第3話 代わりを雇えばいい
匙を二度動かして、私は皿を押しやった。
味が違う。何がどう違うのかは言えない。塩とも脂とも思えないが、口に入れた瞬間に、これは違うと分かる程度には違った。
「これは、いつもと同じものか」
給仕の若い者は、皿を見て、それから私を見た。
「豆の煮込みでございます」
答えになっていない。もう一度聞くほどのことでもない。
汁の色が白い。いつもは、もう少し澄んでいた気がする。気がする、という程度のことを人に言うと角が立つ。私は水だけ飲んで席を立った。
廊下でオルガを呼び止めた。この家に長い料理番で、母の代からいる。
「オルガ。今朝の煮込みは誰が作った」
「私でございます」
「昨日までと同じ手順か」
老女はしばらく黙っている。それから、前掛けで手を拭いた。拭く必要のない手だった。
「奥様から、今日より台所への指図はいたしませんと申し渡されました」
「指図」
「はい」
私はその言葉を口の中で転がす。指図というのは、卓に何を出すかを決めることだろう。献立を決める者がいなくなれば、料理番が決めればいい。この家には料理番がいる。母の代からいる。
「では、おまえが決めればいい」
「さようでございますね」
老女の返事に妙な間があったが、それを取り立てて考えるほど、朝は暇ではなかった。
書斎へ入る前に、玄関の卓を見た。
昨日のうちに包ませておいた贈り物が、置かれていない。アーレンス家のジゼル殿へ届けるはずのもので、今日の午後には使者が来る。
執事を呼んだ。
「菓子はどうした」
「厨房にはございません」
「ないとは」
「作る者がおりません、と」
私は玄関の卓の、何も載っていない天板を見ていた。あの包みは決まった形をしている。蜜蝋を塗った紙で口を閉じて、糸をかけない。糸をかけると受け取った者が指を汚すからだと、いつだったか聞いた気がする。誰から聞いたのかは覚えていない。
紙の折り目に爪で筋が入っていて、そこを押さえると閉じたまま持てる。届いた先で女中が開くのに手間取らない。そういう作りだった。どこの店のものかは知らない。
ジゼル殿は、あれをたいそう気に入っていた。前に来られたとき、杏の煮方について私に尋ねられて、私は笑って何か答えた。何と答えたかは覚えていない。
あの方は詩の話ができる。この家で詩の話ができる相手は他にいない。妻は本を読まないわけではないが、こちらが何か言うと、そうでございますねと答えて終わる。
「使者には、次の便に回すと伝えろ」
「かしこまりました」
「それと」
執事が足を止める。
「代わりの料理人を雇えばいい。その程度のことだろう」
言ってしまってから、自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。廊下の端で、洗い場の女が二人、こちらを見ずに通り過ぎていく。
書斎の窓は北向きで、朝でも薄暗い。
私は帳面を開き、冬の荷駄の割り当てを書き直した。橋の普請の分担で隣領と話がついていない。そちらのほうが、菓子より遥かに重い話だった。
昨夜、妻は何か言っただろうか。
思い出そうとして、思い出せなかった。おはようと言った。雨になるらしいとも言った。妻の返事はさようでございますか。それだけだ。それだけの朝を、私は十年繰り返してきたのだから、昨日と今日を区別できないのは当然でもある。
扉が鳴った。返事をする前に開く。妹だ。
「お兄様」
「入るときは待て」
「待ちましたわ。お兄様が黙っていらしたから」
ユーディトは肩掛けの端を握ったまま、机の前に立った。座らない。座らないときは、長い話ではない。
「来月の九日のこと」
「九日」
「お母様のご命日でしょう」
そうだった。ここのところ、その日は屋敷が勝手に整う日になっている。朝に礼拝へ行き、戻ると卓が用意されていて、皿が順に運ばれてくる。私はその前に座って、母のことを少し話す。毎年そうしている。
十年、一度も日取りを間違えたことがない。前の晩に誰かが確かめに来た覚えもない。そういう日は、来れば来たとおりに過ぎていく。
「それがどうした」
「オルガが、献立をどうすればよろしいでしょうと聞いてきたの」
「お前が答えればいい」
「わたし、知らないもの」
「知らないとは」
「順番も、何が出るかも」
妹は少し口をとがらせた。
「お兄様は覚えていらっしゃるでしょう。毎年召し上がっているのだもの」
私は口を開いた。
母の好きだったものなら知っている。豚の煮込み。それから。
それから、と考えて、次が出てこなかった。北向きの窓のほうを見る。窓は見ても何も教えない。皿が七つ並ぶことは知っている。並ぶ順に意味があることも、どこかで聞いた。最後に出てくるものが冷たくて、匙で掬うと震えることも覚えている。名前が出てこない。
出てこないのは名前だけで、味は知っている。知っているのだから、思い出せないのは些細なことだ。
「オルガに任せろ。あれは母の代からいる」
「でも」
「九日にはまだ間がある。誰か雇えば済む」
妹は何か言いかけて、やめた。やめてから、扉のところで一度振り返った。
「お兄様。お義姉様が明日の菓子はどうなさるのって聞いたら、お兄様がお決めになりますって仰ったのよ」
「そうだろうな。決めるのは私だ」
妹は今度こそ何も言わずに出ていく。
私は帳面に戻った。橋の分担は、こちらが三分の二を持つ形でまとめるしかない。数字を並べていると気が落ち着く。数字は、書いておけば翌日も同じ場所にある。
昼を過ぎた頃、女中が来て、妻の部屋の窓辺を片づけてよろしいかと聞いた。片づけるほどのものが置いてあった覚えはない。好きにしろと答えた。
その日の午後、妻の部屋から銅鍋が一つ消えた。




