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18 水鏡

 ――あなたは取り返しのつかない間違いを犯した。


 目の前の人物に懇々とそれを説明しようとしたまさにその時、ロクサーヌは突然正気に戻った。いや、正確には、みるみるうちに義憤やら規範意識やらが萎んで消えた。


「せっかくの逢瀬だというのに、あなたは気もそぞろのようだね。もう私に飽きてしまったのかな、ロクサーヌ?」


 その甘い言葉に、そして断りもなく隣に席を移して肩を抱いてくるアルベールの態度に怒りを覚える。しかしそれは薄皮で隔てられたように鈍く、遠い感覚だった。そしてこの怒りも地面にこぼれた水のように痕跡だけを残し、どこかに吸い込まれて消えつつある。同時に〝王子サマ〟の不埒な手を除ける気力も失せた。

 あのシモーヌとの出会いから七日、ロクサーヌはリリアーヌが気味悪がるほどに彼女曰く「まともな」生活を送っていたのだが。元凶を前にしてやっと目が覚めた――いや、正確には無気力に戻った今となっては、アルベールへの憤りやらシモーヌへの同情で血迷っていたとしか思えない。我ながら流されやすいと嘆くべきか、己に良心が残っていたことを喜ぶべきか。


「……わたし、あなた様には言いたいことが山ほどあったような気が致しますが、何だかもう面倒になってまいりました」


 きっと、七日間の反動が今現れたのだ。寝酒も迎え酒もなしで、朝目覚めて夜眠るという生活を続けた無理が祟っているに違いない。ロクサーヌはひとりで納得すると、客であるアルベールのために開けたワインを自分の酒杯にも並々と注いだ。傍のアルベールはそれを面白そうに見ているのが小憎らしい。


「私への愛の言葉ならば、いくらでも受け取るけれど……先ほどのあなたの様子を見るに、きっと違うのだろうね」


「あら、そのように見えましたか? 申し訳ございません」


 頬に手を当てて殊勝に謝るロクサーヌだが、空いた方の手にあるワインは離さず口元にもっていく。もはや素面でいる理由などない。

 一息に酒をあおると、心地よく体が温まってきた。そして頭も程よくふんわりしたところで、ロクサーヌはアルベールの腕を引いた。突然不躾に触れられた〝王子サマ〟は、体を強張らせるどころか笑顔でロクサーヌの腰を引き寄せる。王族でありながら無防備に過ぎる――などと思考の彼方から訴えかけてくるのは、今しがた放り出したロクサーヌの良心の残滓だろうか。


「――殿下、なぜシモーヌ様と情を交わしてしまったのですか? 彼女はわたしのような娼婦とは違い、何一つ割り切れていないご令嬢なのですよ」


 正面から非難されているというのに、アルベールは笑顔のままだ。その上幼児を宥めるように背をぽんぽん叩かれたので、さすがにロクサーヌも閉口した。

 アルベールの体を押しやって目を合わせると、不思議なほど静かな眼差しを向けられる。その表情が彼の兄に驚くほど似ていることに気づいてしまい、ほろ酔いの頭が冷えてしまった。


(この子が、このような目をするだなんて)


 ぞくりとしながら胸中で呟くロクサーヌだが、決して手に入らなかった男を目の前のアルベールの中に見出したことに、仄暗い喜びと怒りを感じていた。

 ただただ享楽的で、笑みを絶やさぬ貴公子。そんなアルベールを簡単に受け入れ体を許したのは、彼が少しも似ていなかったからだ――かつての婚約者だった男に。

 あの男の弟が娼婦に溺れて不名誉な噂をささやかれることで、溜飲を下げていた。それなのに、己の心の蓋を開けてみれば、未だにテオドールへの未練が消えていないのだ。その思慕はもはや歪みきった醜い執着に過ぎないというのに、手放せないでいる。それらがアルベールに見透かされそうな気がして、ロクサーヌは俯いた。


 テオドールと再会した時の、あの煮えたぎるような激情は、憎しみだと思っていた。しかしあの熱は、ただ彼を憎み呪うだけでは得られないものだったのだ。再び(まみ)えたあの時にロクサーヌが彼に口付けたのは呪いであり、同時にテオドールに自分の存在を刻みつけたいという願望も含まれていた。それが叶ったことは、唇を離した時の彼の表情で分かった。あの、歓喜とも怒りとも形容し難い感情の根源が何であるのかを、深く考えないようにしていた。その必要もなかった。

 ――忌々しかった。


「……ヴィクトリーヌ」


 かつての名を呼ばれ、ロクサーヌはぎくりと肩を震わせる。テオドールよりも、ずっと柔らかい声だ。アルベールの腕を必要以上に力を込めて掴んでしまっていたことに驚き、そっと手を離すと、彼は薄く笑みを浮かべたままロクサーヌを見つめた。


「ヴィクトリーヌ、あなたは今、誰のことを考えていた?」


「そのようなこと、言わずともお分かりでしょう? シモーヌ様のことです。ああ、それとも、違う意味での問いかけなのであれば、わたしの心には誰もおりませんとお答えしますわ」


「嘘だ」


 切って捨てるようなその言葉に、ロクサーヌは目を見開いた。狭いソファの上で距離を詰められ、顔を上向かされたロクサーヌは、観念してアルベールを観察した。

 成長してからの彼と知り合って長くはないが、このような物言いをしたのは初めてだ。アルベールはなぜロクサーヌの態度に苛立ったような顔をするのか。身内でもないロクサーヌがシモーヌのことに口出しをしたことで、機嫌を損ねたのだろうか。


「ヴィクトリーヌ、あなたの問いに答える代わりに、私から離れぬと誓えるかい?」


 捨てた名で呼ばれるのは気に入らないが、特に拒む理由はない。ロクサーヌが頷くと、アルベールは淡々と話し始めた。


「私がシモーヌを愛妾とし、マリアンヌを正妃とする理由はね……どちらも同じくらい愛しているからだよ。シモーヌは決して私を見限らず裏切らない。そしてマリアンヌも決して私から離れないが、その矜持の高さ故に愛妾にはならない。そんな二人を手に入れるために、私は兄と同じ愚を犯した」


「……そこは、マリアンヌ様を愛妾とすることで収めていただきたかったですね」


 やはり理解できない。するとアルベールは、困ったように「自分でもそう思うよ」と笑った。その他人事のような表情に、ロクサーヌはため息を落とす。


「でもね、ヴィクトリーヌ。私が決して裏切らず離れていかない女性を求めるのは、あなたのせいだよ。姉のように慕っていた優しい女性が突然目の前から消えてしまったあの日、私はとても怖くなった。王家に連なる人間である限り、きっと何度でもあのような思いを味わう事になるのだと理解したから。そして、そんな私を支える存在は多ければ多いほど良いと確信しているんだ!」


 アルベールの顔は真剣だった。幼かった彼にしてみれば、歳の離れた〝ヴィクトリーヌ〟からの無償の好意は、その内実が何であれ心に深く残るものだったのだろう。妖精のように儚げで、不安そうな目でこちらを見上げてきたあの子供が、今目の前で己の不実を堂々と主張している。たくましくなったものだ。それでも、彼の本質は長じた今も変わらないのかも知れない。

 末の王子であるアルベールは、国王夫妻から距離を置かれていた。当時は(いとけな)い子供にただ同情して、彼の周囲に侍る者は多くいたので深刻に考えなかったが……彼が王太后のお気に入りだったことが、両親から遠ざけられる大きな理由だったのだろう。テオドールにかまけて遠巻きにされていた〝ヴィクトリーヌ〟はそれを知らなかったからこそ、アルベールと親しくなった。今さらながら、遠回しに慎むように忠告した当時の父は、さぞ心配したのだろう。


 思い返すと、貴族達は王妃の顔色を窺ってアルベールの機嫌を取る者と、慎重に距離を取る者に別れていたように思う。そんな中で育ったアルベールが刹那的に生きるようになったのは、彼なりの身の守り方だったのだろう。


「アルベール様、もしもお二人への愛がどちらか一方に傾いた際は、どうなさるおつもりで?」


「そのようなことは起こらないよ」


 一蹴され、ロクサーヌは苦笑する。

 アルベールは、二人の令嬢の心が離れぬように、互いが競い合うよう仕向けた。マリアンヌを焦らすために彼女を丁重に扱い、シモーヌを繋ぎ止めるためにその身を暴いた。そうして「決して裏切らない」彼女らを手に入れた果てに、あなたの寂しさはいつか癒されるのか。

 その問いかけを、ロクサーヌは言葉にしなかった。すると、アルベールが痛いところを突いてきた。


「唯一と思い定めた男に裏切られたあなたならば、分かるだろう?」


 私が何を憂えているのかを。そう言っておどけたように笑っているが、アルベールの白皙の面は途方に暮れた迷子のように見えた。


「……マリアンヌ様とシモーヌ様を天秤にかけることは、悪ではないと思いますよ」


「そうかな。たった一人を愛するよりも、よほど心の平穏を保てるのに? ――ああ、愚問だったね。兄上だけを想い続けたあなたに問うても、私の望む答えなど得られるはずもなかった」


 ――兄上(テオドール)だけを。

 心の奥を探られた不快感で、眉間に皺が寄る。反論しようとしたその時、アルベールが顔を寄せてロクサーヌの口を封じる。深く合わせた唇を離すと、アルベールは哀れんだような顔で言った。


「やはりあなたは、ロクサーヌになっても兄上を愛しているね?」


 その問いかけに、ロクサーヌは乾いた声で否と答えた。それでもアルベールの緑の目から、哀れみの色は消えなかった。

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