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あなたが召し上がっていたのは、私の記憶です  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話 母君の命日

九日の朝は、毎年よく晴れる。


母が死んだ日も晴れていた。十二年前の十二月九日で、私は十七だった。喪服の襟が硬くて、首の後ろが擦れたことを覚えている。


礼拝は半刻で終わる。神父の言葉はいつも同じで、途中から私は母の顔を思い出すことにしている。晩年の母は痩せていて、頬骨のところに影ができていた。


思い出せるのは顔だけだ。声はもう出てこない。何を話したかも出てこない。今年は、顔の輪郭も少し薄い。


礼拝から戻ると、卓が用意されている。


十年、そうだった。扉を開けると皿が並んでいて、湯気が上がっていて、私は自分の席に着いて、母のことを少し話す。妹が二つか三つ相槌を打つ。それで一年が終わる。


今年も、卓には皿が並んでいた。


七つ。数だけは合っている。


湯気の立ち方が違った。いつもは扉を開けた瞬間に匂いが来る。今年は、席に着いて蓋を取ってから匂いが来た。


私は席に着いた。妹は向かいに座って、膝の上で手を組んでいる。あの日から、妹は私と話さない。用があれば話すが、用のないことは話さない。


「いただこう」


匙を取った。


一つ目は煮込みだった。


口に入れて、私は動きを止めた。


塩が違う。いや、塩ではないのかもしれない。脂の残り方か、煮た時間か。分からない。分からないが、これは違う。母の煮込みは、匙で掬うと根菜が形を保っていた。この皿の根菜は崩れて、汁に溶けている。


二つ目は粥だった。大麦で、炒っていない。粒の角が舌に当たる。


三つ目は酢漬けの根菜。酸が立ちすぎて、飲み込んだあとに喉の奥が縮む。


四つ目は鶏を炙ったもので、皮が破れていた。破れた場所から脂が落ちて、身が乾いている。


どれも、違う。


舌が何かを覚えていて、その何かを言葉にする道具を、私は持っていない。


五つ目の皿が来た。干した果実だ。無花果だったか、杏だったか。


六つ目は菓子で、蜂蜜がかかっていて、硬い。


七つ目が来ない。


給仕が下がったので、私は呼び止めた。


「もう一つあるはずだ」


「あと一皿でございますか」


「最後に、冷たいものが出る」


給仕は困った顔をして、厨房のほうへ行った。戻ってくるまでに、ずいぶん長くかかった。厨房で誰かに聞き、その誰かも知らず、また別の誰かに聞いたのだろう。


「そのようなものは、承っておりません」


「何という料理か、お聞かせいただけますか」


私は口を開いた。


冷たい。匙を入れると震える。透き通っていて、葡萄酒の色をしている。母は最後の冬、それだけは二口召し上がった。


目の前に出されれば、これだと言える。十年、毎年食べている。


名前が、出てこない。


「名は」


そこで止まった。


妹がこちらを見ている。私は妹を見返した。妹は目を伏せた。伏せるとき、少し首を振ったように見えた。妹も知らないのだ。


「では、母の好きだったものを、順に言ってみろ」


「お兄様」


「言ってみろ」


「豚の煮込みと」


妹はそこで止まった。


「それから」


「わたしは、存じません」


私は自分の皿を見た。七つのうち、六つが出ている。六つとも味が違う。七つ目は名前がない。


「母の好きだった料理の名を、私は一つも言えない」



妹は何も言わなかった。立ち上がって、扉のところで足を止めた。


「お兄様。オルガをお呼びになったほうがよろしいわ」


それだけ言って、出ていった。


私はオルガを呼んだ。


老女は前掛けのまま来た。厨房から呼ばれて出てくるとき、この人はいつも前掛けを外していた。


手が荒れている。冬に洗い場へ立つ手だ。料理番が洗い場に立っている。


「オルガ。命日の献立は、誰が決めていた」


「奥様でございます」


「毎年か」


「毎年でございます」


「厨房で相談してから決めたのか」


「奥様がお一人で決めておいででした。前の晩に厨房へお下りになって、明日はこうすると仰せになる。それだけでございます」


「同じものを、毎年出していたのか」


老女は少し黙っている。それから、卓の皿を一つずつ見ていった。見終わってから、口を開く。


「同じものではございません」


「同じだろう。七つの皿だ」


「皿は七つでございます。中身の按配が、毎年違いました」


「按配」


「雨の多い年は、塩をわずかに強くなさいます。畑のものが水を吸って、味が薄くなりますので。冷えた年は脂を落とさずにお出しになります。先代の奥様は、寒い日には脂の重いものを召し上がったと」


私は匙を置いた。


「十年、そうしていたのか」


「十年でございます」


「なぜ言わなかった」


「申し上げましても、旦那様がお決めになることではございませんでしたので」


言い方に棘はない。事実を並べているだけの調子だった。


「最後の一皿は」


「葡萄酒の煮こごりでございます」


「それだ」


「仔牛の脛を三刻煮て、澄んだところだけを布で漉して、葡萄酒を加えてもう一度火に戻します。沸かせば濁りますので、鍋の縁に泡が並ぶくらいの火でお待ちになる。固まるまでにひと晩」


「作れないのか」


「作れません」


「手順を今、言ったではないか」


「手順は聞いております。作ったことがございません」


「同じことだろう」


「手順は言葉になります。止める頃合いは、言葉になりません」


オルガが卓の端に手を置く。置いてから、その手を引っ込めた。


「旦那様」


「なんだ」


「先代の奥様がお亡くなりになった年、私は煮こごりを存じませんでした。この家の誰も存じませんでした。奥様は、先代の奥様が召し上がったという話だけをお聞きになって、翌年にはお出しになりました」


「食べたことのないものを、作ったのか」


「はい」


「どうやって」


「存じません」


声が少し落ちた。


「旦那様がお召し上がりだったのは、奥様の記憶でございます」


私は卓の木目を見ていた。


十二年前、母が死んだ。翌年、私は爵位を継いだ。その翌年に、私は結婚した。婚礼の三日目に、私は妻を厨房へ連れていって、母の味を覚えている者がもう屋敷にいないと言った。


妻は覚えていなかった。婚約の挨拶で一度食べただけだ。


覚えていないものを、あの人は作った。


そして毎年、雨の量を測り、寒さを測り、私が知りもしない按配で変えながら、十年、私に食べさせた。


私は自分が母の味を覚えているのだと思っていた。


覚えていたのは、あの人だ。


「オルガ」


「はい」


「妻は、何か言っていたか」


「どのようなことでございましょう」


「なんでもいい」


オルガはしばらく考えていた。


「ご自分の覚えていらっしゃるものが、年ごとに減るのだと」


「減る」


「はい。三年前でしたか、思い出せない味が三つあると仰せでした。もう作れないと」


「病気か」


「存じません。そういうものだと仰せでした」


「三つとは、何だ」


「お聞きしておりません。奥様は、名前が出てこないものの話はなさいません」


私は何も言えなかった。


十年、同じ屋敷に住んで、同じ卓に着いて、私はそれを一度も聞いていない。妻は言わなかった。言わなかったのではなく、言う機会が来なかったのだろう。私は妻に、今日はどうだったかと尋ねたことがない。


ふた月前の晩餐のことを思い出した。


老侯爵夫人が煮込みを褒めて、作った者を尋ねた。私は妻の手すさびですと答えている。妻が水差しに手を伸ばして、卓の上に手が出た。手の甲に赤い跡があった。


私はその手を見る。見て、妻の顔を見た。妻は手を膝に下ろした。


赤い跡は一つではなかった。今になって、そのことが浮かんでくる。手の甲に二つ。指の関節に一つ。親指の付け根には白く平らになったものがあって、あれは古いものだ。何年も前からあったものを、私はあの晩に初めて見た。


私が言ったのではない。目で示しただけだ。


目で示しただけだ、と自分に言ってみて、それが何の弁明にもならないことが分かった。目で示せば通じる程度には、私たちはあの動作を繰り返していた。


私は席を立った。


厨房へ降りる。


十年、この階段を降りたことがない。降りる用がなかった。段の途中で天井が低くなっていて、頭を下げなければ通れない。妻は毎朝ここを、両手に何か持って上り下りしていたことになる。


厨房には人がいなかった。夕の支度にはまだ早い。


竈の火は落としてある。灰の下に熾が残っていて、近づくと顔だけが温かくなる。


鍋を探す。


壁に掛かっているのが六つ、床に置いてあるのが三つ、竈の脇に二つ。全部で十一。どれがどれに向くのかを、私は知らない。


仔牛の脛を三刻。澄んだところだけを布で漉す。葡萄酒を加えて火に戻す。沸かせば濁る。鍋の縁に泡が並ぶくらいの火で待つ。固まるまでにひと晩。


手順は言える。今しがた聞いたばかりだ。


私は水瓶の前に立つ。


立って、水を張らなかった。


張ったところで、止める頃合いを私は知らない。縁の泡がどう並べば止めるのかを、この家で知っていた人間は一人だけで、その人はここにいない。


灰の中で熾が一つ崩れた。


その音を聞きながら、私は数えていた。


十年のうちで、私が妻に礼を言った日。


婚礼の翌日から数えた。最初の冬。あの年は雪が多くて、私は書斎にこもっていた。厨房から湯気が上がっているのを窓から見た覚えがある。誰が上げている湯気かを、私は考えなかった。


次の春。妹が熱を出した冬。母の三回忌。領主会で保存食の話をした秋。ジゼル殿が初めてこの家へ来た夏。


うまかった、とは言った気がする。よくやっている、とも言ったかもしれない。それは料理に言った言葉で、人に言った言葉ではない。


三年目まで数えて、私は数えるのをやめた。


出てこないと分かっているものを数え続けるのは、探しているのではない。探した恰好をしているだけだ。


竈の前に、木の踏み台が置いてある。低い。背の高くない者が、鍋の中を覗くために使う台だ。


十年、この家の誰も、この台を使う人の背丈を測ったことがない。


私はそれを見ていた。


私は母の味を、十年かけて他人の手から食べていた。

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