第4話 三脚亭
門を出るとき、誰にも会わなかった。
書き置きは短い。しばらく屋敷を離れますとだけ書いて、日付を入れた。実家の名は出さなかった。出せば人をやることになる。
実家へは行かない。父は三年前に亡くなり、兄が家を継いでいる。兄は私を置いてくれるだろう。置いてくれたうえで、半年もすれば、私を屋敷へ帰す算段を始める。そういう人だ。
嫁がせるとき、父は私に一つだけ言った。あちらの家の味を覚えなさい、と。覚えたら二度と困らないから、と。
父はたぶん、覚えることが働くことだとは思っていなかった。
荷は衣裳箱が一つと、布に包んだ銅鍋。外套は洗い場へ行くときのものを着た。裾が短くて、泥がついても構わない一枚だ。
厨房の脇を通って裏門へ出た。煙突から煙が上がっていて、扉の隙間から油の匂いがしている。昼の支度の刻限だ。鶏を炙るなら、あと四半刻は皮に触らないほうがいい。触ると皮が破れて、脂が落ちて、火が上がる。
そういうことを考えるのは、今日で最後にしようと思った。
裏門の番はいつもの老人で、私を見て慌てて立ち上がった。
「奥様。おひとりで」
「少し出ます」
「馬車をお回ししましょう」
「歩きます」
老人は何か言いたそうにしている。私が門をくぐると、後ろで門扉が閉まる音がした。閉める音は、いつもよりゆっくりだった。
村の外れで薪を積んだ荷馬車に行き合って、街道の先まで乗せてもらった。御者は私が誰なのかを聞かず、私も名乗らない。乗り賃のかわりに、馬の背に掛ける布を押さえていてくれと言われた。押さえていた。
薪は白樺で、切り口がまだ濡れている。この乾き方では今年の冬には間に合わない。来年の分だろう。
途中で御者が振り返って、私の手を見た。
「奥さん、洗い場の人かい」
「似たようなものです」
御者はそれきり何も聞かなかった。荷台の揺れで、膝の上の包みが二度落ちかけた。
風が冷たい。日が落ちる前に、荷馬車は街道の分かれ道で止まった。
「この先に宿がある。歩いて半刻ってとこだ」
礼を言って降りた。半刻歩くと、木立の切れ目に低い建物が見えた。
看板は木を削ったもので、絵が彫ってある。輪の下に脚が三本。鍋を火に載せるときの、あの金具の形だった。文字は書かれていない。
扉は建て付けが悪くて、下の縁が敷居を擦った。押すと、暖かい空気が顔に当たった。
土間の真ん中に炉が切ってあって、火が入っている。天井から鎖が下がり、その先に大鍋。鎖は段になっていて、どの段に掛けるかで火からの距離が変わる。今は下から二段目に掛かっている。
炉端には三脚の金具も置いてあって、そちらには小さい鍋が載っていた。
長椅子が二つ。奥の一つに旅の男が二人座って、黙って何か食べている。天井は低く、梁が煤で黒い。
匂いを吸って、私は立ち止まった。
焦げている。
大鍋のほうではない。三脚に載っているほうだ。金具の脚が短くて、鍋の底が炭に近すぎる。あの高さでは、鍋の底の真ん中だけが先に焼ける。焼けたところに麦が張りついて、そこから苦みが出る。
言おうとして、やめた。
三脚の脚は継ぎ足せる。木を噛ませてもいいし、炭を掻き分けて窪みを作ってもいい。
私はこの家の者ではない。この家の炉は、この家の人が決める。
十年、私は誰にも頼まれていない場所で、頼まれていないことを直し続けてきた。
「いらっしゃい」
奥から男が出てきた。大きい。背丈のことではなく、肩と手が大きい。年は三十を少し過ぎたくらいで、袖をまくった腕に古い傷が何本か走っている。
歩き方に癖があった。右の膝をあまり曲げずに、腰から先に出す。長く立った日の終わりに、ああいう歩き方になる人を見たことがある。
「一晩、お願いできますか」
「部屋は空いてます。飯は」
「いただきます」
男は頷いて、炉のほうへ戻った。
私は炉端の長椅子の、火から二つ離れたところに座った。近すぎると顔が火照る。遠すぎると足が冷える。二つ離れたところが一番いい。
外套を脱いで膝に置く。荷は足元。銅鍋の包みだけ、膝の上に載せておいた。
しばらくして、皿が来た。
木の椀に麦の煮込み。塩漬け肉の切れ端と、玉ねぎ。汁は濁っていて、表面に脂が丸く浮いている。浮いた脂の輪が、椀を持つと震えて、また丸くなる。匙は木で、柄が短い。使い込んで、縁が片側だけ薄くなっていた。右手で使う人ばかりが握った匙だ。
膝の上の包みを横にどけて、椀を受け取った。手のひらに熱が来る。
一口目で、焦げの味がした。
底のほうの麦が少し苦い。玉ねぎは煮すぎて形がない。塩は強い。
二口目を飲んだ。
肉は硬い。塩を抜かずに煮たのだろう。歯で挟むと、繊維に沿って裂ける。裂けた断面から塩気が出てきて、そのあとに獣の匂いが遅れて来る。悪い匂いではない。
三口目のとき、私は自分の手が止まっていることに気づいた。
熱いものが喉を通って、胸の裏側を下りていく。指先ではない。背中の、肩甲骨の内側のあたりから温かくなる。汗が遅れて出てくる。
前世でもそうだった。前世の記憶の中で、私は誰かの作った鍋を食べていた。湯気の向こうに背中があって、その人は振り返らずに何か言っていた。
何と言っていたかは、もう出てこない。声も出てこない。残っているのは、背中の内側が温かくなる順番だけだ。肩甲骨、それから腰、最後に耳の後ろ。
その順番を、私は今日まで誰にも話したことがない。話す相手がいなかったのではない。話す機会が、十年のあいだ一度も来なかった。
十年、私は自分の作ったものしか食べていない。
自分で作ったものは、作りながら味を見ている。卓に出る頃には、その味を五回は口にしている。だから食べても何も起きない。
他人の作ったものは、次に何が来るか分からない。
私は椀を持ち直した。焦げた麦も、煮すぎた玉ねぎも、全部匙で掬った。椀の底に丸く残った汁を、傾けて飲んだ。
椀を置く音が、思ったより大きかった。
顔を上げると、男が炉の向こうに立っていた。見られていたのだと思う。
彼は何も言わずに来て、椀を取った。取ってから、椀の中を見た。
「足りましたか」
「はい」
「おかわりは」
「いいえ。ありがとうございます」
男は椀を持って戻りかけ、途中で足を止める。
「明日はどちらまで」
聞かれると思っていた。私は答えを用意していなかった。
門を出てから半日、私は誰にも行き先を聞かれていない。御者にも、番の老人にも聞かれていない。行き先を聞かれない女というのは、どこにも属していない女のことだ。
「まだ、決めておりません」
自分の声が思ったより小さかった。
男は少しのあいだ黙っていた。それから、椀を板の上に置いて、炉の三脚を蹴る。蹴ったというより、爪先で位置を直した。金具が炭から少し離れる。
「行き先は聞きません。何日でもどうぞ」
私は男を見た。
「部屋は明日も空いてます。冬前は客が少ない」
それだけ言って、彼は奥へ入っていった。右の膝をあまり曲げない歩き方で。
戸口の柱に手をついて、一度だけ体を預けた。
長く立った日の終わりの人だ。
炉の火が薪を割る音がする。大鍋の縁で、汁がゆっくり動いていた。
奥の長椅子の旅の男たちが立ち上がり、階段を上がっていった。土間には私だけが残った。
外はもう暗い。三脚の位置は、さっきより一寸ほど外へ出ている。あれなら底の真ん中は焼けない。明日の朝の麦は、少しましになるだろう。
外の風が扉を鳴らした。誰も開けに行かない。この宿では、風が鳴っても誰も立たないらしい。
布の上から、鍋の丸みが分かる。十年、私はこの鍋で誰かのために何かを作ってきた。今日は何も作らなかった。作らなかったのに、腹が満ちている。
私は火を見ていた。
誰かの作った汁が、私の背中の内側を温めていた。




