第38話 結城、戦争の準備はじめる
いつも読んでいただいてありがとうございます。
それでは、、はじまり、、、はじまり、、、
1901年4月のある日
旅順港
ロシア軍随一の要塞築城の権威ロマン・コンドラチェンコ大佐
私は旅順要塞建築責任者として赴任してきた、、前要塞築城責任者が予算を私的に流用したりしていたため、旅順要塞の主要部分は未完成であった。
その罪は重い、、おそらく銃殺刑だろ、、、今日現場を視察してきた、、その様子を見てあぜんとした私は同僚に宛てて「何処に要塞があるというのだ。旅順には要塞と呼べる施設は何処にも無い」としたためた手紙を書いた。
それから私は計画を港湾を囲む山々に本格的な永久要塞、主防御線はコンクリートで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行えるように建築計画を立てた。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副砲が旅順旧市街を取り囲むようにした。
海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するよな設計計画を立てた、、完成までは3~4年はかかるだろう、鉄道もここ旅順から大連、、奉天そしてウラジオストックからシベリア鉄道で祖国ロシアまで、、工事がもう始まっている。
ここにロシア最強の太平洋艦隊の主力艦根拠地母港としてそして最強のロシア狙撃兵師団、4万4千名が立てこもる立派な要塞を作るつもりだ、、、、、フフフやりがいがあるぜ。
日本のサルどもが攻めてきたらここはお前らの墓場にしてやる、、
1901年6月のある日
俺は前に陶磁器を大量に作っている会社を訪ねて、とても固い素材セラミックと言うものができないだろうかと大まかな製造方法を書いたものと開発資金を渡して頼んでいた、それがついに完成したのである。
このセラミックとステンレスで防弾プレート作るつもりだ、ヘルメットもそうだがどうしても金がかかる、、、俺は経済界の大物、渋沢先生にこっそりあと2~3年したらロシアと戦争が始まる事を教えた。どうしても兵士の負傷を防ぐにはヘルメットや防弾の装備が必要で金がかかるので業界で募金かなにか金を集める方法を相談した。
すでに国内では満州や大連でロシアの南下政策が大きく報道されていた。新聞では戦争でロシアを懲らしめてやれ!と強気な記事で国民を煽っていた。、、
渋沢先生は防弾について全くわかってくれなかった、、防御ということについてはこの時代の人間はよくわからないようだった、、、俺は渋沢先生に203高地という親父のコレクションのDVDをみせてあげた。
これは大成功、、、、、先生は鼻水をたらして泣きながら「あんなに、、あんなに兵隊さんが死んで行くのか、、恐ろしいのう、ロシアの機関銃でみんな死んで行く、、、結城何とかならんかの、、」
だから~前にも言ったでしょ~が、、その為にヘルメットと防弾チョッキを作るから業界から金を集めてほしいてお願いしたでしょうが~、、、
「この為だったのか~、、、国は国を動かせばいいんじゃないか~」
「あの~国はこんなもん、作らないと思います、、お金がないんですよ、、軍艦と鉄砲と大砲それに弾、、何十万の兵隊さんの給料に装備、、金がなくてこれからいろんな国に借金をしに確か、高橋是清さんが戦争がはじまるとすぐいくはずです、、、それに僕たちも用意するのはこの旅順要塞を受け持つ第三軍5万人分をこれから2年半かけて準備したいですよ~、、、なんとかなりませんかね~あとでいくら位かかるか、見積もりをだしますので、、、、足りない分は五条商会からもだしますから、、毎月、、ちょっとづつ戦争準備金かなんかでの積み立てでもできませんかね、、、、、
「よ~し分かった、、財界関係者の会合のとき聞いてみるわ、、見積もりを急いでくれ!」
俺はまた川崎にある製鉄所の江崎満吉社長に会いに行った、、彼の会社はステンレス鋼の開発に成功してステンレス専用の炉を増やし増産を始めた。すでにいろいろな業界で使われ初めてきた。、俺もこの素材で洋食器の生産を新潟の三条の商人に頼んでいる、売り上げは順調だ
俺はヘルメットの話しをした、ミリタリー雑誌から大まかにわかるような画像を選び白黒でコピーして大まかな寸法を記入してきた、、これはイギリス軍が第一次大戦と第二次世界大戦で使用したブロディ・ヘルメットと呼ばれる鋼鉄製戦闘用ヘルメットである。その形状から味方からは洗面器、ドイツ軍からはサラダボールと言われたものである。
おれはなぜこれにしたかと言うと第一次世界大戦初頭、日露戦争のように多くの国では将兵に鋼鉄製ヘルメットを支給していなかった。大抵の場合、前線の将兵は近代的火器に対してあまりに非力な布製の帽子を着用していた。その為、前線では頭部を負傷する兵士が大勢発生しており、事態を深刻に受け止めたイギリス陸軍は1915年に初近代的鋼鉄製ヘルメット開発に踏み切ったわけ、
俺はあとでヘルメットを回収して英国に中古品で売ってやるつもりさ、、帝国陸軍が採用してくれればそれでもいいかな~と思っていた。江崎社長と話し始めた、榴弾が通らない鋼鉄製にしてもらわないといけない、、その内容はすぐ決まった。
型を作り鉄板から打ち抜き、、切り込んだふちを仕上げ、そのあと、あごの皮ベルトを取り付けるという事になった、「どんくらい作んの~と」と江崎社長が聞いてきた、、「5万個」と答えた。じ~と俺をみて「どっかで戦争でもおっぱじめんのかよ、、、」とみやげのまんじゅうを食いながら聞いてきた。
俺はそれには答えず、、「それで(5万個)はおいくらでしょうか、、、」とおそる、、おそる、、聞いた。社長はそろばんを出してきて、、パチパチ、パチパチ、何度も計算してそのそろばんを俺に見せた、、、俺は、いち、じゅ、ひゃく、、、と位を数えて、、最後に白目をむいてしまった。
社長の奥さんがお茶をどうぞ~と言って持ってきた、俺は落ち着きお茶を飲んだ、、さっちゃんのほうがおいしいと思いながら、この見積もりを書面で下さいとお願いした。
あとステンレス鋼の板とセラミック板を組み合わせていろいろな防弾プレートを作ってみた。渋沢先生が東京の第一師団にお願いをして防弾プレートへの試射をしてみたら、、厚さ20mmのセラミックに2mmのステンレス鋼で挟む様にしたら一番効率がよかった。
中のセラミックはひびが入ってダメになるが貫通はしなかった、、面で弾の勢いを受けるので肋骨は折れるかもしれない、、おそらく気絶するほどのダメージがあるかも知れないがそれでも死にはしない、
釣りの時に着る様な大きめで丈夫なベストを作り体の致命傷になる部分にポケットを作って右胸と左胸専用の形状にした防弾プレート各1枚、、腹部も同じように右腹と左腹と分けて背中も少し小さめにしたが同じように防弾プレート入れて完成した。太腿部も走るのに邪魔にならないよう厚さ5mmのステンレス板を湾曲させ丈夫な生地で袋を作り3本のベルトで止めるものを作成した。下腿はあきらめた。それを5万人分の見積もりを作ってもらった。
渋沢先生の尽力もありロシアの南下政策に国家存亡の危機を感じていた大手企業多数が協力することになった。そしてヘルメットと防弾チョッキは少しづつ生産を始めたのである。
1901年9月のある日
陸軍軍医学校、3年生の教室
”尚美”
”よ~し、、みんなそろっているか~、、最初の授業を始めるぞ、、、はいこの資料を後ろに配ってください、、、、
いいですか、、はじめますよ~、、、人にはそれぞれ血液型が決まってます、、それは四つの型、、覚えれよ~A型、B型、O型、、AB型だ~
エ~、、初めて聞いたって、、だから教えにきたんだろが~!、、ちゃんと覚えろ!、、これから戦場で傷ついた兵士への輸血について教えるが、、、
人にはこの四つの型があるから違う型の輸血をすると拒否反応で亡くなってしまう、、、、、同じ型同士で輸血をおこなわなければいけないが、、
なに~どやって分かるかって、、まず最後まで聞けよ~
これからはお前たちが全国の兵士の血液型をしらべるだよ、、、そのための検査試薬は日帝大医学部、薬物学ですでにできている、、今日それを持って来ているので後でみんなの血液型をそれぞれ調べるんだ、、、調べたあとどうするって、、、、お前たちドック・タグて知っているか、、
おっ、、そうだよ、、犬の首についてる名札だよ、、よくわかったな~、、、えっ、、愛犬がいるのか、、迷子になった時の連絡先がかいてある、、、
それだよ、、それ、、戦場でバタバタ死んでいく兵士の身元がわかるように首からぶら下げるタグ、所属部隊、認識番号、氏名、そして血液型をいれるのさ、、
えっ、、認識票があるの、、兵隊さんはみんなつけているって、、、、それじゃ~話しは早いこの血液型を調べてそこに記載してもらおうよ~、、
負傷して運ばれた兵士に輸血が必用なときそれを見れば何型かわかるだろ、、近くにいる兵士で元気なやつから同じ型の血を注射器でとって急ぐ時はそのまま負傷者の血管に注入するんだよ、、わかったか~ えっ、、誰がこの認識票に血液型をいれるのに陸軍の上層部に了解を取るって、、、
学生代表で私にケンカを売った、、阿部君、、、阿部勝之助君いるよね~、、あっそこにいた、、君のお父さん、、てなにやってんの~
えっ、、陸軍参謀本部の課長を、、すごく偉いじゃん、、ねぇねぇ~この血液型について~、、ほら、わたし、、おなごでしょ、誰も相手にしないじゃない
えっ、女じゃない、鬼だ、だれじゃ!!、今、言った奴、廊下でたってろ!
それで~このクラス全員で考えました~て言ってさ、、あんた好きジャン~学生代表、、お父さんに言って軍で採用して頂戴、、きっとお父さんも喜ぶよ~4つある血液型のこともよく説明してね。これまだ世界でもあまり知らないからさ~、、お父さんもびっくりするかもね~
えっ、やってくれるの~、ありがとう、このあいだの事は忘れるからね~、、がんばってね~、、あっこの資料使っていいからね。
それじゃ授業つづけるよ~、、、、、
このあと、日本帝国軍人が世界で初めて兵士の認識票へ血液型も記載されることなった。これにより戦場で迅速に輸血ができるようになり手術中や銃創での出血多量で亡くなる兵士も減ったのである。
日露戦争でやってきた観戦武官がこの認識票をみて初めて血液型が4つある事を知り世界中の軍が日本のさるまねをしたのである、、、、
ちなみに五条商会は判定試薬で大儲け、、、、、
つづく、、、、、、、
実際の史実では、、、
1900年、オーストリアの医学者カール・ラントシュタイナーによって初めて血液型が発見され、型名は「A型、B型、C型」とされた。
1902年、第4の型が追加発表された
1910年、第4の型にAB型という名称が与えられ、「C型」とされていた型の名称はO型に変更された
これにより血液型が A型, B型 AB型、O型の分類分けができたのである。