第2話 控えは残しません
翌朝は、厨房へ降りた。
昨日と同じ刻限に目が覚めた。寝台を出て、髪を結い、階段を降りる。厨房の扉を押すと、湯気と炭の匂いが顔にかかった。オルガが竈の前にいる。私の足音で振り返り、木匙を持ったまま少し背を伸ばした。
「奥様。おはようございます」
「おはよう」
竈には三つの鍋が掛かっている。左は昨日の豆で、真ん中は湯、右は空だ。右の鍋の底に水滴が残っている。拭かずに掛けたのだと分かる。
奥の板場では下働きの娘が二人、根菜を洗っていた。私が入ってきたのを見て、手の動きが速くなる。十年、私が扉を開けるたびにこの家の厨房は速くなった。
鍋の底のことも、娘たちの手の速さのことも、私はもう言わない。
「オルガ」
「はい」
「今日から、台所への指図はいたしません」
木匙が止まった。粉の入った鉢の縁に当たって、乾いた音がする。
オルガは私の顔を見た。それから、私の手元を見た。私は何も持っていない。前掛けもしていない。十年、この扉をくぐるときは必ず前掛けを持っていた。
「今日からとは」
「今日からです」
「明日は」
「明日もです」
彼女は聞き返さなかった。理由も尋ねない。
板場の娘たちの手が止まっていた。オルガが振り返らずに何か低く言うと、水の音がまた戻った。
彼女は竈のほうへ体を向けた。
「奥様。来月の九日は」
義母の命日だ。
毎年、その日の卓には七つの皿が出る。義母が好きだった順に並べる。塩漬けの豚の煮込み、大麦の粥、酢漬けの根菜、鶏の腿を炙ったもの、干した無花果、蜂蜜のかかった堅い菓子、それから最後に、彼女が晩年だけ好んだ薄い葡萄酒の煮こごり。
煮こごりは手間がかかる。仔牛の脛を三刻煮て、澄んだところだけを布で漉し、葡萄酒を加えてもう一度火に戻す。濁らせないためには、沸かしてはいけない。鍋の縁に細かい泡が並ぶくらいの火で、ひたすら待つ。冷えて固まるまでにひと晩。義母は最後の冬、これだけは匙で二口召し上がったと聞いた。私はその場にいない。聞いた話だけで作った。
順番も、量も、味の濃さも、その年の天気で少しずつ変えてきた。
雨が続いた年は塩をわずかに強くする。冷えた年は脂を落とさない。私はそれを、毎年その場で決めていた。
紙に書いたことは一度もない。
「来月の九日のことは」
言いかけて、私は言葉を選び直した。
「私の口からは、何も申しません」
オルガは何も言わなかった。竈の火が薪を割る音だけが続く。
しばらくして、彼女が言った。
「三年前でございます」
「ええ」
「私が、書き留めてもよろしいですかと申し上げました」
「ええ」
「奥様は、控えは残しませんと」
粉の鉢に落ちた影が動いた。木匙の柄はすっかり黒くなっていて、握るところだけが薄い色をしている。何十年も同じ持ち方をした跡だった。
「あのとき、無理にでもお願いしておくのでございました」
私は答えなかった。
答えれば、理由を言うことになる。理由を言えば、この人は私を引き止めようとする。引き止められれば、私は、たぶん、また前掛けを取ってしまう。
書き留めるというのは、順番と分量を書くことだと、この人は思っている。書けないのは、その年の雨の量や、召し上がる人の顔色や、卓に着く前に何を歩いてきたかで、塩の一つまみが変わるからだ。義母の煮込みの丁子が二本なのは、義母の舌が二本を求めたからで、三本の家では三本が正しい。
紙に書けるのは、二本という数字だけだ。
「オルガ」
「はい」
「右の鍋は、底を拭いてから掛けたほうがよく持ちます」
それだけ言って、私は厨房を出た。最後の指図になった。
廊下に出たところで、義妹が階段を降りてくるのに行き合った。
ユーディト様は十九で、朝は必ず遅い。この時刻に起きているのは珍しかった。髪も結わずに、部屋着の上に肩掛けだけを巻いている。
「お義姉様」
私を見つけると、彼女は残りの三段を飛ばして降りた。
「お義姉様、明日の菓子はどうなさるの」
明日、彼女の友人が三人来る。二月も前から決まっていて、そのために私は蜂蜜と胡桃を用意してあった。胡桃は殻から出して薄皮を落とし、乾いた鍋で色がつくまで転がす。焦がすと苦みが出て、蜂蜜の甘さが痩せる。焼くのは当日の朝がいい。前の晩に焼くと、翌朝には胡桃の油が回って重くなる。
去年は八つ焼いて、二つ余った。余った二つは私が食べた。誰も数えていないから、余ったことも知られていない。
「どなたにお作りいただくかは、お兄様がお決めになります」
ユーディト様は口を開けたまま、私を見ていた。
「え」
「そう申し上げました」
「でも、あれはお義姉様が焼くものでしょう」
「そう決まっていたわけではありません」
「決まっていたわけではないって」
彼女は言葉を探している。探しているあいだ、指先で肩掛けの房を巻いていた。
「だって、いつもお義姉様が」
「ええ」
「じゃあ、誰が」
「お兄様がお決めになります」
三度目に同じことを言うと、彼女はようやく黙った。それから、少し笑った。困ったときに笑う癖がある。
「わたし、何か失礼なことを申しました」
「いいえ」
「では、どうして」
答えないでいると、彼女は自分で話を継いだ。沈黙が続くと、自分で埋めてしまう。
「わたし、この間アンナに言ったの。熱を出したときの粥がとても美味しかったって。あの子ったら、覚えていませんって言うのよ。十一のときの話ですもの、忘れているのも仕方ないわね」
アンナは去年嫁いだ侍女だ。八年前、この屋敷にはまだ来ていない。
けれどユーディト様の中では、あの粥はアンナが作ったことになっていて、アンナ本人はそれを覚えていないことになっている。誰も嘘をついていない。ただ、作った者だけが数に入っていない。
粥の話なら覚えている。ユーディト様が十一の年の冬で、熱が四日続いた。喉が腫れて何も入らないというので、大麦を一度炒ってから煮た。炒ると匂いが立って、食欲のない子でも匙を取る。
塩は入れない。塩は喉に障る。かわりに、煮汁に鶏の脂をひとすくいだけ落とす。子どもの舌は脂を甘いと感じる。
三度目の夜にようやく半分食べて、彼女は食べながら眠った。匙を握ったままだったので、指を一本ずつ開いて外した。手が熱かった。
言えばよかったのだと思う。あれは私です、と。
言わなかったのは、そのとき彼女の枕元に義母の姿がなかったからだ。母のいない子に、母のかわりが誰なのかを教えるのは、私の役目ではないと思った。
十年、そう思い続けてきた。
「ユーディト様」
「はい」
「アンナは、良い侍女でした」
彼女は嬉しそうに頷く。頷いてから、私の顔をもう一度見て、少しだけ首を傾げた。
「お義姉様。怒っていらっしゃるの」
「いいえ」
これは本当だった。
自室へ戻った。
窓際の銅鍋を手に取る。小さい。片手で持てる大きさで、嫁入りのときに実家から持ってきた。この家のものは何一つ私のものではないけれど、これだけは私のものだった。
内側を明るいほうへ向けると、錫引きの剥げが端から三本、川のように伸びているのが見える。銅が出ているところは赤黒い。ここに酢を落とせば緑青が出る。酸の強いものはもう煮られない。水と、骨と、根菜だけなら、まだ何年でも使える。
洗い場から湯をもらってきて、内側にゆっくり回した。冷たい鍋にいきなり熱い湯を入れると、錫が浮く。ぬるいところから始めて、少しずつ熱くする。義母の鍋も、この手順で私が守ってきた。屋敷の鍋は全部で十一。どれがどの料理に向くか、どれが焦げやすいか、どれの取っ手が緩んでいるか、私は言える。言える相手がいない。
湯を捨て、布で拭く。拭いてから、乾いた布でもう一度包んだ。
嫁いできた日、私の荷はこの鍋と衣裳箱が一つだった。出ていくときも、それで足りる。
抽斗の蜜蝋の包みは、そのままにしておいた。あれは渡す相手がいて意味のあるものだ。
窓の外で、荷馬車が門を出ていく音がした。厨房の煙突からは煙が上がっている。誰かが火を守っている。それでいい。
明日の朝、胡桃は誰かが焼くのだろう。焦がすかもしれない。焦がしても、ユーディト様のお友だちは何も言わずに食べて帰る。誰も、去年の八つのうち二つが余ったことを知らないように。
膝の上に置いた包みに、両手を重ねた。
布の内側で、鍋はまだ温かかった。




