19 水際
久々に仕事をしていたはずが、気付けば見知らぬどこかに閉じ込められている。なぜこんなことになったのかを思い返してみても、客からの好意で一杯ひっかけてふやけた頭は回らない。
考えて考えて、ロクサーヌはようやく思い出した。
やや頭髪の薄い客を押し倒して事に及ぼうとしたところで、意識が途切れたことを。奢られた酒に何かを仕込まれていたのかも知れない。だからここがどこなのか、劇場の外なのかも分からなかった。
室内は煉瓦づくりの頑丈な壁に囲まれており、板戸が唯一の出口だ。窓ははるか上に、これも一つのみ。頭上から細く差し込んでくる月明かりだけが頼りだ。ここには生活の気配は全くない。開口部がなくひんやりとしているので、倉庫なのかも知れない。
一通り観察してから、ロクサーヌは首を捻って自分の手首にかけられた縄を確かめた。後ろ手に厳重に縛られており、自力で解けそうにない。ただ、時々いるそういう趣味の客の手による綺麗な仕上がりとは違う。とにかく幾重にも巻いて補強したという風なので、手慣れた者の仕業とも思えない。人さらいの習熟度など、考えても愉快ではないが。
「――ねえ、ここから出してくれない?」
助けを求めても、応答はない。加えて壁に打ち込まれた鉤に縄で繋がれているので、脱出は無理だ。そして今日のロクサーヌはオリオールに無断で表に出ていたので、彼の助けは期待できないだろう。
早々に諦め、ロクサーヌはぺたんとその場に座った。本当はこんな砂埃にまみれた床になど腰を下ろしたくないのだが、立ったまま体力を消耗するよりは良い。
ロクサーヌは、いつか誰かから害意を向けられることになるとは思っていた。しかし、このような直接的な形とは予想していなかった。いくら娼婦といっても、人ひとりが消えるのだ。騒ぎになることは免れないだろうし、そこまでして一体誰が得をするというのだろう。
セリーヌにテオドール、そして王太后の顔を順に思い浮かべ、ロクサーヌは肩をすくめた。過去の汚点の象徴である〝ヴィクトリーヌ〟がいよいよ鬱陶しくなったのだろうが、彼らのうちの誰の仕業にしても乱暴な気がする。彼らならば、もっと穏やかな手法を選ぶはずだ。
例えば、標的の日々の食事に少しずつ毒を混ぜるなり、不慮の事故を装うなりできるだろう――彼らが望みさえすれば。だからこんな風に身柄を押さえてどうするつもりなのか、見当もつかない。
今のロクサーヌに分かるのは、実力行使に出た誰かの意思によって、無力な女の命はここで消えるということのみだった。
きっと今日のうちに始末され、翌朝、薄汚い路地か溝川かどこかで身元の分からない女の死体が見つかり、教会で処理されるという寸法だ。自分の末路がありありと想像できてしまい、虚しくなる。
それでも、とロクサーヌは心中で反論する。貴族だった〝ヴィクトリーヌ〟よりも無力なはずのロクサーヌだが、王太子夫妻の拭い去れない汚れた過去として彼らの記憶に続けるだろう。お綺麗な仇敵がこうして殺意を露わにするほど、不快にさせることができたのだから。
ただ、死ぬ前においしい酒を好きなだけ飲みたかった。そんなことを考えながらその時を待つうちに、うとうとしてしまったらしい。いつの間にか閉じていた目蓋の向こうに光を感じて、ロクサーヌはのろのろと頭を起こした。
すると、誰かが何事かを話しかけながらロクサーヌの顔に明かりをかざしてくる。思わず顔を背けると、
「――おい、顔を見せろ」
命じられ、ロクサーヌはしかめっ面で声のする方を見上げた。手燭を掲げ持つ男の顔には見覚えがあった。バーカウンターで取ったあの客だ。しかし、すぐにその男の隣に立つ水鳥のように優雅な人影の方に目が行った。
「シモーヌ様。なぜ、あなたが?」
名を呼ぶと、外套を着込んだその人物がたじろいだ。しかしそれは一瞬のことで、侍女らしき女を従えてつかつかと近づいてくる。やはり、シモーヌに間違いない。顎から首にかけての美しい曲線も形の良い耳も、あの夜のままだ。
「なぜ、ですって? あなたはわたくしを救うと言っておきながら、アルベール様との仲を邪魔立てしているではないの。わたくしを受け入れると約束するまで、無事に帰ることができると思わないで」
「受け入れます」
即答するロクサーヌに、シモーヌは目を白黒させ――激怒した。柳眉を吊り上げ、勢いよくロクサーヌの頬を打つ。
「わたくしを馬鹿にしているの!」
どうも話が行き違っている。それも、アルベールのせいで。
「わたしはシモーヌ様を見捨てたつもりなどありません。アルベール殿下と話し合う時間をいただいた上で、先日改めて了承いたしましたが……殿下からのお話は未だないようですね」
思い詰めたこのご令嬢は哀れにも、自分がどれだけ馬鹿なことをしたのかも自覚せず、アルベールの願いを叶えようと必死なのだろう。あの王子はこの健気な人の愛を試して振り回すのだ。
気晴らしにバーカウンターに出たというのに、シモーヌが釣れるとは思わなかった。いや、まんまと釣られたのはロクサーヌの方だ。痛む頬を動かして自嘲の笑みを浮かべると、シモーヌは目を逸らした。
「そ、それが事実である証拠はないでしょう。出まかせを言ってこの場を逃れるつもりならば――」
ただでは置かない。そんな脅し文句を口にするのを少しためらったシモーヌの隙を突いて、割り込む。
「シモーヌ様。わたしはあなた方を心配して迷いましましたが、あなたを受け入れると心を決めました。重ねて申し上げますが、殿下にはそのようにお答えしているのです」
シモーヌの張り詰めた表情が崩れた。ロクサーヌを信じたというよりも、アルベールに確認しようと考える程度には頭が冷えたのだろう。それでもロクサーヌは緊張を解かなかった。
彼女の本質を見誤り侮っていたのは、反省すべきだろう。いくら慕うそぶりを見せられようと、彼女は状況次第でこうして他者を踏みつける決断をする人間であることを、忘れてはならない。
「良かった……あなたはお味方してくださるのね。あのマリアンヌではなく、わたくしに。……アルベール様はわたくしを愛していると何度も伝えてくださるけれど、時折あの方のお心が分からなくなるの」
だから不安になって、ロクサーヌに無理を強いてしまった。そう釈明しながら謝罪はしないシモーヌに、ロクサーヌは鷹揚に頷いてみせた。
「心中お察し致します。あなたの悲しみも苦しみも、他の誰でもない、わたくしならば理解できます」
慰めの言葉は、シモーヌの心に毒のように染み込んだようだ。みるみる潤む大きな目からは、今にも涙がこぼれそうになっている。もう暴力をふるう気はなさそうだが、縄は解かれないので対応を間違えれば危害を加えられるに違いない。従者らの表情を見れば分かる。
「シモーヌ様。娼婦に過ぎぬわたしにできることは少ないですが、ひとつ助言を。ここは、アルベール殿下の兄君であらせられる王太子殿下を頼ってはいかがでしょうか」
「……王太子殿下を」
シモーヌは顔をしかめた。まるで信頼していないようだ。ロクサーヌはテオドールの苦渋に満ちた顔を思い出す。彼は次代の王ではあるが、影響力は王太后に劣る。そして、殊に婚約者のすげ替えについては、己の所業を差し置いて弟を非難する訳にもいかなかったのだろうと想像がつく。
だが、そんなことはロクサーヌには関係がない。テオドールの周囲にマリアンヌだけでなくシモーヌまで纏わりつけば、セリーヌはさぞ苛立つだろう。
「王太子殿下は、過去の自らの行い故に強硬に反対することができなかったのでしょう。ですが、アルベール殿下を諫められなかったことを悔いておられたようですから、きっとシモーヌ様にお力添えくださると思うのです」
テオドールの本心など知るはずもないが、悲しそうな顔を作ってもっともらしいことを告げる。すると、シモーヌはロクサーヌの意図しない方に食いついた。
「あなたは、王太子殿下と今も交流がおありなのですか?」
小首を傾げて目を丸くするあどけない様子に、ロクサーヌは苦笑する。人を拉致するよう指示した張本人とは思えない、無邪気な仕草だった。ただ曖昧に首を振ってみせると勝手に色々と想像したようで、シモーヌは侍女が差し出した手巾で目元を拭った。
「分かりました、殿下を頼ってみます。……わたくしも、不遇の身となろうともあの方の愛を信じようと、覚悟したつもりでした。わたくしを愛するとおっしゃったアルベール様のお言葉には、背けません。しかし、やはりあの女がアルベール様のお側に侍ることは許せないのです」
それはそうだろう。影のように控えている従者の男も侍女も小さく頷いている。
「冷たくあしらわれても諦めず、根気強くお話しをしてみてください」
念を押すと、シモーヌも従者も力強く約束してくれた。令嬢としての名に傷を負ったシモーヌを再びアルベールの唯一に押し上げたいのは、本人だけの願いではないはずだ。彼女の実家も王族が手をつけた娘の処遇に苦慮しているはずだが、特に動きを見せていないと聞く。王太后と王妃から、別々に何らかの取引を持ちかけられている可能性が高い。そして恐らく、あの日和見の家はどちらの手を取るか決めかねている。
「では、わたしはシモーヌ様をお迎えする支度を整え、お待ちしておりますね」
改めて確約すると、ようやく解放となった。縄を解かれる際に「今度はゆっくりとおもてなし致しますわ」とささやくと、壮年の従者は目を丸くした。




