その3
「ちょっとそこのメガネ君。そうそう君や、今一瞬ピクッとした君」
帰り道、その声のする方向を見るとスーツ姿の男が立っていた。ボタンを一つ開けた半袖の白シャツは涼し気だった。
「……なんでしょうか」詐欺か何かと思える程度にはその男は胡散臭かった。
「そう警戒せんでええよ。ちょっと聞きたいことがあっただけや」
「せめてお名前いいですか?」
「稲荷正や。よろしゅうね」
「ご職業は?」
「さあ、なんやと思う? 当ててみてや」
その言葉に少しのイラつきを覚えつつも素直に考えてみることにした。
まず考えるべきはサラリーマンだか、あまりしっくりこない。ネクタイをしていないから、なんて理由ではない。クールビズぐらいは僕だって知っている。しかし彼には手荷物が見られない。つまりジャケットやネクタイと言った着替えは見られない。サラリーマンであるなら今は外回り、つまり営業中ということになり彼にはこれから商談が待ち受けている、ということになる。ならば、道中でカチッとしたドレスコードを身にまとわなくてはならない。つまり、ラフな格好が許されるスーツ職業……。投資家、とかはどうだろうか。彼らは営業とは軸が違う。営業は求められていないものを売り込む職業であり、投資家は求められた金額を与える仕事だ。であれば、スーツという社会的なドレスコードを最低限しか保っていないのも、納得はいく。ただ問題は僕に話しかけてきていること。僕には何か特別な能力などはなく、であれば投資するべき将来性もない。
「ずいぶん真面目に考えてくれとるねえ…… 答えは出た?」
「……帰宅中のサラリーマン、とかですか?」
それならアウター類を持っていなくとも説明がつく。会社に置いておき、いざというときは持ち出しているのだろう。
「ブブー! 正解はニートでした!」彼はとてもうれしそうにそう答えた。
人を本気で殴りたいと思ったのは初めてのことだった。
「……ならなんでスーツなんですか? ハローワークに行ってたとか」
「いや、スーツ姿なら多少は信頼が生まれるやん? 寝巻に寝ぐせで話しかけたとて、君は話すら聞いてくれんかったと思うで?」
「そんなことを考える暇があったら働いたらどうですか?」
「働いてないからこんなこと考える暇があるんやん。それに不登校の君に文句言われる筋合いはないと思うけど」
またしても断言された。お前は不登校であり、社会不適合者である、と。なぜだか葉月に当てられた時と違って不快感が腹の底から湧き上がってきた。
「君、案外表情にはでえへんのやね。関心関心、カマかけには気をつけなあかんで」
「……結局僕に何のようだったんですか?」
「あ、そうそう。そうやった。このままやと君馬鹿にするだけして帰るとこやった。そのまま心地よく眠りにつくとこやった」
「君、真っ黒な女の子に出会わんかった? 多分制服姿で、それでもなんちゅうか「黒」って感じの女の子やねんけど」
稲荷の言葉に出来るだけ反応しないよう僕は答えた。
「知りません。そんな女性。大体、モノトーンコーデの女性なんて山ほどいるでしょ」
「まあ、そらそうやねんけどな。まあ、おっちゃんその子探してんねん。見かけたらここ連絡してくれる?」
そう言って渡された名刺にはこんなことが書いてた。
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稲葉探偵事務所
主任調査員 稲荷正
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一体、彼の言葉はどこまで本当だったのだろうか。




