第8話 領主会の恥
領主会は、ふた月に一度、郡の館で開かれる。
議題は橋と、道と、冬の備えだ。今年は三年ぶりに麦の出来が悪く、備えの話が長くなった。
「ヴァンドール伯」
議長が私を指した。
「三年前の冬、貴領は飢えを出さなかった。あの野菜の漬け方を、この場でお教え願いたい」
備えていた話だった。私は立ち、三年前のことを述べる。
秋のうちに根菜と葉物を集めさせたこと。塩と重石を各村へ配ったこと。樽は村の共用にして、開ける日を村長に決めさせたこと。年が明けても病が出ず、春まで持ったこと。
述べているあいだ、卓の向こうで数人が頷いていた。三年前、この会で同じ話をしたときは、誰も頷かなかった。凶作の年に人は真剣になる。
「それで、塩は」
隣の郡の領主が言った。若い男で、去年家を継いだばかりだ。
「塩は」
「どれほど入れるのです。うちで真似たところ、三月で腐りました」
私は口を開いた。
塩は、多からず少なからず。そう言おうとして、やめた。この場で言えば笑われる。
「野菜の目方に応じて量ります」
「その割合を伺いたいのです」
割合。
考えても出てこない。私は塩の量を決めたことがない。決めさせたことすらない。
三年前の秋、私は妻に、村へ配る塩の見積もりを出せと言った。妻は翌朝に数字を持ってくる。紙に書かれていたのは総量だけで、割合は書かれていなかった。書かれていないことを、私は不審に思わなかった。総量が分かれば買えるからだ。
私はそれを執事に渡す。渡して、忘れた。
どこで覚えたのかを、私は聞いていない。嫁いできた娘が塩の割合を知っている理由を、十年、一度も不思議に思わなかった。
「日に当てるのですか」
別の声が言った。
「うちでは干してから漬けましたが、水が上がりませんでした」
「水が上がらんときは、どうするのです」
「重石を増やすのか、塩を足すのか」
声が三方から来た。責める調子ではない。皆、本気で自分の領地の冬を心配している。だから逃げられない。
私は自分の指先を見ていた。爪の際に、朝の墨がわずかに残っている。
答えを一つ持っていた。妻がいつか言っていた気がする。汁が野菜の上まで来ないと、そこから傷むのだと。上まで来たら、あとは触らないのだと。
触らない。何を。何日。
そこから先が、どこにもなかった。
館の窓は高い位置にあって、外は見えない。三方から来た声が止んで、誰かが咳をした。咳の音が長く響くほど、静かになっていた。
「詳しい手順は、追って書面にして回します」
そう言って、私は腰を下ろそうとする。
「その必要はございませんでしょう」
奥のほうから声がした。
老侯爵夫人テオドラが座っている。王都へ戻る途中に立ち寄られたのだと、開会のときに聞いていた。この方が冬の備えの会に出るのは、私の知る限り初めてだ。
「その手法なら、街道の宿で食べました。作った者の名も存じております」
館の中が静かになった。
「宿でございますか」
議長が聞いた。
「東の街道の、三脚亭という宿です。先日、そこで漬けたものを出されました。塩の入れ方も、重石の外す頃合いも、その場で教えていただきました」
「どなたが」
「エルシャという方です」
妻の名だ。
私は立ったままでいた。座るところを見られたくなかった。
会場の誰かが小さく何か言い、隣の男がそれに答えた。何を言っているかは聞こえない。聞こえないほうがいい。
「ヴァンドール伯」
議長がもう一度私を呼んだ。
「その方は、貴領の」
「妻です」
言った。
言ってから、この言葉を人前で口にするのが、婚礼以来ではないかと思った。十年、妻のことを話す機会というものがない。話す必要のあることが、何もなかった。
「奥方は、いま宿にいらっしゃるのですか」
「所用で、家を離れております」
私は書面にして回すという話を、そこでやめた。やめて、腰を下ろした。
その日、誰とも話さずに館を出る。
屋敷へ戻ると、妹が玄関に立っていた。私が馬を降りるのを待っていたのだと分かる立ち方だった。
「お兄様。わたしが行きますわ」
「どこへ」
「三脚亭という宿でしょう。もう聞きましたのよ」
早い。この家の使用人は、いつからこんなに早いのか。
「行って何を言う」
「お義姉様に会って、お戻りくださいとお願いします」
「私の手紙には返事がない」
「だから、わたしが」
妹は言葉を切って、少し息を吸った。
「わたしが、言わなければならないことがあるのです」
何のことか分からない。分からなかったが、妹の顔がいつもと違った。
「馬車を出せ」
妹が発ったのは翌朝で、戻ったのは次の日の夕方だった。
私は書斎で待っていた。待っているつもりはなかったが、扉の音がするたびに顔を上げていたので、待っていたのだと思う。
妹が入ってきた。外套も脱がずに、手に小さなものを持っている。
「会えなかったのか」
「お目にかかれませんでした」
「宿にいなかったのか」
「いらっしゃいました」
妹は机の前まで来て、持っていたものを置いた。
「宿のご主人が、奥へ行って、戻ってこられて、これを渡されました。お目にはかかれませんと」
「それだけか」
「それだけです」
「恨み言の一つもなかったのか」
妹は私を見る。見て、口を開きかけて、閉じた。閉じてから、外套を脱ぐために背を向けた。
背を向けたまま、妹が言う。
「お兄様。八年前、わたしが四日熱を出した冬がございました」
「それがどうした」
「あの粥は、お義姉様がお作りになったのです。わたしは十年、侍女に礼を言っておりました」
私は妹の背中を見ていた。
「お兄様も、同じことをなさっているという話ですわ」
「何もございませんでした。ただ、これを」
机の上のものは、掌ほどの包みだった。
蜜蝋を塗った紙で、口を折って留めてある。糸はかかっていない。折り目に爪で筋が入っていて、そこを押さえれば閉じたまま持てる。
私は指をかけた。かけて、しばらく開けずにいた。
紙の内側で、蜜蝋が指の熱に応えて少し柔らかくなる。
開けると、甘い匂いが上がってきた。杏を蜂蜜で二度煮たときの、酸と甘さの混ざった匂いだ。
妹が持ち帰った包みの中身は、母の好きだった砂糖漬けだった。




