牧野が受付のそばで話をしているのを、今度は牧野と面談後にトイレに向かった観光課の例の女性が気づき、家に帰ってから夫にその話をしたところ、夫は疑心暗鬼になっているのか、これ以上変な方向にいくのを警戒して、
「やはり、あの人は例の貸別荘に関係した人じゃないのか?近くの別荘地に住んでいた人がいて、肇が暴力を振るったと言っていたじゃないか。刑事と話をしているのは何か探っているのかもしれない。刑事にそれとなく聞いてみてくれないか?必要ならば、僕が大事になる前に謝りに行くから」と妻に依頼をした。翌日、妻が牧野刑事に電話をすると
「ああ、あの人は近くの別荘地に住んでいて、肥後さんという人です。確かに例の事件の時の被害者でもあります。たまたま私はプライベートでもお付き合いがあるので、役場のロビーで話していただけですよ。あなたが心配しているのは弟さんの事件の事ですよね。そのことで話をしたいのなら、言っておきましょうか?」
「ええっ、そんなことまで刑事さんにお願いしても良いのですか?」
「大丈夫です。前にもあなたは被害者に謝りたいと言っていたので、そう言うことですよね?でも、肥後さんはもう気にしていないと思いますよ」
「そうですか、でもお詫びはしておきたいので宜しくお願いいたします」と言うので、牧野刑事は間を取り持ってくれて、丈一郎の別荘を教えるのはプライバシー上問題があるので、後日、丈一郎が役場を訪ねることとなった。
丈一郎は約束通りに青年の姉である観光課の正田敬子と面談する。会議室に案内されるがいきなり、
「その節は弟が大変ご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした」と深く腰を折り謝られた。丈一郎は
「いえいえ、そんなたいしたことではないので、頭を上げてください」といったが、
「元は悪い子ではないのですが、”つい出来心”であんな酷いことをしてしまいました。二度とあんなことはしませんので、お許しください」と続けて謝られたので、
「お姉さん、本当に私はもう気にしていませんよ」と言い、やっと席に座って本題に入ろうとしたが、まだ彼女は気持ちが揺らいでいるようなので、丈一郎は少し事情を話した。
「実はあの刑事は私の大学時代からの友人の弟なのですよ。彼は本業は刑事ですが、この地域の若者の事を心配していて、あなたの弟さんのことも気にかけていました」
「そうみたいですね、刑事さんらしくない礼儀正しくて、優しい人だと思っています。あっ、刑事さんらしくないなんて失言ですね。すいません」と彼女は顔を赤くしてまた頭を下げた。丈一郎はおかしくなってつい笑ってしまい、
「彼の兄も顔は怖いんですけど、中身は優しい奴ですよ」と少しお互いに少し空気が和んできたのを感じた。ただ、丈一郎は彼女の「出来心で・・」と言う部分に少し違和感を感じていたが、そのまま心の奥にとどめおいた。
その後丈一郎は自分の職歴やこの地域が大変気に入っていることを話し、
「何かお手伝いできることがあれば言ってください」と話すと、
「転入された方でこの村を気に入ってもらっている人も少し増えてきていますが、この村で生まれた若い人たちはどんどん出て行ってしまうんです。私もそうですが役場やJAや農家で仕事をする人はごくわずかで、皆良い条件の仕事を求めて都会へ出て行くんです。でも、村の人たちだけでは知恵が出てこないように感じています」と北浅間村の過疎化の課題を口にした。さらに、
「ところで、あの最愛の丘についてどう思われますか?」と聞かれたので丈一郎は答えた。
「せっかくナビや案内であそこにたどり着いたのに、ドライブインがやっていないのはかなりマイナスの印象ですね。せっかくあれだけの雄大な景色を眺められる場所に建物があるのだったら、無人でも良いのでドライブインはオープンしておいて欲しいと思います。少し工夫すれば立ち寄る人も増えるのではないでしょうか」と率直に話した。彼女はそれまで一線を引退し暢気な人のように見えていた丈一郎が、一気に痛いところを突くので少し驚いて、
「おっしゃる通りですよね。私もそう思います。同じようにもったいない設備が他にもあるのです。でも、ビシッといわれるので少し驚きました」
「ああ、いやあ、すみません。何も事情を知らないのに。勝手なこと言いまして」と言って、最後は笑顔で面談は終わった。
役場を出る際に経理課の前を通るときに、丈一郎はなんとなく職員の居る方を眺めると先日会った夫がこちらを見て、軽く会釈をしてきたので軽く会釈で答えた。なんとなくこの夫婦とはまだ縁があるような気がしていた。そのころ、あの青年は信州のある町で、新たな仕事を見つけていたが、少し怪しい雲行きであることなどこの人たちの誰も知る由もなかった。
さて、正田敬子の弟である米川肇が起こしたちょっとしたトラブルは、丈一郎が清掃のバイトをする貸別荘や近隣の旅館やホテルで、彼と高校の後輩たちがいわゆるカスタマーハラスメントを繰り返す事件で、牧野刑事を筆頭に地元警察の迅速な調査と対応で一件落着したのだが、彼らは現行犯で全員逮捕され二日間の拘束後に不起訴となり全員釈放された。彼らは留置所で警察官からの取り調べに対し、大人しく全ての犯罪を認めたようで、貸別荘のオーナーも被害が軽微であることや初犯でもあり刑罰を望まず、他の被害にあった人たちも同様であった。皆お互いに近隣の住民で、犯人たちもこれからの地元を担う若者でもあり、反省をしているのなら謝罪を条件に更生を望んだようで、主犯格の米川も含めて全員が不起訴となった。牧野刑事は他の未成年のメンバー三人はともかく、米川は成人しており、再犯の恐れもあるように感じ一抹の不安を感じていた。しかし、警察署幹部も他のメンバーと同様に保護観察とすることで起訴をしない方針と決した。ちなみに、不起訴処分となったので彼らには前科はつかないが前歴が残り、厚生するためにはそれなりの壁が立ちはだかることになる。
彼らが住む北浅間村のような過疎化が進む地域では、十分な体制で保護観察官や保護司を確保することは難しく、保護者や近親者の支援や協力が必要で、そのような処置を受けていること自体が大きなハンディキャップとなる。無論、自分たちの行為が犯罪であり自分達に責任があるのだが、将来の見えない暗闇にいるような気になるものがいても不思議ではない。三人の未成年者のうち一人は休学していた大学に復学していき、二人は親が農家をしており、家の仕事を手伝う事で更生の道が見えてきていたが、米川肇だけは親類からもやや疎まれ近隣では居場所がなく、車で一時間以上離れた長野県の上東市でその日暮らしのバイトをしながら生活していた。そこは彼の地元からするとはるかに賑やかで、アルバイトのような仕事は多くある街で、人口が多いせいもあり、あまり他人の目も気にならないので居心地が良かった。しばらくして、彼自身は知らなかったが、多少荒っぽい事をするという噂のある不動産屋の求人にたどり着いた。
米川肇は二十三歳で、背格好は中肉中背で鋭い目と濃い眉が特徴的で、中学と高校では野球部に所属し主将を務め、同級生や先生にも人気があり、高校卒業時には中学・高校の後輩がお祝いに来たほどだった。事件を一緒に起こし不起訴になった若者はその後輩達の内の三人だった。米川は事件を起こしたときは高校を卒業し就職した先での重労働や低賃金に嫌気がさし、数年で辞めて地元に逃げ帰るように戻ってきていた。しかし、彼はこのことを悔やみ、精神的にやけになっていたようだ。不起訴になった後には真面目に生きる気にもなっていたが、親や同居する姉の夫の冷たい視線や、地域の人の彼とは関わりたくないようなあからさまな態度に嫌気がさし、結局村を出ていくことにした。そして、たどり着いたのが隣県の上東市だった。
六月半ばになり、彼がある不動産会社のアルバイトの募集をチラシで知り、電話をかけて面接のアポを取ると、写真を貼った履歴書を持参するように言われ、一日がかりで慣れない履歴書を苦労して作り、早速翌日面接に行くとその不動産会社は予想以上に大きなオフィスだった。受付にカウンターもあり、二十畳ほどの結構大きなオフィスに机と椅子が並んではいたが、社員は外出していてほとんどいない状況で、受付で面接に来たことを告げると、すぐ近くにいた表情の薄い感じの若い男がオフィスの奥の方に案内してくれ、扉の閉まった部屋の左側にある部屋に通された。どうやら会議室兼社員むけの休憩室のようだったが、彼がキョロキョロしているとすぐに背の高い中年男が部屋に入ってきた。米川は自分の名前を元運動部らしく大きな声で言い、一生懸命書いた履歴書をその男に渡した。その背の高い男は履歴書をさほど詳細に中身を見る気もないようで、さらりと目を通し米川の顔を見ながら、
「北浅間村から来たのか、あっちと違いこの辺は仕事が多いのに人が足りていなくてね、すぐにでも仕事をさせても良いよ」と言う。彼は、内心これは緩いぞとほくそ笑み上手くいきそうな気がしていた。背の高い男は無表情に
「今どこに住んでいるのだ?」と尋ねるので、彼は「今は家ではなくネットカフェにいて仕事を探している」ことを話すと、すかさず背の高い男は
「そうならば、住む部屋を用意しても良いよ。あんまり綺麗じゃないけどな」と少し遠慮がちに言うので、それが決め手になり彼は即答した。
「それは助かります。一生懸命やりますので、よろしくお願いします。」と元気良く答えた。彼にとっては住む部屋があることは最も嬉しいことで、多少汚れていようが気にしなかったし、屋根があれば十分だった。
「そうか分かった。俺の名前は田代だ。この会社では何でもやるのが仕事だが、一応役職は営業部長だ。よろしくな、えーと米川君だったな」とやっと名前を覚え、上から目線で言ってきたので、その米川は
「よろしくお願いします、田代部長」とわざと役職を言って再度頭を下げた。その時、米川は心の中で「へへ、ちょろいもんだな面接なんて」と嘯いたが田代は気づく様子もなかった。そして、田代が
「多分持ってないだろうけど、一応聞くけどさ、スーツは持っているか?」と聴くので、米川はすかさず
「いえ、持っていません」とこれまた元気良く即答したので、田代は多少呆れた表情で
「しかたないな、ちょっと待っていて」と言うと、オフィスの奥の方に入って行って、程なく手にスーツをかけて戻ってきた。
「これを着てみろ、サイズはだいたい合うと思うが・・」
米川は早速その場で上着を着たが少しきついが大丈夫そうだったので、立ち上がりスラックスの長さを合わせてみて、これは少し長めだが
「これで大丈夫です。これを貸しもらえるのですか?」
またまた大きな声で言うので、田代は思わず少し笑みを浮かべ、
「俺のお古だよ。クリーニングには出してあるから綺麗だよ」と言って頷いたので、彼は田代に頭を下げて礼を言った。田代はこの青年を少し気に入った様子で、
「明後日の朝九時までに荷物を持ってここにまた来い」と告げて、米川を出口まで送ってくれた。
米川は翌日は街の中心部を歩いて見て回り、どこに何があるのかを大凡頭に入れた。彼は明後日からの仕事に大変期待しており、これから過ごすであろう街並みに気を良くしていた。翌々日、ネットカフェに置いていた少しばかりの衣類と洗面用具の入った大きな鞄を下げて、朝八時四十分頃に会社に行き、受付のカウンターで来訪を告げると、面接の時と同じ若い男がオフィスの奥に行くとすぐに田代が出てきて、例の会議室のようなところに案内してくれた。全員が書いていると言う誓約書に署名をするように指示をした。米川はざっと中身を読んだが情報を漏らすなと言うことだろうと思い、すぐに署名をした。田代が米川を連れて会議室の隣の部屋をノックした。米川は前回来たときには確認できていなかったが、その部屋の扉には「社長室」と書かれていた。田代が先に先に入り米川を手招きするので中に入ると、窓際の社長席に小柄な男がそこにいた。社長は明るいグレーのスーツを着た白髪の男で、
「米川肇と言います。どうぞよろしくお願いします」と米川が元気に挨拶すると、その小柄な男は満足げに頷きながら彼を上から下までを観察すると、「しっかりやれよ」と言ってくれた。
元々、彼は運動部のキャプテンをしていたこともあり、挨拶はきちんとできる。体格も良く、多少目つきはきついが眉も濃く、見栄えは良い方だった。米川はこんなチビが社長かと思いほくそ笑むと、社長は少し怪訝な表情を田代に向けた。米川はその仕草をすかさず捉えてバレたかと思い、慌てて頭を下げて部屋を出た。
その後簡単に仕事の説明を受けて、社員数名に紹介された後に田代は彼が寝泊まりする部屋と言うより小さいけれど一軒家に案内してくれた。会社から歩いて二十分ほどの所にある農家の離れのようなかなり古ぼけた一軒家で、襖だけで区切られた続き部屋だが六畳の和室が二間あり、小さいがコンロと流しもあり洗面所と浴室と水洗のトイレもついていた。
「ここで良いか?」と尋ねられたが、彼は十分納得し
「もちろん大丈夫です、部長」と答えた。
「電気製品は一応揃っているし、布団は押し入れに入っている。台所の棚には食器類もある程度揃っている。これから夏になるが、結構ここは風通しが良いので、扇風機でもあれば何とか過ごせるさ。風呂はシャワーは使えるが、給湯器が古いタイプでお湯は貯められないので近くの銭湯にでも行ってくれ」 と田代は言い、
「今日はこれで終わりだから、片付けは自分で適当にな。掃除機や雑巾とかは確か押し入れか洗面所にあったはずだ。明日は必ず八時には会社に来いよ」 と言って帰っていった。米川は玄関の外まで出て、
「ありがとうございました」とまた大きな声で挨拶をしたので、田代は少し微笑んだ。実はこの家には三ヶ月ほど前まで別の若い社員が住んでいたが、その彼の担当したお客さんからクレームが入り、田代はその責任を彼に押しつけたため、彼は会社にいれなくなり突然辞めたので、空き家になっていたのだった。そして、その家のすぐ後ろにある農家は田代の実家だった。米川は少し古くはなっているが、実家に戻る前の群馬の中心都市での一人暮らしと比べても、広い間取りが気に入り、かなり気分良く掃除や装備品の点検を始めた。言われたとおり電気製品は最新ではないがほぼ揃っており、以前住んでいた住人が綺麗好きだったのか、流しも洗面所もトイレも比較的清掃が行き届いていて、新たな住処に大いに満足した。
「ああ、ネットカフェより百倍良いぜ。俺は結構ついてるな」と思い、少し財布に残っていたお金でコンビニに寄り、晩飯とビールを買い込んで小さな冷蔵庫に入れた。そして、スマホで銭湯を調べ、久しぶりに銭湯に入り、気分を良くして家に戻った。晩飯をビールを飲みながら上機嫌で終えて、布団は流石に少しかび臭かったが,ネットカフェでは毛布一枚で床に寝ていたので、十分ぐっすり寝れた。そして、翌日から約束通り朝八時には会社に通うようになった。
彼の仕事は指定された地域で中古住宅と空き家を探し、空き家が見つかると住所を調べてスマホで出来るだけ多くの写真を撮り、社員に報告するという仕事で、毎日十件の空き家を見つけるのがノルマとなっていた。最初は空き家かどうか分からず家のチャイムを鳴らすと、中から家人が出てきたりして慌てて逃げ出したりして、一件か二件しか報告できず「お前、たったこれだけしか見つけられなかったのか」と怒鳴られはしないが、嘲笑を受けることもあった。報告先は中年の先輩社員の男たちで、どうやらチーム制を敷いているようで、米川の成績も評価か何か影響するようだった。営業部長の田代は直接バイトの報告を受けずに、それを報告に来る中年の社員を睨んで、
「もっと気張れや、生活かかってるんだろう」とだけ言っているようだった。米川は慣れてくるとコツを覚え、十件の空き家の報告とスマホでの写真を社員に見せると、上司のような存在の中年社員に褒められてラーメンをご馳走されたりして気分良くしていた。給料は日給制でノルマを達成すると六千円もらえ、未達成だと僅か三千円だった。最低賃金を下回っているが、文句をいうアルバイトはいないようだった。交通費も朝その日歩き回る地域を指定する際に、距離に応じて千円や二千円をもらって出かけた。同じような仕事をしているアルバイトが他に二人いて、時々仕事帰りに食事をしたりするようになった。
ある日、米川は今日もノルマを達成し六千円を手にしたが、先週からノルマ達成を続けていたので、三万円ほどの現金が財布に入っていた。気分を良くしていたその日の夜にバイト仲間の二人にこっそり誘われて、会社から二十分ほど離れた彼の部屋とは反対方向になるが、街でも中心地区にある繁華街の居酒屋に三人で入った。彼は、居酒屋で酒を飲むのは久しぶりで、かなりテンションが上がっていた。彼は乾杯の後すぐにこう切り出した。
「慣れるとこの仕事、結構面白いですね」この言葉を聞いて先輩でもある二人は、呆れたように
「お前はこの仕事を会社が何のためにやっているのか知らないのか?」と驚いて聞き返した。
「ええっ、不動産の紹介じゃないんですか?空家の・・」と彼は聞き返した。先輩二人は顔を見合わせて、果たして言って良いものかどうかを迷っているようだった。
「お前、この辺りの不動産屋がどんな仕事をメインにしているのか知らないようだから、教えてやるよ」と意地悪そうな笑顔で彼らは米川に悪徳不動産屋の実態を面白可笑しく話すのだった。中身は彼らが報告した物件情報を基に、社員と部長で品定めを現地に行って実地に行い、持ち主を調べ出し、「必ず売れるから」と年寄りを騙して家のリノベーションをしたり、質の悪い物件をあまり相場や実態を知らない、その地域の若い夫婦に高く売りつけたりしている事を暴露した。米川は最初は驚きを隠さずに、
「それって、本当すか?」などと言いながら、途中からは手法を理解するために真剣に先輩バイト仲間の話を聞いた。米川は中学や高校や運動部の先輩との付き合いで、目上の連中の喜ぶ反応をよく知っており、このバイトの先輩たちから二時間程度の時間の中で凡その手法を聞き出した。 そして、飲み会の終わりには
「今日は先輩方に本当に色々教わったので、俺に奢らせてください」と言い、間抜けな先輩たちは
「おお、そうか悪いな。また、いつでも教えてやるよ。でも、このことは会社じゃ絶対バラすなよ」と米川の肩を抱きながら言うのだった。
彼らと別れた後に米川は
「これは面白くなってきたな。俺の得意な仕事が目の前にあるとはな。あんなバカな先輩に聞くことなんかもうねえな」と思った。飲み屋での先輩アルバイト達の話は要約すると以下のような内容で、米川は頭の中で何度も繰り返し、暗記していった。彼は決して馬鹿ではないのだ。
・中古住宅や中古別荘情報をライバル不動産会社より早くキャッチし、持ち主を探し出す
・中古住宅の持ち主には近隣での実績ベースの話や内密に開発計画があるとして、リノベーションをすれば中古物件も高く売れると吹聴する
・リノベーションを安く請負うと売り込み、リノベーションの工事を受注し、提携先の工事会社に安値で発注し利鞘を得る
・リノベーション後の中古物件は、優良物件ならば仲介販売するが、不良物件の場合はそのままほったらかしにする
・中古別荘の持ち主には、その近辺の別荘はこのままでは価値がないので高く売れないと信じ込ませる
・貸別荘を運営する会社に伝手があるので、そこそこ高値で買い取ると言って相場より安値で買取り、闇ルートで転売し利益を得る
・持ち家を持つ年寄りには開発計画が密かに動いていると嘘をつき、現在の家と土地を買取るので、リノベーションした別荘を売り込む
そして、田代のことを思い浮かべ、
「やっぱ、あの件を相談するなら部長だだな」と独り言を言いながら嬉しそうに家路を急いだ。七月の蒸しかえるような暑い日で、本当はいつも行く銭湯で一風呂浴びたいところだが、帰りが遅くなったので
「今日は風呂には入れねえが、気分良く眠れそうだ」と、暗い夜道で電灯に浮かび上がった彼の顔には、薄気味の悪い笑顔が浮かんでいた。彼には良い商談になりそうな物件の当てがあり、それをきっかけにアルバイトの身分から浮上したいと言う欲があったのだ。流石に汗ばんだ体で寝るわけにはいかず、風呂場で小さな盥に汲んだ水を何杯か頭からかけて、顔を石鹸で洗い、汗を流してから敷き布団にごろりと横になり、パンツ一丁ですぐに眠りについた。
翌日、米川は何食わぬ顔でいつものように出社し、いつものように場所を指定され空き家探しに出かけようとしたが、田代の姿を見かけ
「部長、今日は新規の地域を指定されたんですが、早くノルマを達成したら、気になっている家が帰り道にあるので、ちょっとそこに寄ってきても良いですか?」
と尋ねると田代は少し怪訝な顔をしたが、
「どの辺りだ?」
「俺の住んでいる家から山に向かったところに何軒も空き家がありまして、結構大きな屋敷もあるので調べて見たいんですが」
と答えるので、最近毎日ノルマを達成している米川の実力を認めつつあり、
「おお、いいぞ。帰ってきたら結果を直接俺に報告しろ。それからこれを持っていけ」と米川に会社の名刺を数枚差し出したのだった。名刺には会社の名前と住所と連絡先が記載されており、不動産の高額買取と格安リフォーム&リノベーションと宣伝文句が並んでいた。米川は
「部長、ありがとうございます。きっと良い知らせができると思います」と元気に答えて出かけて行った。田代はその後社長室をノックして入って行った。三十分ほど社長室にいたが、無表情で出てきてオフィスの外に出て、どこかに携帯で電話をしている様子だった。何を話しているのかは米川にも他の社員にもわからない。その電話の前に営業部長の田代と社長の小山は社長室でこんな話をしていた。
「社長、前々から我々が目をつけている麻山の婆さんのところに、あの小僧が行っているようで、そろそろ手をつけて見ましょうか?」
「おう、そうだな。しかしあの小僧、目の付け所が良いな。そろそろ社員にして本格的に鍛えてやるか?」
「そうですね、他のバイトと違って、ガッツもあるし、貪欲だし、意外と抜け目なく人付き合いもする奴ですね」
「高校まで体育会にいたので、多少の荒っぽい事は平気でやりそうだからな」と社長は満更でもない様子で話し、さらに
「ところで、麻山の爺さんはボケて婆さんが面倒を見ていると言う話だが本当か?」と田代に確認した。田代は即答し、
「はい、うちのかかあの話では、ほとんど外にも出ていないようです」
「あの爺さんがそう言う状態なら狙い目かもな。ほんの数年前までは、あの爺さんは一族の長老であちこちに目を光らせていたので、手の出しようが無かったけどな。耄碌したのなら今が狙い目だな」 と社長が話すので、田代は
「あの小僧を連れて近々様子を見に行ってきます」と威勢よく話すので、社長は
「くれぐれも慎重にな。『腐っても鯛』と言うしな、老いても麻山だからな、お前の『耳』からも情報を入れておけよ」と普通の仕事の会話に気になる事を挟んだ。二人の会話はその後も続き、どこを狙うかと言う話とターゲットの責めやすさや弱みに関することが中心で、社外の人やターゲットにされた人たちが聞けば聴くに堪えないことばかりであった。まさに悪事はここで練られていたのだ。
そして田代は社長室を出るとオフィスの外に出て、社長が『耳』と呼んだ男に携帯で電話をかけた。その男は業界筋の情報屋らしく田代からの電話に下卑てくぐもった声で電話に出た。
「もしもし、田代さん、お久しぶりで。そろそろ電話があるんじゃないかと思ってましたよ」
「ほう、それは勘が良いことで、さすがは情報通。最近はおとなしいようだが、地下に潜っていたのか、どれとも塀の中にいたのか?」
「まさか、人聞きの悪い。ところで、どんな相談ですか?」
「実は、例の一族の事だけど、何か動きはあるかい?」
「いえ、特にないですね。お館と呼ばれる例の爺さんが妹の所に世話になっているのはご存知ですよね」
「ああ知ってる。ご近所だしね」
「なるほど、そろそろ仕掛け時と言う話ですか?」
「ああ、他所でなんか動いてたりしてないよな」
「ええ、ないと思いますよ。あそこは昔からアンタッチャブルと言われてますから。一応、調べて見ますけど」
「ついでに、最新のあの一族の状況も教えて欲しいんだけど」
「もちろんそれを含めて調べますよ。感づかれて絞められたら怖いんでね」
「それじゃ、よろしく頼むよ。前金はいつもの口座に入れておくよ」
「ええ、わかりました」と言って通話は終わった。以前から彼らはアンタッチャブルと言われているある一族の土地か家に狙いをつけていたようだった。
その日、米川は指定地域へ早歩きで向かい、早速空き家探しを始め昼飯もそこそこにノルマ達成に向けて必死に歩き回った。午後の二時には早くもノルマを達成し、気になっていた空き家に向かった。そこは、米川の部屋のある場所からさらに山側に三十分ほど行ったところで、休みの日に散歩している時に見つけた数件空き家が続く地域だった。一番奥に空き家ではない大きな昔の武士の屋敷のような家があり、米川はそこが数件の空き家の持ち主だと睨んでいた。早速、一番奥の立派な建て付けの屋敷の前に行き、家のチャイムを鳴らした。三回ほど鳴らすと玄関のドアがガラガラと開き、中から品の良い老婆が出てきた。米川は満面の笑みを浮かべ、名刺を差し出した。
「私はこの辺の地域を担当しています。黒須不動産の米川と言います。ここらの地域の人にはいつもお世話になっています」と、先日飲み屋で先輩アルバイトから聞いた話を基にどこで覚えたのか、かなり流暢な営業トークを始めた。
「おばあちゃんはお一人でお住まいなのですか?」と聞くので、その老婆は米川の笑顔に気を許したのか
「いいえ、もう一人爺さんと一緒に住んでいるよ」と話し「それがどうしたんだね」と米川に尋ねた。米川は早速営業トークを始め、空き家を高額で買取れることと古くなった家のリノベーションを安くできることを訴えた。老婆は
「へえ、この家だけでなく、この一帯のボロ屋も買ってくれるのかえ?」と言うので、
「もちろんですよおばあちゃん。今日は無理だけどうちの会社の偉い人と今度来ても良いかな?」と誘うと、
「ああ、良いけど。あんなボロ屋が売れるのか?」と再度聞くので、米川は
「このままじゃ売れないから、綺麗にしてから売れば、ここは人気のある地域だから高く売れるよ」と気安く話した。
「それに、おばあちゃんの家も結構古くなっているので、特別に安くリノベーションって言うんだけど綺麗にできるよ」と話し、少し声を小さくして
「ただ、ライバル会社に聞かれるよくないので、ここだけの話にしておいてよ!」とダメ押しのように話すと、老婆は
「そうか、そうか、なるほどね、じゃあ今度いらっしゃい」と言ってドアを閉めて家に入って行った。
「よし、これで部長に報告できる」と米川はほくそ笑み、意気揚々と会社に帰っていった。
会社に戻った米川はいつも報告する中年社員を飛ばして、田代部長に
「部長、報告があります」と言うと、田代が奥の会議室を指さすので、米川は少しいつもより胸を張って中に入って行った。米川は田代に老婆の住む家と数件の空き家の話と、撮った写真を見せながら、老婆との会話を掻い摘んで話した。田代は少し驚いた様子だったが、最近の米川の成長ぶりを見ると嘘ではないことを理解し、
「そうか、米川、良くやった!早速、明日にでも現地調査に行こう。お前、案内できるよな」
「はい、もちろん出来ます」
「ところで、その婆さんの家の名前は?」
「『あさやま』さんです」
「写真はあるか?」
「いえ、表札の写真はまずいので撮らなかったんですが、よく見る漢字の『麻』と山の字でした」
米川はその家の表札を見ていたが、草木の麻と山と書いてあった。彼はそれを「あさやま」と読んだ。まさかあの戦国時代から続く、名族の麻山一族の末裔の家だとは思わなかった。そして、この家をターゲットにした事で、彼と彼の会社が虎の尾を踏むことになるとは知る由もなかった。この一族は普段はあまり目立たないように、ひっそりと生きながらえていたのだが、その存在を脅かすものには、平然と牙を向くのが彼らの流儀だった。そう、知らないうちに彼らは麻山一族を怒らせてしまう事になるのだった。
会議室を出た後にいつもの報告を中年社員にすると、中年社員は
「部長に何の報告をしたんだ」と米川を睨みながら詰問口調で質問してきた。米川は内心「このクソが」と思いつつ、
「ああ、あれは部長に頼まれていたことを報告しただけです」と答えると、中年社員はそれ以上は追及できず引き下がった。米川にとってこの中年社員は眼中になく、相手をするのも、もうしばらくの辛抱だと思っていた。彼は、これまでの経験で人付き合いのずるい手法を身につけていた。
翌日、米川はいつものノルマを特別に外され、部長の田代と同行することになった。いつもは歩きかバスを使って行くところをその日は社用車で行くこととなり、米川はちょっと偉くなったような気分でいた。その様子を例の中年社員は睨むような目つきで横目で見ていた。運転は道をよく知る田代がしたので、米川は助手席で少し恐縮しつつも田代に愛想良く
「部長に運転してもらって、すみません。まず、私のお借りしている家の方に向かってもらって、その後は家の裏の山に向かう道を登って行きます。多分車なら家から十分ぐらいで着くと思います」
「おう、わかった。今日のことは社長にも言ってある。感心していたぞ」
「ええっ、本当ですか?嬉しいなあ。俺もっと頑張ります」と、米川は内心ではペロッと舌を出しながら、殊勝なふりをして答えた。予想通り会社を出て、二十分ほどで現地についた。米川は昨日と同じように一番奥の屋敷のチャイムを鳴らした。この時、田代はとっくに知っていた。そう、ここはあの麻山一族の家で族長であるお館が妹と共にくらしているということをだ。二度ほどチャイムを鳴らすと奥から昨日と同じく老婆がドアから出てきた。米川は笑顔で
「おばあちゃん、おはようございます」と挨拶すると、老婆は
「ああ、昨日のにいちゃんだね。今日は会社の偉い人を連れてきたんだね」気さくに答えたので、田代はすぐさま
「私、黒須不動産の営業部長の田代と申します。よろしくお願いいたします。うちの米川が昨日ご挨拶をさせていただいたようで、大変ありがとうございます」
「いえ、いえ、このにいちゃんがうちのボロ屋でも高く売れると言うので、少し話を聞こうかと思ってね」 と米川にかなり気を許している様子で
「まあ、まあ立ち話もなんなので、玄関で申し訳ないけどお入りなさい。部屋に入れると寝ている爺さんがうるさいんでここで勘弁してよ」と引き戸の内側に入れてくれた。引き戸の内側の玄関はとても立派で、上りまで三メートルほどあり、高価な作りの下駄箱があり、片側には明かり取りの茶色のサッシ式の窓があり、天井には行灯のようなデザインの電灯が付いていた。玄関からは長い廊下が見え、人の気配はせず老人二人で住んでいるらしく静まり返っていた。米川はキョロキョロとそれらをみて感心しきりだったが、田代は流石に落ち着いており、老婆に
「流石は名高い麻山様のお宅ですね。全ての作りに気品があり、ご立派ですね」と切り出したので老婆は、
「あら、うちのことをご存知で」
「もちろんですよ、この地域で麻山様を知らないものなどいませんよ」
「そうですか、うちは麻山と言っても本家ではない分家なんですよ。主人は入婿ですが、昨年亡くなったので奥で寝ている兄と一緒に住んでいます。兄は本家の長男で以前は一族のボスみたいにして威張っていたけどもう年でね」
「そうなんですか?宜しければお兄様にはご挨拶はできますか?」
「いえ、もう歳でね。最近では寝たきりで、私が面倒を見ています」
「そうなんですか、大変ですね」と、話が進むのを米川は横でポカンとして聞いていた。「そうなんだ、このばあちゃんはただものではないんだ」
老婆が言うところでは、この一帯には麻山家の分家の家族と昔の家来筋が住んでいたが、皆この数十年で地元での仕事が激減し都会へ出て行ったため、五件の家が空き家となっており、すべて、分家とは言え本家筋のこの老婆が管理する事になったそうだ。本家の屋敷はここから車で二十分ほどの昔からの里に残っているが、そこも似たような状況で、古い日本式の家屋が数件残っているが、半分は空き家だそうだ。それに対して、田代は話を親身になって聞くようなそぶりながら、「中古家屋はそのままでは売れないので、リノベーションやリフォームして高く売れること」を抑揚のない調子で話し、この屋敷のような立派な作りの家は、今後の事を考えてバリアフリーにすることを勧めた。結局、途中で老婆はお茶とお茶菓子まで出してくれて、話はかなりトントン拍子で進んだ。
米川は田代の話を細大漏らさず聞いて吸収しようとして真剣に聞いたので、ほぼ同じような話ができると感じていた。田代は最後に来週にでも詳細な調査をしに来るので、ここにサインをして欲しいと書類を出した。そこには、仮申込書と書いてあり、詳細な部分は白紙となっていた。老婆には詳細は今度調べてから記入するとの説明なので、気安くサインをした。米川は田代のニヤリとほくそ笑む心を感じ取った。そして、丁寧に老婆に挨拶をした後、屋敷を後にした。車の中で田代は
「米川、これは良い取引になるぞ。こっちはさほど金は使わないけどな。さあ、社長に報告だ」と言って、米川の肩を叩いた。
「いやあ、部長、流石ですね。お婆さんのハートを捕まえていましたね。尊敬しちゃうなあ」と田代を褒めまくった。内心、今度は自分でもあの程度の話ならできるとも思いつつ、田代を持ち上げることにした。程なくして、会社に着いて田代は米川を伴って、社長室のドアをノックした。
「田代です。報告があります」すぐに部屋の中から
「おう、入れ」と社長の太い声がして中に入った。社長は田代の横に米川が同席していることに気づき
「お前も一緒か?」と尋ねるので米川はドッキリするが、田代は
「こいつの手柄でもあるので、同席させてもよろしいですか?」と丁寧に言うと、社長は少し笑い
「おう、田代がそうしたいのなら良いぞ」と言うので、米川はほっとして、
「よろしく願いします」といつもの体育会的な調子で挨拶した。
田代は状況を掻い摘んで説明し、社長の反応を待った。社長は一言、
「それは、ゴーだな。ただ、あの一族のことをもう少し調べた上で、来週、俺に報告しろ」と、田代に指示をした。田代は
「はい、わかりました」と神妙な感じで頭を下げた。米川は社長と部長の間にも結構大きな身分差があるのを感じた。社長は次に米川の顔を見て、
「お前、ウチで社員になって働くか?」と言うので、米川は反射的に
「はい、働きます。一生懸命やりますので、よろしくお願いします」と答え、社長の顔を見た。顔の表面では笑っていたが、本当の心のうちはよくわからないような表情であった。田代はその様子をみて頷いていた。米川は社長室を出たが、田代はそこに残った。
米川は今日の話は先輩社員に報告する必要がないので、「よし、これで俺も社員だ。あのバイトどもの上になったぞ」と会議室で缶コーヒーを飲みながら心の中でニヤリと笑っていた。米川はこの会社で働くようになり、早いもので三ヶ月が経過し八月の半ばとなり、高地では秋の気配が漂う季節となっていた。ちなみに米川はこの後社員となり、月給二十五万円をもらえるようになった。家賃はかかからず、特に遊びに金を使うでもないので、毎月貯金ができる額であった。




