第9話 あの家の食卓は、もう良くない
ヴァンドール邸に招かれるのは、三年で十度目になる。
数えているのは、これまでの九度とも同じ菓子が出たからだ。胡桃と蜂蜜の焼き菓子で、一度も同じ味がしなかった。同じものを作って毎回違うというのは、腕の悪い証拠か、腕の良すぎる証拠のどちらかだ。私は後者だと思っていた。
十度目の今日、皿の上のそれを見て、私は前者を疑った。
色が濃い。縁のところが黒く縮れていて、皿に置いたときの音が硬かった。
胡桃は焦げると苦い。苦みは蜂蜜の甘さを痩せさせる。一口食べて、私は舌の上のものをゆっくり片づけた。薄皮が残っている。落とさずに焼いたのだ。
前の九度は、割ったときに断面が湿っていた。焼きたてではないのに湿っている菓子というのは、そう多くない。
「いかがです」
伯爵様が向かいで仰った。
応接の間は、以前より片づいていた。片づいているというより、物が減っている。窓辺の花瓶が空で、暖炉の脇の籠に薪が三本しかない。三年前、この家の籠はいつも溢れていた。
「よく焼けておりますこと」
嘘ではない。焼けすぎているだけで、焼けてはいる。
私は茶碗を持って、話を詩のほうへ移した。王都で新しい詩集が出ている。北の湖の詩人が書いたもので、湖の氷が割れる音を人の別れに重ねている。良い趣向だと思う。
「氷の音を別れになさるのは、少し古いと思われませんこと」
「そうですね」
「けれど三連目だけは新しゅうございますわ。割れた氷の下を、去年の葉が流れていくのですって」
「なるほど」
「伯爵様は、どの詩がお好きですの」
「ジゼル殿が良いと仰るものは、たいてい良い」
三年、こういう受け答えだった。
三年、私はそれを、聞き上手というのだと思っていた。
菓子の皿の脇に、贈り物が置いてある。今日の帰りに持たせるものだろう。紙の包みで、青い糸がかけてあって、隅に店の印が押してある。王都の菓子舗のものだ。
以前は違った。
蜜蝋を塗った紙で、糸はかかっていなかった。折り目に爪で筋が入っていて、そこを押さえると閉じたまま持てる。馬車の中で開けても、指が汚れない。
一度、伯爵様に伺ったことがある。あの包みはどちらのお店のものかと。
伯爵様は笑って、何かお答えになった。何とお答えになったかを、私は覚えていない。覚えていないということは、答えになっていなかったのだと思う。
「伯爵様」
「はい」
「あの蜜蝋の包みは、どなたがお作りでしたの」
伯爵様の手が止まった。
止まってから、茶碗を置いた。置き方が丁寧すぎた。
「妻です」
「奥様が」
「杏の砂糖漬けも、あの菓子も、妻が焼いていました」
私は膝の上で指を組んだ。
三年、九度。私はこの家で、この方の妻が焼いたものを食べ、この方が奥様のことを話題になさるのを一度も聞かなかった。
領主会のことは、すでに王都まで届いている。父が二日前に聞いてきた。ヴァンドール伯が冬の備えの手順を一つも言えず、老侯爵夫人が街道の宿の名を出したという話だ。
父はそれを、こう言って私に伝えた。あの縁談は考え直したほうがいい、と。
縁談。
正式なものではない。伯爵様が奥様と別れることになれば、という前置きのついた話で、半年前にご当家の執事から父のところへ来ていた。私は断りも承知もしていない。していないまま、九度目と十度目を数えていた。
「ジゼル殿」
「はい」
「先日、妹がある宿へ行きました」
「伺っておりますわ」
「会えずに戻りました」
伯爵様は窓のほうをご覧になった。冬の窓は曇っていて、外は見えない。
「私は、間違えていたのだと思います」
そう仰った。
私は待った。この方が次に何を仰るかで、いろいろなことが決まる。
「妻に、もう一度きちんと話をします。あなたにも、いずれご相談することがあるかもしれません」
決まった。
この方は、間違えていたと言いながら、私に相談すると仰った。奥様と話をつけた後の予定に、私の名を入れておいでになる。
三年、この方の話し相手を務めてこられたのは、私が話し上手だったからではない。この方に、話を聞く時間があったからだ。
その時間を誰が作っていたのかを、私は今日初めて考えた。
家の卓が整い、客の菓子が焼かれ、命日の献立が並び、村の塩の割合が決まる。全部が黙って回っているあいだ、この方は詩の話を聞く顔をしていられた。
回らなくなった今、この方は詩の話をなさらない。
「伯爵様」
「はい」
「あの家の食卓は、もう良くありませんわ」
伯爵様は私を見た。
「食卓の話をしているのではありません」
「わたくしは食卓の話をしておりますの」
私は膝の上の手を解いて、茶碗の縁に指をかけた。冷めている。誰も注ぎ足しに来ない。三年前、この家では茶が冷める前に必ず誰かが来た。
「わたくし、春に北のご縁をいただいておりますの。父がそちらを進めたいと申しますので、そのようにいたしますわ」
嘘だった。まだ決めていない。今日ここで決めた。
伯爵様は何も仰らなかった。縋りもしない。この方は、そういうときに何を言えばいいのかをご存じない。ご存じないまま三十年近く生きて、たぶんこの先もご存じないままでいらっしゃる。
帰りの馬車で、私は膝に贈り物を載せていた。
青い糸をほどいて、店の紙を開いた。中身は蜂蜜漬けの梨で、悪くない。王都で買えば銀貨が何枚か飛ぶものだ。
一つ食べて、包み直した。糸を結ぶのに両手を使い、膝の上で二度やり直した。
指が少し汚れた。舐めれば済むけれど、この馬車には手巾しかない。
三年、九度。私はあの家で、名前も知らない人の焼いたものを、おいしいと言い続けた。おいしいと言った相手は、いつも向かいに座っている方だった。
私はあの菓子を、もう一度だけ食べたかった。




