17 水底
不可解。
目の前の清楚な令嬢を一言で表すならば、これしか浮かばない。ロクサーヌは令嬢――シモーヌに勧められて豪華な椅子に腰掛けると、同じようにして隣に座った相手をちらりと見る。淡い金色の髪を編み込んで結い上げたその横顔は、優雅な白鳥のようだ。
派手好きなマリアンヌとは対極の、いかにも品の良い装いのシモーヌからは、己の想いびとを寝取った娼婦への敵意は微塵も感じられない。不相応な歓待を笑顔で受けながら、ロクサーヌは考える。
(この娘はわたくしやマリアンヌを恨みながらも、これほど清らかな笑みを浮かべることのできる者だということなのかしら。だとすれば、決して気を抜けない)
じっと見つめ過ぎたようで、シモーヌが物問いたげな顔で首を傾げる。
「――ロクサーヌ様、この演目はあなたのお好みに適いますでしょうか? 〝月夜の恋人達〟は、わたくしのお気に入りなのですが……」
不安げに揺れる緑の目を見た時、ロクサーヌの背筋に寒気が走った。シモーヌに、かつてのセリーヌの姿が重なったのだ。彼女の優しげな面差しと優雅な仕草がそうさせたのだろうか。笑みを作って過去に何度か見たことがあると伝えれば、シモーヌはほっとしたように息を吐いた。その様子から悪意は感じられないし、美貌に鋭い刺を潜ませていたセリーヌとは違うが、妙な既視感が癇に障る。ロクサーヌは慎重に口を開いた。
「シモーヌ様、どうかわたしのことはロクサーヌとお呼びを。下々の者に敬称など不要ですわ」
「いいえ、そのようなことをおっしゃらないで! わたくしを匿ってくださるお方を呼び捨てにするなど、あってはならない非礼ですもの」
この令嬢は、アルベールの愛人として実家を出ることに微塵も迷いがないようだ。たおやかな妖精のような姿からは想像もできないが、彼女は相当な覚悟で決意したということか。
呼称についてこれ以上の問答は無駄と判断し、ロクサーヌは話題を変えることにした。
舞台では、主役の恋人達が切ない思いを吐露しあっている。互いに婚約者のある身で恋に落ちた二人は、人目を憚り月夜の晩にひっそりと逢瀬を重ねるが、やがてその仲を引き裂かれてしまう。その果てに恋人達は自らの命を断とうとするのだが、最後の最後で思い止まった娘が相手の幸せを祈って恋人との別れを選択するという物語だったはずだ。
「――この物語は、最後には思い合う恋人達が引き裂かれてしまうのでしたね。悲しくも美しいお話ですわ」
この劇を観ていた当時は、テオドールの心を得られない己と舞台上の恋人達の睦まじさと引き比べ、涙したものだった。たとえ別れを選ぶことになるのだとしても、一生の思い出となる恋をした二人がどれほど羨ましかったことか。〝ヴィクトリーヌ〟は、淡い片恋すら無残に散ったというのに――。
(この恋人達はテオドールとセリーヌで、二人の邪魔をする婚約者はわたくしね。末路は大違いだけど)
熱い視線を交わし、束の間の逢瀬を終えた二人は舞台袖に消えた。するとシモーヌが、気まずそうな表情でロクサーヌに囁きかける。
「……わたくしの知る結末は異なります。あの恋人達は、思いを成就させて結ばれるはずですわ」
ロクサーヌはシモーヌの顔から笑みが消えた理由を知って失笑しそうになるが、努めて穏やかにそうでしたのね、と返した。恐らく、テオドールとセリーヌが結ばれたことにより、結末を変えて上演されるようになったのだろう。バーメイドとなって劇場にいたというのに、演じられている舞台など気に留めたこともなかった。絶え間なく訪れる客に酒を渡し、誘われればそのまま客と消える身だったので、観劇などできるはずもなかったが。
王太子夫妻の醜聞を想起させる、都合よく幸せな筋書きにねじ曲げられた物語。シモーヌがこの演目を好きだと言ったのは、ロクサーヌへの痛烈な皮肉なのかも知れない。
「時の流れを感じますわ。わたしがあなたの年頃に観ていた〝月夜の恋人達〟は、結ばれない運命でしたが……幸せな結末も良いものですね」
だがこれは、舞台の上だけの物語であるから美しいのだ。この二人が結ばれるために、誰がどれほどの犠牲を払うことになるのだろう。暗い眼差しで役者達を見つめるロクサーヌの隣で、シモーヌはこの劇場では以前の内容も時折上演しているようだと言い繕った。
「ロクサーヌ様、お許しくださいませ。わたくし、浮かれた子供のようになっておりましたわ」
「シモーヌ様。わたしなどよりも、あなた様こそお心を痛めておられるのでは? アルベール殿下のお考えに従ってのこととはいえ、今の状況はシモーヌ様にはさぞお辛いでしょうに」
申し訳なさそうな顔で謝るシモーヌの白い手に自らの手を重ねてみたが、妖精のような令嬢はさらりと「そのようなことはございません」とほほ笑んだ。この令嬢を懐柔しているはずのロクサーヌは、手応えのなさに内心で戸惑う。シモーヌは本心を隠しているようには見えず、それなのに彼女の感情が見えてこない。
今この場にリリアーヌを連れてこられたら、どんなに良いだろう。彼女の歯に絹着せぬ物言いで、この訳の分からない状況を打開できたなら。心からそう思うことくらい、許されるはずだ。そのくらいに、シモーヌが発した言葉はロクサーヌを困惑させた。
「ロクサーヌ様、わたくしはとても幸せなのです。だって、アルベール様が愛しておられるのは、このわたくしなのですから! 想い合うわたくし達を引き裂くマリアンヌ様は、二人の愛を燃え上がらせるための障害でしかないのです」
「…………それは、本気でおっしゃっているの? だとすれば、あなたは既に傷つきすぎて正気を失っておられるとしか思えません」
乾いた声でそう返すと、ロクサーヌは恍惚の表情のシモーヌを改めて見つめた。彼女のこの明るさは、危うい。美しく澄んでいたシモーヌの緑の瞳が、光も届かない水底のように思われて薄寒くなる。彼女の狂気に飲まれまいと重ねていた手を引くと、今度は逆にロクサーヌの手がぎゅっと握られた。思わず体を強張らせたロクサーヌに、シモーヌは陶然とした顔で歌うように言う。
「ロクサーヌ様。わたくしは正気ですから、心配はご無用です。わたくしもあなたと同じ、いえ、あなた以上にアルベール様と深く繋がっておりますの。この絆はたとえマリアンヌ様といえど、引き裂けるものではありませんわ」
「……絆……?」
「ええ、そうですわ。アルベール様との婚約を白紙にする代わりに、わたくしは愛しいあのお方に純潔を捧げる栄誉をいただきました」
この言葉が真実ならば、シモーヌ嬢は既に乙女ではないということになる。あまりのことに、ロクサーヌはすっかり酔いが覚めた気分になった。こそこそと復讐を企む自分が、底抜けの愚か者に思えてくるほどに。
いつもならほほ笑んで流せるはずが、頬が強張ってうまく笑えない。自分の中にもまだ潔癖な部分が残っていたことに面食らいつつ、ロクサーヌはシモーヌを叱った。
「シモーヌ様、婚約者であればまだしも、関係を解消した殿方に体を許すなど言語道断です。あなたの貞節どころか良識までもが疑われる、恐ろしい行いですわ」
娼婦にあるまじき厳しい声が出てしまい、ロクサーヌは唇を噛んだ。彼女の境遇がかつての自分と重なるから、彼女の軽挙が不快でたまらない。いや、違う――。
(シモーヌはわたくしとは違う。アルベールは彼女を愛しているし、彼女の家門は脅かされてすらいないわ。なのに、何故もっとうまく立ち回らないのよ、この娘は!)
娼婦に身を落とした自分が、純潔の大切さを唱えることになるとは。虚脱感に襲われたロクサーヌは、手元にワインがないことを恨んだ。素面ではこの令嬢の相手などしていられない。ロクサーヌの中で死んでいた〝ヴィクトリーヌ〟を引っ張り出すはめになったのは、シモーヌのせいだ。ロクサーヌには貞淑さを説く資格すらないというのに。
するとシモーヌがにわかに潤んだ目を瞬かせ、長い睫毛を震わせる。泣き出すのかとロクサーヌが構える目の前で、しかしシモーヌは壊れたように笑い出した。その声に潜む狂気に気付いて息を飲むロクサーヌを、シモーヌは尚もあざ笑う。
「良識? それに貞節ですって? そのようなものは、とうに捨ててしまいましたわ! わたくし、どうしてもあの女に一矢報いてやりたかったのですもの。わたくし達に向かって勝ち誇るあの者の得意顔が、今は哀れですわね、ロクサーヌ様」
「まさか、マリアンヌ様への当て付けのために身を捧げたのですか。……シモーヌ様、わたくしは殿下ともう一度お話をする必要がありそうです。それまでは、こちらにお移りになるお話は保留にさせていただきます」
気づけば、また〝ヴィクトリーヌ〟のようなことを口走っていた。そしてロクサーヌはシモーヌを更に突き放す。
「シモーヌ様、どうか気をしっかりお持ちください。あなた様はまだ未来のある身です。このような場にお招きしてしまった短慮をお詫び申し上げますので、今日のところはどうかお引き取りを」
シモーヌはアルベールを諦めきれず愛妾となることも辞さないほど恋に狂い、冷静さを失い、言動がおかしくなっているのだ。ロクサーヌの舞台に狂人は何人もいらない。ロクサーヌ自身だけで十分だ。
「……わたくしは、愛するお方をあなたのように易々と奪われるつもりはありませんわ」
去り際に低い声でそう言ったシモーヌの双眸が、ぬらりと光った気がした。
狂人が狂人を見て、一瞬我に返った感じです。




