16 白露
「ああロクサーヌ、哀れな私を癒してくれるかい?」
部屋に通されるなり、哀れっぽく訴えかけてきた〝王子サマ〟の頭を、ロクサーヌはとりあえずなでておいた。声だけは悲壮感あふれるアルベールは実に健康そうで、肌の色つやも良い。どうせまた、マリアンヌと喧嘩でもしたのだろう。ロクサーヌは二人の仲裁などしたことはないのだが、彼らはなぜかこうしてここに来る。
「アルベール様、この度はどうなされたのですか? またマリアンヌ様がお怒りに?」
「違うよ、ロクサーヌ。あなたは、私が四六時中彼女の逆鱗に触れていると思っているね? しかしそれは間違いだよ。今日は、可愛いシモーヌのことでね……」
彼が愛妾にしようとしている令嬢の名に、ロクサーヌは目を細めた。シモーヌがマリアンヌの逆鱗でなくて何なのだ。それとも、シモーヌ嬢までもが何か無茶を言い出したのだろうか。とにかく酒を勧め、アルベールの舌の滑りを良くしてから続きを促してみると、ひとしきり惚気られた後で思わぬ方に話が向かった。
「お祖母様は、父上が決めた婚約者だったシモーヌを元々気に入っておられなくてね。だからあの方は父上の息のかかっていないマリアンヌを推したのだけど、どうやら私の企みがお祖母様に露見してしまったようなんだ」
当人がこれだけ元気に動き回っていれば、そうなるだろう。ロクサーヌは「まあ!」と驚いた声を上げ、どうするのかと尋ねてみると、アルベールは苦笑しながらも自らの意思を曲げるつもりはないのだときっぱり言い切った。こちらは少々意外だった。
それほどの思いをシモーヌに傾けていながら、彼女を妻にせず妾扱いするのか。困惑が顔に出てしまっていたようで、相手の思いがある限りこちらから捨てたりはしないのだと、アルベールは真面目くさった顔で宣う。その口ぶりから、彼は女性の方から捨てられたことはあるようだ。
ともあれ、アルベールは率先して王太后の嫌がることをなそうとしている。ここは助力しておくのが良いだろう。
「では、殿下がこちらにお越しになるのは、当分の間は避けるのがよろしいでしょうね」
ロクサーヌの言葉に、アルベールが珍しく不機嫌な顔をした。しかし、続けた一言であっさりと笑顔を見せる。
「その代わりに、近いうちに一度シモーヌ嬢をこちらにお招きしたいのですが、いかがでしょうか?」
「それは良い! ロクサーヌ、やはりあなたは私の一番の味方だね。シモーヌもあなたに会いたがっているんだ。二人はきっと仲良くなれると思うよ」
それはどうだろうか。由緒正しきご令嬢が、年増の娼婦と気が合うとは思えない。しかしそんな疑念は微笑の下に押し込めて、ロクサーヌは静かに笑った。するとアルベールは、艶めいた笑顔でロクサーヌを押し倒す。いつものことだが、こうされる度に彼の言う愛とは何かと問い質したくなる。
「しばらくあなたに会えないのだから、このひとときを忘れられない時間にしよう」
甘やかなアルベールの囁きを合図に、どちらともなく顔を寄せると、あとは言葉もなく触れ合うことに没頭した。
◇
「あたし、あんたらのことが分からないわ……」
そう呟いたリリアーヌは、まあ、分かったことなんてないんだけどさあ、と冷めた顔で続けた。ロクサーヌががっかりして見せると、心にもない〝ふり〟をするんじゃないと叱られたので、大人しく出されたお茶を飲む。
「あんたが上客の頼みを断れないのは、分かるよ。けどさあ、なんでそのろくでなしの愛人をこんな飲んだくれのとこに隠すのさ!」
「リリアーヌ、飲んだくれというのはまさかわたしのこと? 仲良くなれたと思っていたのに、とっても傷つくわ……」
嘆きながらテーブルの下から瓶を引っ張り出したところを、リリアーヌの手が素早く取り押さえる。
「ちょっと、昼間っから何してるんだよ!」
「何って、悲しみのあまり卒倒しそうだから、気付けの一杯を」
数拍の沈黙ののち、「馬鹿なこと言ってんじゃない!」と特大の雷が落とされた。悪ふざけが過ぎたようだ。反省したロクサーヌは今度は真面目に、アルベールの元婚約者かつ現恋人をしばらく世間の目から隠すのだと告げたのだが、リリアーヌの反応は先ほどと変わらず顔をしかめたままだ。そして、心底不可解だという顔のまま部屋から出て行くその背中を見送りながら、ロクサーヌはいちいち素直な反応を返すリリアーヌを引き止めたくなった。
あの娘がいると、どんな悪態を吐かれても楽しいのだ。これまでにもロクサーヌに近づく女は何人もいたが、その誰とも遊ぶ気にも争う気にもなれなかった。しかし、最初から今もロクサーヌを馬鹿にして憚らない彼女の前でなら、どうしようもない娼婦でいることが楽しい。いつか彼女に見限られることになるのだとしても。
と、景気付けにとワインの栓を抜いたところで、オリオールが直々に客人の来訪を告げに来た。
「――ロクサーヌ、支度をしておけ」
感情を削ぎ落とした彼の簡潔な言葉に、ロクサーヌはゆったりとほほ笑む。オリオールは、更なる厄介ごとをこの劇場に呼び込むことには反対なのだ。それでもロクサーヌの願いを聞き入れたのは、背後にいるアルベールと何らかの取引があったからなのだろう。あの〝王子サマ〟は、こちらが思うよりずっと強かなのかも知れない。これ以上王族と関わるのは危険だとオリオールは言ったが、既に失うものがない身なのでためらいはなかった。
「ああ、そうだわ。ご主人様、何か面白い噂話を聞いてはおられませんか? 引きこもっていると、世事に疎くなってしまって」
ついでのように尋ねてみると、オリオールは眉間に皺を寄せて、白々しいことを言うロクサーヌを睨んだ。
「……どうせリリアーヌや客から聞いているのだろう」
「お見通しですね。だけど、あの子達から聞く話とは違うものを、あなたから得られると踏んだのですが」
見上げると、オリオールの冷たい目が少しだけ揺らぐ。しかしそれは一瞬で、平坦な声で「アルベール殿下の行状とお前のことを絡めて、面白おかしく語られているようだな」と事もなげに返された。オリオールは濁したが、リリアーヌから聞いた通り、アルベールの情婦としてロクサーヌの名が上がっているのだろう。そのおかげで、また客が増えているのだ。
リリアーヌら庶民からオリオールが親交の深い富裕層の間で、同じ話が伝わっている。ならば貴族達は言わずもがなだ。王太后もセリーヌも、数多の民の口を塞ぐことはできない。リベ家の罪が、ロクサーヌの罪が、瞬く間に周知されてしまったように。思い出して、微笑がうっそりとした暗い笑みに変わっていた。
「……それから、テオドール殿下の名も聞かれるようになった」
それは初耳だ。ロクサーヌが笑みを消すと、オリオールは戸惑ったように眉をひそめた。
「そうなることを望んでいたのだろう?」
「そう――確かにそうですね。でも、一体どこから?」
この男が噂を流したのだろうかと思い尋ねてみるが、オリオールは黙したまま語らない。ロクサーヌは早々に諦めると、立ち上がった。
テオドールの来訪を知る者は少ない。劇場のごく一部の人間か、それともテオドール付きの従者か。まさか、セリーヌが付けた監視者ではあるまい。集客のためにこの支配人がしたのなら、構わない。だが、ロクサーヌの知らない誰かが企てたことならば……。そこまで考えて、ふと気づく。
(わたくしには、どうでもいいことだわ)
誰の仕業であってもロクサーヌには何の不都合もないのだ。〝ヴィクトリーヌ〟がずっと気にしていた無責任な他人の言葉も、今は姦しい鳥のさえずりに等しい。あれこれ考えを巡らせてやきもきするのは、失うもののあるセリーヌ達の役目だ。
支度を済ませ、オリオールに伴われて演劇場の貴賓席に向かうと、開演中の劇は既に良い場面まで来ているようで、壇上の役者に釘付けの観客は誰もロクサーヌを気に留めない。そのままそっと入室すると、背後で静かに扉が閉められた。支配人は立ち会わないようだ。
ロクサーヌを待っていたのは、薔薇色のふんわりとしたドレスを着た、麗しい令嬢だった。
「――ああ、あなたがロクサーヌ様ね。初めまして、わたくしはシモーヌと申します。この度のお招き、誠に嬉しゅうございましたわ! 何日も前から、指折り数えて楽しみにしておりましたの!」
目が合うなり興奮気味にまくし立てられ、ロクサーヌは戸惑いながらも膝を折って礼を取った。
「ロクサーヌと申します。このような場所にお運びいただき、そしてわたしの同席をお許しくださり、誠にありがとうございます」
マリアンヌと同じ年頃のシモーヌは、「そのように畏まらないで」と嬉しそうに笑う。あまりの歓迎ぶりに、アルベールが彼女に何か吹き込んだのかと疑ったのだが。シモーヌはそんなロクサーヌの心中を察したように、はっと口元を扇で隠した。
「わたくしに呆れておいでなのね。ずっとお会いしたかった方を前にして、つい舞い上がってしまいました……」
花がほころぶような笑みを浮かべるシモーヌの瞳は、若葉の上で光る朝露のように清らかに見えた。
久しぶりの更新となってしまいました。
色々と忙しくなり、ストックも切れています!またゆっくりペースになりそうです。




