表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたが召し上がっていたのは、私の記憶です  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

第9話 あの家の食卓は、もう良くない

ヴァンドール邸に招かれるのは、三年で十度目になる。


数えているのは、これまでの九度とも同じ菓子が出たからだ。胡桃と蜂蜜の焼き菓子で、一度も同じ味がしなかった。同じものを作って毎回違うというのは、腕の悪い証拠か、腕の良すぎる証拠のどちらかだ。私は後者だと思っていた。


十度目の今日、皿の上のそれを見て、私は前者を疑った。


色が濃い。縁のところが黒く縮れていて、皿に置いたときの音が硬かった。


胡桃は焦げると苦い。苦みは蜂蜜の甘さを痩せさせる。一口食べて、私は舌の上のものをゆっくり片づけた。薄皮が残っている。落とさずに焼いたのだ。


前の九度は、割ったときに断面が湿っていた。焼きたてではないのに湿っている菓子というのは、そう多くない。


「いかがです」


伯爵様が向かいで仰った。


応接の間は、以前より片づいていた。片づいているというより、物が減っている。窓辺の花瓶が空で、暖炉の脇の籠に薪が三本しかない。三年前、この家の籠はいつも溢れていた。


「よく焼けておりますこと」


嘘ではない。焼けすぎているだけで、焼けてはいる。


私は茶碗を持って、話を詩のほうへ移した。王都で新しい詩集が出ている。北の湖の詩人が書いたもので、湖の氷が割れる音を人の別れに重ねている。良い趣向だと思う。


「氷の音を別れになさるのは、少し古いと思われませんこと」


「そうですね」


「けれど三連目だけは新しゅうございますわ。割れた氷の下を、去年の葉が流れていくのですって」


「なるほど」


「伯爵様は、どの詩がお好きですの」


「ジゼル殿が良いと仰るものは、たいてい良い」


三年、こういう受け答えだった。


三年、私はそれを、聞き上手というのだと思っていた。


菓子の皿の脇に、贈り物が置いてある。今日の帰りに持たせるものだろう。紙の包みで、青い糸がかけてあって、隅に店の印が押してある。王都の菓子舗のものだ。


以前は違った。


蜜蝋を塗った紙で、糸はかかっていなかった。折り目に爪で筋が入っていて、そこを押さえると閉じたまま持てる。馬車の中で開けても、指が汚れない。


一度、伯爵様に伺ったことがある。あの包みはどちらのお店のものかと。


伯爵様は笑って、何かお答えになった。何とお答えになったかを、私は覚えていない。覚えていないということは、答えになっていなかったのだと思う。


「伯爵様」


「はい」


「あの蜜蝋の包みは、どなたがお作りでしたの」


伯爵様の手が止まった。


止まってから、茶碗を置いた。置き方が丁寧すぎた。


「妻です」


「奥様が」


「杏の砂糖漬けも、あの菓子も、妻が焼いていました」


私は膝の上で指を組んだ。


三年、九度。私はこの家で、この方の妻が焼いたものを食べ、この方が奥様のことを話題になさるのを一度も聞かなかった。


領主会のことは、すでに王都まで届いている。父が二日前に聞いてきた。ヴァンドール伯が冬の備えの手順を一つも言えず、老侯爵夫人が街道の宿の名を出したという話だ。


父はそれを、こう言って私に伝えた。あの縁談は考え直したほうがいい、と。


縁談。


正式なものではない。伯爵様が奥様と別れることになれば、という前置きのついた話で、半年前にご当家の執事から父のところへ来ていた。私は断りも承知もしていない。していないまま、九度目と十度目を数えていた。


「ジゼル殿」


「はい」


「先日、妹がある宿へ行きました」


「伺っておりますわ」


「会えずに戻りました」


伯爵様は窓のほうをご覧になった。冬の窓は曇っていて、外は見えない。


「私は、間違えていたのだと思います」


そう仰った。


私は待った。この方が次に何を仰るかで、いろいろなことが決まる。


「妻に、もう一度きちんと話をします。あなたにも、いずれご相談することがあるかもしれません」


決まった。


この方は、間違えていたと言いながら、私に相談すると仰った。奥様と話をつけた後の予定に、私の名を入れておいでになる。


三年、この方の話し相手を務めてこられたのは、私が話し上手だったからではない。この方に、話を聞く時間があったからだ。


その時間を誰が作っていたのかを、私は今日初めて考えた。


家の卓が整い、客の菓子が焼かれ、命日の献立が並び、村の塩の割合が決まる。全部が黙って回っているあいだ、この方は詩の話を聞く顔をしていられた。


回らなくなった今、この方は詩の話をなさらない。


「伯爵様」


「はい」


「あの家の食卓は、もう良くありませんわ」


伯爵様は私を見た。


「食卓の話をしているのではありません」


「わたくしは食卓の話をしておりますの」


私は膝の上の手を解いて、茶碗の縁に指をかけた。冷めている。誰も注ぎ足しに来ない。三年前、この家では茶が冷める前に必ず誰かが来た。


「わたくし、春に北のご縁をいただいておりますの。父がそちらを進めたいと申しますので、そのようにいたしますわ」


嘘だった。まだ決めていない。今日ここで決めた。


伯爵様は何も仰らなかった。縋りもしない。この方は、そういうときに何を言えばいいのかをご存じない。ご存じないまま三十年近く生きて、たぶんこの先もご存じないままでいらっしゃる。


帰りの馬車で、私は膝に贈り物を載せていた。


青い糸をほどいて、店の紙を開いた。中身は蜂蜜漬けの梨で、悪くない。王都で買えば銀貨が何枚か飛ぶものだ。


一つ食べて、包み直した。糸を結ぶのに両手を使い、膝の上で二度やり直した。


指が少し汚れた。舐めれば済むけれど、この馬車には手巾しかない。


三年、九度。私はあの家で、名前も知らない人の焼いたものを、おいしいと言い続けた。おいしいと言った相手は、いつも向かいに座っている方だった。


私はあの菓子を、もう一度だけ食べたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ