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あなたが召し上がっていたのは、私の記憶です  作者: 九葉(くずは)


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5/12

第5話 あなたは何が食べたいのですか

三脚亭に居ついて、十日が過ぎた。


宿代は前払いにした。嫁入りのときに持たされた金がわずかにあって、それを崩している。一月は持つ。


四日目に、私は主人に申し出た。


「働かせていただけませんか」


彼は水桶を運ぶ手を止めずに言う。


「何ができますか」


「洗い物と、掃除と」


そこで一度切って、続けた。


「炉の番も」


「洗い物と掃除はお願いします」


「炉は」


「炉は貸せません」


理由は言われなかった。私も聞かなかった。人の家の炉は、その家の人が決める。


旅の者は日に十人ほど来て、椀と匙を置いていく。井戸の水は冷たくて、三日で手の甲が割れた。屋敷では手袋を使っていたのだと、水に手を入れてから思い出した。


手袋は義母のものだ。厨房に立つ伯爵夫人など前例がなかったから、誰も私のぶんを新しく誂えなかった。義母の手は私より一回り大きくて、指先が余る。余ったところが鍋の縁に触れて、二度焦がした。


その手袋は屋敷に置いてきた。


主人の名はヴィムという。三日目に泊まり客が呼んだのを聞いた。


彼は朝と夕に炉に立ち、昼のあいだは薪を割る。右の膝が悪い日は割らない。割らない日は、椅子に座って豆を選っている。選り方が丁寧で、虫食いを一つずつ指で弾く。無駄なほど丁寧だった。


客が薪を運ぼうかと言うと、彼は自分で運ぶ。運びながら、三歩に一度、右足を庇う。庇っていることを見せない歩き方をしようとして、かえって目につく。


十日のあいだ、彼が椅子を炉のそばへ寄せて煮炊きをした日が二度あった。二度とも、その日の汁は少し塩が強かった。立って作れない日は、味を見る回数が減る。


その人が炉を貸さない。


七日目の夜だった。


客が引けて、土間には炉の火だけが残っていた。私が最後の椀を拭いていると、ヴィムさんが火のそばの椅子に座って、鎖の段を一つ下げた。大鍋の底が火に近づく。


「明日の朝の粥です」


聞いてもいないことを言われた。私は布を畳んで、板の端に置く。


「あの、ご主人」


「はい」


「炉を貸していただけないのは、私の腕を見ていないからでしょうか」


彼は膝に手を置いて、少しのあいだ火を見ていた。


「腕は見ています。あなたが座る場所で分かります」


「場所」


「火から二つ離れたところに座る人は、火のそばに長くいた人です」


炉の薪が崩れて、火の粉が上がる。彼は手を伸ばして、崩れた薪を火箸で戻した。


「それに、初日にうちの三脚を見ましたね」


見た。見て、何も言わずにいる。言わなかったのに、この人は見たことのほうを覚えている。


「じゃあ、なぜ」


「うちに来る人は、ここで飯を食べて、朝には出ていきます。誰が作ったかを覚えて帰る人はいません」


「それでかまいません」


「あなたはそう言うでしょうね」


彼は鎖から手を離して、こちらを見る。


「誰に出すかは後で決めればいい。あなたは何が食べたいのですか」


私は布を持ったまま立っていた。


答えを探した。探しているうちに、自分が何を探しているのか分からなくなった。


明日の朝は冷える。冷える朝は麦の粥がいい。旅の者は早く発つから、腹持ちのするものがいい。膝の悪い人には温かい汁がいい。義母は塩を強くしたものを好んだ。ユーディト様は甘いものしか受けつけない。夫は、脂の多いものを出すと機嫌がよかった。


出てくるのは、全部、誰かの名前だった。


前世でも、こうだったのだろうか。


思い出そうとして、また一つ減っているのに気づいた。夏に食べていた冷たいものがあった。器が汗をかいて、卓に丸い跡を残す。中身が思い出せない。名前は去年まで出てきた気がする。今年は出てこない。


減っていくものを数えるのはやめた。数えても戻らない。


「今すぐでなくていい」


ヴィムさんは立ち上がり、膝をかばう歩き方で奥へ入っていく。


三日かかった。


一日目は、聞かれたことの意味が分からなかった。二日目は、意味は分かる。答えのほうが浮かばない。


三日目の朝、雨が上がって、外の轍に薄い氷が張った。私は井戸で水を汲みながら、指先が痛むのを感じていた。芯まで冷えた日には、噛むものより飲むもののほうがいい。


そこまで考えて、手を止めた。


これも誰かのための答えだ。けれど、今日の私は寒い。寒い私が飲みたいものと、寒い旅人が飲みたいものが、たまたま同じであってもかまわないのではないか。答えになっているかどうかは分からない。分からないまま言うことにした。


土間に戻って、ヴィムさんに言った。


「根菜と、骨の鍋を」


彼は豆の鉢を置く。


「作ってください」


炉を任されたのは、それが初めてだった。


まず三脚を見た。脚が短くて、鍋の底が炭に近すぎる。薪の端を鋸で落として、木片を三つ作り、脚の下に噛ませた。指二本ぶんの高さが上がる。手を炉の上にかざして、熱の当たり方を確かめた。これでいい。


骨は牛の脛を二本もらった。水から入れて、沸く手前で火を弱くする。沸かせば濁る。表面に灰色の泡が集まってきたら、玉杓子の縁で掬って捨てる。三度掬えば、あとは出てこない。


根菜は蕪と人参と、地の下で越冬させた芋。蕪は皮を厚めに剥く。薄く剥くと筋が残って、口の中で毛のようにほどける。人参は乱切りにして、面を多くする。切り口が多いほど、汁と行き来する場所が増える。芋は最後に入れる。早く入れると崩れて、汁を濁らせる。


蕪の葉は捨てない。刻んで最後に散らす。青いものが浮いていると、同じ鍋でも人は二杯目を頼む。


塩は二度に分ける。一度目は骨を煮ているあいだに少しだけ。二度目は火から下ろす直前に、味を見ながら。


昼を過ぎたころ、鍋の縁が静かなのに、匂いが先に立った。


湯気より匂いが早い。


土間の隅で豆を選っていたヴィムさんが、手を止めていた。


夕方、客が七人入った。


椀に注いで出すと、最初の一人が息を吐いた。椀を両手で持って、縁に口をつけたまま、しばらく動かない。二人目は無言で二杯目を頼んだ。


芋を口に入れた男が、隣の男に何か言って、隣の男が笑った。


「兄さん、これは今日は違うな」


「違うな」


私は板場で椀を拭いていた。


板場からは、土間の様子が半分だけ見える。


誰が作ったのかを、客たちは聞かない。それでも、二杯目を頼んだ男が炉のほうを見て、それから板場のほうを見た。目で探している。


十年、私は探されたことがなかった。


そのうちの一人が、椀を返しに来て、私の手を見た。


「洗い場にしちゃ、荒れてるね。それ、火傷かい」


手の甲の、去年の分が赤く残っている。親指の付け根の古いのは白く平らで、もう傷とは分からない。八つのうち、四つは指を伸ばせば見える場所にある。


私は手を引こうとした。


卓の下に手を隠す動きは、体が覚えている。十年、そうしてきた。


ヴィムさんは炉のそばにいて、こちらを見ていた。見ていて、何も言わない。隠せとも、見せろとも言わない。


私は手を引くのをやめた。


「火傷です」


「そりゃ、いい手だ」


男はそれだけ言って、椀を置いて出ていった。私は自分の手を見た。同じ手だ。今朝までと何も変わっていない。変わったのは、これを見た人がいるということだけだった。


夜になって、客が引けた。


鍋の底に、汁が三杯ぶん残っていた。私はそれを椀に取って、火のそばに座って飲んだ。


熱が喉を通って、肩甲骨の内側から広がっていく。汗は遅れて出てくる。飲み終わると、しばらく立ち上がりたくなくなった。


これが、私の食べたかったものだろうか。


寒い日に温かいものを飲めば、誰でもこうなる。誰でもこうなるものを、私が選んだと言っていいのだろうか。


火を見ていた。三脚の脚に噛ませた木片が、熱で少し焦げている。明日は取り替えたほうがいい。


私が食べたいものの名前を、私はまだ一つも知らなかった。

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