第7話 三年前の煮込み
その日、ヴィムさんは朝から炉に立たなかった。
前の晩に雪が降って、朝には融けた。融ける日がいちばん冷える。彼は椅子に座って豆を選っていたが、途中で選るのをやめて、右の膝の上に手を置いていた。置いた手を動かさない。撫でもしないし、揉みもしない。ただ置いている。
「痛みますか」
「濡れた日は」
私は湯を運び、布を絞って渡した。
昼過ぎ、宿の前に馬車が停まった。
四頭立てで、車体に紋が入っている。街道の宿に停まる種類の馬車ではない。轍の泥の上がり方から、王都のほうから来たのだと分かった。
御者が扉を開け、女中が二人先に降りて、地面の状態を確かめてから、老いた婦人が降りてきた。
私は板場の奥へ下がる。
見覚えがあった。名は知らない。三年前、屋敷の卓に着いた人だ。あの晩、私は義母の煮込みを出した。ひと月半ほど前の晩にも、同じ卓に、同じ人がいた。
婦人は土間に入って、天井を一度見上げてから、炉の近くの長椅子に腰を下ろした。背筋が伸びている。年は七十を過ぎているだろうに、座る動作に迷いがない。
「主人はどちら」
ヴィムさんが立ち上がろうとして、膝に手をついた。
一度でうまく立てない。二度目で立った。
「主人です。生憎、今日は炉に立てません。あり合わせのものになりますが」
「あり合わせで結構。ただし、温かいものを」
「承知しました」
彼は炉のほうへ行きかけて、三歩目で足を止めた。止めた背中を、私は板場から見ていた。
十日前、彼は椅子に座って作っている。そのときの汁は塩が強かった。今日の客の前で、その汁を出したくないのだと思った。
「ご主人」
私は前へ出る。
「私が作ります」
ヴィムさんはこちらを見た。何か言うかと思ったが、彼は火箸を私に渡しただけだった。
自分の宿の客に、自分以外の手のものを出す。それを決めるのに、この人は三歩しか使わなかった。
塩漬けの豚があった。前の日に塩を抜いて水に浸けてある。骨つきの脛が二本と、干した杏が壺の底に少し。丁子が三本、小さな包みに残っていた。
三本のうち二本を使う。
三本入れると舌の奥に苦みが残る。二本なのは義母の舌が二本を求めたからで、この宿の客が二本を求めているわけではない。ただ、私の手はもう二本で動く。
鍋は大きいほうを使った。水から入れて、沸く手前で鎖を一段上げる。鎖の段は、握ったときの手応えで覚える。
灰色の泡が浮いてきたら掬う。三度掬えば止まる。掬った泡は捨てる。
玉ねぎは皮のまま半分に割って、切り口を下にして入れた。皮が汁に色をつける。
杏は四つ。煮崩れる寸前で引き上げて、汁だけ鍋に戻す。
最後に酢をほんの少し。火から下ろす直前に、匙の先で二滴だけ落とす。脂の重さがそこで引く。
パンは三日前のものが棚にあった。指で押しても凹まない。それでいい。柔らかいパンは汁を吸うと形がなくなる。
厚く切って、二枚重ねて椀の底に敷く。汁を注ぐと、下の一枚から順に吸っていく。表面はまだ乾いていて、底のほうがもう膨らんでいる。
旅の者はこれを最後に食べる。汁を全部吸って、匙で崩れるくらいになったものを、椀を抱えるようにして掬う。
婦人の前に置いた。
婦人が顔を上げた。私を見て、それから椀を見て、また私を見る。何も言わない。女中のほうが先に、二人で顔を見合わせた。
女中が毒見をしようとして、婦人が手で止めた。
匙が入る。婦人が一口含んで、そのまま動きを止めた。
炉の薪が二度崩れる時間だけ、彼女は匙を持ったまま黙っていた。
それから、匙を椀に戻す。
「三年前、ヴァンドールの卓で同じものを食べました。あれは手すさびではありません」
私は椀の脇に置いた布を、握り直した。
「その言葉を、三年、覚えております」
婦人は炉のほうを見ずに、まっすぐ私を見ていた。
「あの晩、あちらのご当主は、妻の手すさびですと仰った。ひと月半前にも同じことを仰った。私は二度とも、作った者に会わせてくださいと申し上げるつもりでおりました。二度とも、話が街道の話になりました」
土間には他に客がいない。ヴィムさんは炉の反対側の椅子に座って、火を見ている。
「あなたは、あの卓におられましたね」
「はい」
「お名前を伺っておりません」
私は口を開いて、少し遅れて答えた。
家名は言わなかった。言えば、この人は困る。困らせたいわけではない。
「エルシャと申します」
「エルシャ」
婦人は繰り返した。
「私はテオドラと申します。あなたが十年、あの家の卓を作ってこられたのですね」
「十年でございます」
それ以上は言わなかった。言えば、こぼれる。こぼしたものは戻せない。
テオドラ様も、それ以上は聞かなかった。なぜ屋敷を出たのかも、これからどうするのかも聞かない。
かわりに、彼女は椀に手を戻し、パンを匙で崩し始める。汁を吸って重くなったパンを、一口ずつ、時間をかけて食べた。最後の一口まで残さなかった。
食べ終えて、彼女は膝の上で手を組んだ。
「王都で話します」
「何を」
「街道の宿に、ヴァンドールの卓を作った人がいると」
「それは」
「困りますか」
困る、と言うべきだった。行き先を知られれば人が来る。
けれど、口から出たのは違うことだった。
「三年前のあれは、雨の多い年でした」
テオドラ様が顔を上げる。
「その年は、塩をわずかに強くいたします。畑のものが水を吸って味が薄くなりますので。今日のは、雪の日の煮方でございます。同じではございません」
婦人はしばらく私を見ていた。それから、目のあたりが少しだけ動いた。笑ったのだと思う。
「三年、私は自分の舌を疑っておりました。あの晩のものが忘れられないのは、あの晩が良い晩だったからで、味のせいではないのだろうと」
彼女は椀の底を見た。パンの欠片が一つ残っている。それを匙で拾って、口に入れた。
「舌のほうが正しゅうございました」
「同じではないものを、私は同じだと言い当てたわけですね」
「同じ手のものではございます」
「では、そう話します。同じ手のものだと」
馬車が出ていったのは、日が傾いてからだった。
土間に戻ると、ヴィムさんが炉の鎖を一段下げていた。夜の粥の支度だ。座ったままで、腕だけ伸ばしている。
「膝は」
「明日には」
「布を替えます」
「いや、いい」
彼は火を見たまま言った。
「昔、砦の壁を登るのに梯子を掛けた。上の連中が梯子を落として、その下に俺がいた」
彼が自分のことを話したのは、初めてだった。私は火箸を持ったまま、動かずにいる。
「十年前です。膝の皿が割れて、繋がったが、元には戻らない。雨と雪の前に分かる。うちの婆さんが、天気を聞くならヴィムの膝に聞けと言ってました」
「よく効く膝ですね」
「役に立つのはそこだけです」
私は何か言おうとして、やめた。役に立つところだけを数える癖のある人に、その数え方は違うと言うのは、たぶん、私の役目ではない。私も同じ数え方をしてきた。
彼が鎖をもう一段下げた。鍋の底が火に近づく。
「今日のあれは」
「はい」
「うまかったんでしょう」
「食べていらっしゃらないのに」
「あの人の食べ方を見てました」
椀を置く手つき。匙を戻す間。パンを最後まで拾う指。見ていれば分かる、と彼は言わなかった。言わずに、鎖を持ち直した。
炉の火が、鍋の底を舐めている。外はもう暗い。
十年、私はあの煮込みを作り続けた。義母の命日にも、客人の晩にも、当主が機嫌のいい日にも作った。
一度も、誰にも聞かれなかったことがある。
私の名を尋ねた人は、あの十年で一人もいなかった。




