第6話 誰も粥を作れない
一人目は三日で出ていった。
お義姉様が屋敷を出て、ひと月が過ぎている。
王都の店にいたという男で、兄が人をやって呼び寄せた。背が高くて、指の爪が短く切ってある。
来た日の夕には鶏を焼いた。皮に塩をすり込んで、串に刺して、炉の火から離した場所で長いこと回していた。皮がぱりぱりと鳴って、脂が下の受け皿に落ちる。落ちた脂に、切ったパンを浸して出してくれた。私はおいしいと言った。
二日目の朝、兄が皿を戻した。
「これは違う」
男は待っている。何がどう違うのかを言ってもらうために待っていた。兄は口を開いて、閉じた。
「うちの味ではない」
「うちの味と申しますと」
「食べれば分かる」
食べれば分かるのなら、食べた人が説明できるはずだと思う。けれど兄は説明しなかった。
男は次の日も鶏を焼いた。兄はまた皿を戻した。
次の朝、男は荷をまとめている。裏口で見送ったのはオルガと私だけで、彼はオルガに向かって短く言った。
「あんた、この家の味を知ってるだろう。教えてくれりゃ合わせたのに」
オルガは何も言わなかった。手を前掛けで拭いていた。拭く必要のない手だ。
男が去ったあと、私はオルガに聞いた。
「教えてあげればよかったのに」
「教えられませんでした」
「知らないの」
「はい」
厨房の主が、この家の味を知らないと言った。
二人目は近くの村の女だ。十日いた。
この人はよく働いた。豆も麦も上手に炊いて、洗い場の娘たちにも好かれる。朝は必ず自分で井戸へ行き、その日の水の冷たさを手で確かめてから火を起こす人だった。
辞めたのは、来月の九日を聞いたからだ。
「お母様のご命日でございますね。献立をお聞かせください」
厨房の誰も答えられなかった。
女はオルガに聞き、執事に聞き、最後に私のところへ来た。
私は七つの皿が出ることだけを知っていた。何が出るかは知らない。順番も知らない。最後に出てくるものが冷たくて、匙を入れると震えることは覚えている。名前は知らない。
毎年、その日は朝に礼拝へ行って、戻ると卓が整っている。
「お嬢様。どなたがご存じでいらっしゃいますか」
答えられなかった。
その晩、女は暇を願い出た。理由をこう言ったと聞いている。何を作るべきかを誰も言えない家で、九日の卓に立つのは恐ろしい、と。
兄は「気の小さい女だ」と言った。
代わりを雇えばいい、と兄は言っていた。その程度のことだろう、とも。代わりは二人来て、二人とも出ていった。
十一月の半ばに、私は熱を出した。
朝から喉が痛くて、昼には寝台から出られなくなった。子どもの頃から、熱が出るのはいつも喉からだ。腫れると水も痛い。飲み込むたびに、耳の奥まで響く。
窓を閉めても部屋が寒い。暖炉の火が弱いのだと言うと、侍女が薪を足した。
夕方、新しい侍女が粥を持ってきた。
匙を口に入れて、私は動きを止めた。
塩がきつい。米ではなく大麦の粥で、それは合っている。けれど水っぽくて、麦の粒が芯のまま残っている。喉を通るときに、粒の角が引っかかった。
「これ、あの粥ではないわ」
侍女は困った顔をした。
「あの粥、と申しますと」
「私が小さいときに食べていたの。匂いが違うのよ。もっと香ばしくて、塩がしなくて、少し甘いの」
「甘い粥でございますか」
「甘いというか、甘く感じるのよ」
侍女は下がって、しばらくして戻ってきて、同じものをもう一度持ってきた。塩を減らしたと言う。
オルガを呼んでもらった。
老女は寝台の脇に立って、私の椀を覗き込んだ。それから、匙を一つ取って、少しだけすくって舐めた。舐めてから、しばらく口の中で転がしていた。
「麦が生でございますね」
「そうなの。喉に引っかかるの」
「炊く前に水に浸けておりません。それと、火が強うございます」
「オルガ。あなたなら作れるでしょう」
「作れません」
「なぜ」
「私は作ったことがございません」
「アンナは作れたのよ。あの子が作っていたんだもの。あの子が嫁いでしまったから、誰も覚えていないだけで」
オルガは椀を持ったまま、しばらく黙っている。
私はその沈黙が嫌だった。
「オルガ」
「お嬢様」
「なあに」
「アンナは八年前、この家におりません」
「あの子は、去年嫁いだのよ」
「はい。参りましたのは六年前でございます」
私は数えた。指を折るまでもない。八年前、私は十一で、アンナはこの家にいない。
「では、誰が」
声が掠れた。喉のせいではなかったと思う。
オルガは椀を寝台脇の卓に置いた。
「あれは奥様のお手ずからでございました。控えはございません」
天井の梁が見えた。梁の節がいくつあるかを、私は知らない。
「大麦を、一度炒るのでございます」
オルガは静かに続けた。
「炒ると匂いが立ちますので、食の細いお子でも匙をお取りになる。塩は入れません。塩は喉に障りますから。かわりに鶏の脂をひとすくい落とす。お子の舌は脂を甘いと感じるのだと、奥様は仰せでした」
私は椀のほうを見た。白くて、薄くて、湯気の立たない粥だった。
「奥様は、四日のあいだ毎晩お作りになりました。三度目の晩に、お嬢様が半分召し上がったと聞いております」
「あなた、知っているじゃない」
「聞いておりました。作ったことはございません」
「同じでしょう」
「違います、お嬢様」
老女は初めて、少しだけ声を強くする。
「炒る加減は火と麦で毎回違います。奥様は毎回、匂いで止めておいででした。私は匂いを教わっておりません」
私は掛布の縁を握った。握ってから、爪が手のひらに食い込んでいるのに気づいた。
その夜、粥は手をつけないまま冷めていく。
熱が下がったのは三日目の朝で、体が軽くなった代わりに、頭がひどくはっきりしていた。
先月、廊下でお義姉様に会っている。菓子のことを聞いた。誰が作るのか、と。お義姉様はお兄様がお決めになりますと三度言った。
そのあと、粥の話をしたのは私のほうだ。
アンナの粥がおいしかったと、お義姉様の前で言った。あの子は覚えていませんって言うのよ、忘れているのも仕方ないわね、と言った。
お義姉様は、アンナは良い侍女でしたと答えた。
それだけだ。
訂正されなかった。あのとき、お義姉様の顔がどうだったかを思い出そうとして、思い出せない。私は自分の話をしていて、相手の顔を見ていなかった。
十九年、私はこの家で誰の顔も見ていなかったのかもしれない。
寝台の上で膝を抱えて、私は長いあいだ動かなかった。
昼過ぎ、兄の書斎へ行った。
兄は机に向かって何か書いていた。紙が三枚、丸めて足元に落ちている。書き直しているのだと分かった。
「お兄様。何を書いていらっしゃるの」
「エルシャにだ」
「なんと」
「戻るように書いた。屋敷が回らん」
私は机の端を見た。書きかけの紙の、上のほうだけが見える。文字は追わなかった。
「お兄様」
「なんだ」
「謝っていらっしゃるの」
兄は筆を置いて、私を見た。心底、分からないという顔だった。
「何をだ」
私は口を開く。
言いたいことがあった。喉のところまで来ていた。八年前の粥のことも、先月の廊下のことも、先に私が言わなければならない。
言えなかった。
「なんでもありませんわ」
「ならいい。お前も便りを書け。妹から言われれば、あれも考え直す」
考え直す、と兄は言った。
戻ってくれと書いた紙を三枚丸めておいて、それでも兄は、お義姉様が考え直す側の人間だと思っている。
書斎を出て、扉を閉めた。
廊下は寒かった。窓の外はもう暗くて、厨房の煙突からは煙が上がっていない。夕の支度の刻限を、この家はもう守れなくなっている。
階段の下で、洗い場の娘が二人、小声で何か話していた。私が通ると黙った。黙ってから、片方が慌てて頭を下げた。
自分の部屋まで戻り、寝台に腰を下ろす。
十一の冬、私は四日熱を出して、三日目の夜に半分だけ食べて、匙を握ったまま眠った。誰かが私の指を一本ずつ開いて、匙を外した。あの手を、私は知らない。
十年、私はアンナにお礼を言ってきた。
侍女の名を呼び続けた十年分の礼を、私は誰にも返せない。




