第1話 今朝、私は湯を沸かさなかった
今朝、私は湯を沸かさなかった。
部屋の炉は冷えていた。灰が昨日の形のまま残っている。
寝台から出ずにいると、廊下を人が二度通った。三度目に、扉の外で足が止まった。
「奥様。お加減でも」
「いいえ」
それだけ答えた。足音は遠ざかっていく。
しばらくして、その足音が戻ってきた。
「湯をお持ちいたしましょうか」
返事をするまでに間があいた。沸かした湯を運ばれる側になるとは考えたことがない。
「いいえ。結構です」
扉の向こうで、侍女が困っている気配がした。困らせているのは私だ。
十年、この屋敷で最初に火を入れるのは私の役目だった。夜明けの少し前に厨房へ降りて、灰の下から昨夜の熾を掻き出す。まだ赤いところへ細い薪を三本、風の通り道を作って重ねる。乾きの足りない薪は音で分かる。水瓶から鍋へ水を張り、鍋の底を布で一度拭いてから鎖に掛ける。誰にも頼まれていない。婚礼の翌日から、一度も休まずにそうしてきた。
掛布から手を出す。
左の親指の付け根に、白く平らになった跡がある。これは古い。四年前、菓子の型を出すときに鉄板の縁を掴んだもので、もう指の皮膚と見分けがつかなくなった。手首の内側の赤いのは去年の分だ。盛り上がって、いまも指で押すと硬い。
右の手の甲に二つ。人差し指の第二関節に一つ。数えたことがなかったので、数えてみた。八つあった。八つのうち、誰かに何か言われたものは一つもない。
火傷は触れた瞬間には何も起きない。皮膚が熱を飲み込んで、少し遅れてから痛みが来る。痛みが来る頃には、鍋はもう火から下りている。
朝食の卓に着いたのは、いつもより半刻遅かった。
煮込みが運ばれてくる。蓋を取る前から、私には分かる。
出汁は、湯気より先に匂いが立つ。鍋の縁がまだ静かなうちに、匂いだけが先に卓へ届く瞬間がある。今朝はその瞬間がなかった。蓋を取ってから、遅れて湯気と一緒に匂いが上がってきた。塩漬けの豚と、大麦と、根菜。汁は白く濁っていた。強い火で煮ると濁る。骨から出るものが出きる前に、身の側が先に崩れる。私が作れば、汁は琥珀のまま、匙で掬うと底の根菜が形を保っている。
夫は食べていた。
「エルシャ」
「はい」
「今日は雨になるらしい」
「さようでございますか」
それきりだった。皿の底が見えるまで、彼は一度も匙を止めない。味が違うことに気づいていないのか、気づいて何も言わないのか、私には判じられなかった。判じる必要も、もうない。
匙を置き、彼は椅子を引いた。
「昼は書斎で摂る。運ばせておいてくれ」
誰に運ばせるのかは言わない。私が誰かに言い付けるのだと、彼は思っている。
扉が閉まる音がして、卓に私だけが残った。冷めた煮込みの表面に、脂が薄い膜になって張っていく。強い火で煮た脂は、冷めるとこうなる。
昨夜、この卓には客人がいた。
王都から回ってきた老いた婦人で、名は伏せられていた。旅の途中に立ち寄っただけだと夫は言っていたけれど、彼が朝から髭を整え、銀器を出させたことを私は知っている。
出したのは、義母が好きだった煮込みだった。塩漬けの豚を一晩水に浸けて塩を抜き、骨ごと弱い火で煮る。丁子を二本。干した杏を四つ。杏は煮崩す寸前で引き上げ、汁だけを鍋へ戻す。最後に酢をほんの少し落とすと、脂の重さが引く。
亡くなった義母マルグリットの卓の味で、彼女の死後は誰も作れなくなり、そして私が作れるようになった。
婦人は一口食べて、匙を置いた。
「これは」
そのまま少し黙っている。皿の縁を見て、それからもう一口食べた。今度は汁だけを掬い、口に含んでから、しばらく目を伏せていた。
「どなたがお作りになりましたの」
夫が答える。
「妻の手すさびです。お口に合いましたなら何よりで」
私は水差しに手を伸ばした。伸ばしかけて、卓の上に手が出ていることに気づく。
夫がこちらを見ていた。何も言わない。視線だけが、私の手の甲の、赤く盛り上がったところに落ちて、それから私の顔へ戻る。
手を膝に下ろした。
婦人はまだ何か尋ねようとしていた。杏はどこのものかと聞かれれば、南の谷のものだと答えられた。酢を落とす頃合いを聞かれれば、火から下ろす直前だと答えられる。答えられることばかりだった。
口を開きかけたところで、夫が街道の話を始めた。冬の荷駄の話、隣領の橋の普請の話。婦人は少しのあいだ夫を見て、それから話に付き合った。
食後には砂糖漬けを出すつもりでいた。杏を蜂蜜で二度煮て、蜜蝋を塗った紙に包んで、抽斗の奥で三月ねかせたものだ。出さなかった。
手を膝に置いたまま、頃合いを一度過ごし、二度過ごす。そのうちに婦人が席を立った。私は卓に残って、銀器を数えていた。
銀の匙が皿に触れる音が、その晩は妙に大きい。
寝支度をしながら、私は一度だけ考えた。
十年前、婚礼の三日目に、夫は私を厨房へ連れていった。義母が使っていた鍋を見せて、母の味を覚えている者がもう屋敷にいないと言った。
覚えている必要はない。私には舌がある。一度食べた味は、材料の順番まで分かる。義母の煮込みは、彼女の生前に一度だけ、婚約の挨拶で口にしていた。丁子が二本だと分かったのは、三本なら舌の奥に苦みが残るからだ。
だから作った。
作れたことを、夫は喜んだ。その日は喜んだ。翌週も同じものを求められ、翌月も求められ、季節が変わると義妹の熱の夜の粥を求められ、年が明けると当主の祝いの菓子を求められた。求められるたびに私は厨房へ降りた。
礼を言われた記憶がない。
正確に言えば、初めの半年は言われた気がする。けれど半年が過ぎたあたりから、卓に出るものは屋敷に元からあるものになった。井戸の水のように、暖炉の熱のように。
そこまで考えて、私は考えるのをやめた。考えても味は良くならない。
不満があったわけではない。厨房は静かで、火の前は暖かかった。夕方、鍋の底に残った汁を掬って味を見る時間だけが、この家で私一人のもの。十年、思い続けられる程度には十分だった。
それから、私は階段を降りた。
厨房の扉の前まで来て、足を止めた。
中でオルガが動いている音がする。老いた料理番で、私が嫁いでくる前からこの家にいる。彼女は私の手順を覚えようとしたことがある。三年前だ。粉を計る木匙を持ったまま、書き留めてもよろしいですか、と聞いた。
控えは残しません、と私は答えた。
理由は言わなかった。言えるものでもない。
書き留めてしまえば、私がいなくても、この家の卓は回る。それが恐ろしかった。私がここにいる理由は、私が覚えていることだけだったから。
扉の隙間から湯気が漏れている。中の匂いで、豆の火加減が強すぎるのが分かった。鎖をひと目上げて、鍋を火から遠ざければ直る。
オルガが顔を出した。
「奥様、今日の指図はいかがなさいます」
私は扉の枠に手を置いた。
言うべきことは分かっていた。塩は昼まで足さないこと。夕の卓には根菜を厚く切ること。十年、毎朝この場所で口にしてきた言葉だ。
けれど、昨夜の卓で、私の手は卓の下に隠された。
「今日は」
そこまで言って、私は言葉を切った。
「今日は、後にします」
オルガは何か言いかけて、それから頭を下げた。扉が閉まる。中の湯気が途切れる。
廊下の窓から中庭が見えた。井戸の周りで洗い場の女たちが立ち話をしている。誰も私を見ていない。奥様が厨房へ来なかったという話が、あと何日かすればあの井戸端に届くのだろう。
自室へ戻る途中、私は自分が階段を上がる速さが違うことに気づいた。いつもは片手で裾を持ち、もう片方で手すりを掴んで駆け上がる。両手が空いているというのは、こういうことなのだ。
抽斗を開けた。
奥に、蜜蝋を塗った包み紙が四つ。中身は砂糖漬けだ。義母の命日に、夫に渡そうとして渡さなかったもの。義妹の誕生日に、渡す機会を逃したもの。残りの二つは、いつのものか思い出せない。
蜜蝋の紙は指の熱でわずかに柔らかくなる。包みの口を閉じるとき、爪の先で筋を付けると綺麗に留まる。一つを手に取って、また戻した。
前世の記憶は、年ごとに薄れていく。
私がここへ来たとき、覚えていた味は数え切れないほどあった。今は、思い出せないものが三つある。誰かが台所で作っていたもので、私はそれを毎日食べていたはずなのに、名前も、色も、もう出てこない。湯気の向こうに誰かの背中があったことだけを覚えている。
湯気の温度も覚えている。顔を近づけると睫毛が湿るくらいの、あの熱も。けれど鍋の中身が何色だったかが出てこない。色が出てこないものは、もう作れない。
覚えていてくれる人がいれば、忘れずに済んだのだろうか。
抽斗を閉めた。
嫁入りのときに持ってきた銅鍋が、窓際に置いてある。内側の錫引きが端から剥げかけていた。酸の強いものを煮ればもう傷むけれど、水と骨だけなら、まだしばらくは使える。使えるうちは、使う。
窓の外が明るくなってきた。雨になるとは思えない空だった。
厨房の煙突からは、もう煙が上がっている。私のいない厨房で、湯は沸いている。誰かが火を入れ、誰かが鍋を掛けた。それで屋敷は回る。
十年ぶりに、私は誰の朝も温めなかった。




