その20
沼田咲奇は戸籍を変え、葉月咲奇と名乗るようになった。例によって稲荷が戸籍登録したわけだが、ひとつしかない『沼田咲奇』という戸籍を、どうやって二つに分け、葉月咲奇として登録したのか。合法であれ、非合法であれ、僕はこの程度のことでは何も思わなくなった。稲荷ならこれぐらいするであろう。彼の正体について探るつもりもない。それは探偵の仕事だ。
彼女はよく事務所へ来る。なんとなくたまり場にしている僕たちとは違って、仕事の手伝いをしている。最初は凛に引っ付いて離れなかったが、今はお茶くみに書類作業を進んでする。仮にも高校生に仕事をさせるのはどうかとも思うが、役割があったほうが楽だろ、と凛は言っていた。
彼女は未だ喋らない。あんなことがあったのだから、一生喋れないのかもしれない。それでも、無表情の奥には感情が見える。桃がそれを本人に伝えると、恥ずかしがりもせずスンと無表情に戻した。でも、それだけだ。未だ彼女は喋らない。喋れるようになったとしても、傷は癒えない。傷が癒えたとしても、過去は消えない。僕たちはそうやって、死ねないままでいる。
「かまいたちが出たんやって」と稲荷が言った。
「かまいたちって?」桃は尋ねた。
「人を転ばして皮膚を切り裂く怪異でしたっけ?」
「その後に傷薬塗ってくれる子や、だから傷の痛みはない。優しい怪異さんやね」
「……つまり害はないんじゃ? 何が問題なんですか」
「その怪異を決めてかかって話し出すクセ、やめろよ。口裂け女の二の舞いになるぞ」凛は苛立ちながら言った。
「いやぁ、そのほうが盛り上がるかなって思てん」
「つまり特定の場所で痛みのない切り傷がよく出るんだろ?」
「正解や。ついでに被害者は大体転んどる。場所も良くなくてなぁ、とある神社で報告が上がってくんねん」
とある神社で痛みのない傷が良く発生する。いかにも意味ありげだ。
「というわけで調査、頼んだで」
「だからなんでお前は来ないんだよ」
「行ったらわかるよ。僕おっさんやからキツいねん」
神社は、とある商業施設ビルの屋上に建っていた。六階から階段で上がるらしい。




