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あなたが召し上がっていたのは、私の記憶です  作者: 九葉(くずは)


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11/12

第11話 あなたが召し上がっていたのは

その日は、朝から雪が降っていた。


峠が塞がって、東へ抜けられなくなった。夕方までに宿は埋まった。領主会の帰りの一行が七人、供の者を入れて十五人。それに老侯爵夫人テオドラ様と、女中が二人。


三脚亭にこれだけの人が入るのは、ヴィムさんが継いでから初めてだという。長椅子を二つ足し、樽を裏返して腰掛けにした。それでも足りず、階段の下に敷物を敷いた。


私は夕の支度を三度に分けて出した。一度に出すと、汁が卓の上で冷める。冷めた汁は、温め直しても最初の味に戻らない。


塩漬けの豚を骨ごと煮て、根菜を厚く切って入れた。十八人ぶんの鍋は重い。鎖を掛けるとき、ヴィムさんが横から手を添えた。添えただけで、持ち上げはしない。


厚いパンを椀の底に敷いて、上から汁を注ぐ。領主会の方々は、最初は黙って食べている。二杯目を頼む声が出たのは、三度目の配りのときだった。


十八人ぶんの椀を洗い終えたのは、遅い刻限だった。


土間には炉の火だけが残っていた。長椅子にテオドラ様が座っておられて、領主会の方々のうち三人がまだ酒を飲んでいる。ヴィムさんは炉の反対側で、明日の薪を積んでいた。


私は炉の前にいた。


明日の朝の粥のために、麦を炒っていた。乾いた鍋に麦を広げて、木匙で絶えず動かす。手を止めると下だけが焦げる。


音が変わる瞬間がある。粒が鍋に当たる音が、湿った音から乾いた音になる。そのあとに匂いが立つ。匂いが立ってきたら、そこで下ろす。焦げる寸前の匂いと、焦げた匂いは違う。


違いを説明しろと言われたことはない。


扉が鳴った。


風の音とは違う。誰かが押している。建て付けの悪い扉が敷居を擦って、雪と一緒に人が入ってきた。


外套の肩に雪が積もっていた。積もるほど長く外にいたのだと分かる。


夫だった。


土間の会話が止まる。領主会の三人が顔を上げ、そのうちの一人が立ち上がりかけて、また座った。テオドラ様は動かれない。


夫は扉のところで雪を落として、土間の中央まで歩いてきた。


歩き方が違った。屋敷の廊下を歩くときの、踵から下ろす歩き方ではない。足の裏全体で床を探るような歩き方だった。


峠が塞がったのは昼過ぎで、屋敷を出たのはそれより前のはずだ。今夜この宿に誰が泊まっているかを、夫は知らずに来ている。


そこで足を止めた。


「エルシャ」


私は木匙を動かしていた。麦が焦げる。動かさなければ焦げる。


「妹が来たと聞いた。会わずに帰したそうだな」


「はい」


「私も、追い返されるのか」


答えなかった。答えれば会話になる。会話になれば、この人は自分の順番で話を運ぶ。


夫はしばらく立っていた。それから、外套の襟に手をやって、外した。宿の中で外套を外すのは、長くいるつもりだという意味だ。


「九日に、母の命日をやった」


私の手は止まらない。


「七つの皿のうち、六つしか出なかった。六つとも味が違った。七つ目は、名前が出てこなかった」


炉の薪が一つ崩れた。ヴィムさんが薪を積む手を止めて、火箸で戻した。


「オルガに聞いた。あの献立は、毎年お前が決めていたそうだな。雨の年は塩を強く。冷えた年は脂を落とさない。十年、お前がそうしていた」


「はい」


「厨房へ降りた」


私は木匙を止めなかった。


「十年で初めてだ。竈の前に、低い踏み台があった」


その台は、私が入って三年目に、大工に作らせたものだ。大鍋の中を覗くのに、私の背では足りない。


「私は、母の味を覚えているつもりでいた」


酒を飲んでいた三人が、椀を置く。置く音が三つ続いて、それきり土間が静かになった。


「覚えていたのはお前だ」


麦の匂いが立ってきた。


私は鍋を火から下ろして、板の上に置いた。木匙を鍋の縁に掛ける。掛けてから、手を前掛けで拭く。


拭いた手を、私は下ろさない。


夫がその手を見た。


「ふた月前の晩だ」


声が少し低くなった。


「客人が煮込みを褒めて、作った者を尋ねられた。私は妻の手すさびですと答えた。お前が水差しに手を伸ばして、卓の上に手が出た。手の甲に跡があった」


長椅子のほうで、衣擦れの音がした。テオドラ様が姿勢を変えられたのだと思う。


「私は、その手を隠せと目で示した」


土間の誰も何も言わなかった。テオドラ様も、あの晩あの卓におられた方だ。


「言葉では言っていない。


「していた。十年、していた」


私は自分の手を見ていた。


手の甲に二つ。指の関節に一つ。親指の付け根に古いのが一つ。数えれば八つあって、そのうち四つは、伸ばせば誰にでも見える場所にある。


新しいものは赤く盛り上がって、指で押すとまだ硬い。古いものは白く平らになって、皮膚と見分けがつかない。火傷は触れた瞬間には何も起きない。少し遅れて痛みが来る。来る頃には、鍋はもう火から下りている。


十年、この人はこの手を見なかった。見なかったのではなく、見て、隠させた。


その人が今、この手を見ている。


胸のあたりが動いた。動いたことを、私は認めた。認めないと嘘になる。


十年待っていたものが、十年経ってから、二十人近い人の前で出てきた。出てこないよりは、出てきたほうが良かった。


良かった、と思っている自分がいる。それを見つけて、私は少し怖くなった。ここで頷けば、十年は報われた話になる。楽なほうへ、体が半歩だけ傾いた。


麦の匂いが、焦げるほうへ傾き始める。


「エルシャ」


夫が一歩前に出る。


「戻ってくれ。台所は好きにしていい。礼も、これからいくらでも言う」


火の音がした。


私は炉のほうへ向き直った。


天井から下りている鎖に手をかけて、一段上げた。大鍋の底が火から離れる。夜のあいだ、この鍋は煮えすぎないほうがいい。


それだけのことをして、私は振り返った。


「旦那様」


十年、そう呼んでいた。


「一つだけ、申し上げます」


「聞く」


「控えを残さなかった理由でございます」


夫の顔が、少し動いた。予想していた話ではなかったのだろう。


「私は、覚えているものが年ごとに減ります。去年言えた味が、今年は言えません。子どもの頃から食べていたものが、名前も色も出てこなくなります」


「オルガから聞いた。病か」


「そういうものです」


私は前掛けの端を握った。


「減っていく者が、控えを残せばどうなるとお思いですか」


答えは待たなかった。


「紙が残ります。私がいなくても、あの卓は回ります。回るようになった日から、誰も私を数えません」


土間は静かだった。薪が爆ぜる音だけがする。


「私が控えを残さなかったのは、意地でございます。十年、私はあの家で、数えられるための意地を張っておりました」


夫は何か言おうとする。口が開いて、閉じた。


「けれど、意地を張っていたのは、私が数えられていなかったからでございます」


私は一歩も動かなかった。動かないまま、言った。


「あなたが召し上がっていたのは、私の記憶です」


炉の火が鍋の底を舐めている。


「母君の味も、義妹様の粥も、村の塩の割合も、全部、私の頭の中にありました。私が持って出たのではありません。はじめから、そこにしかなかったのです」


夫が手を差し出した。


差し出した手が、少し震えている。


私はその手を見る。見て、自分の手を前掛けの中に入れた。


「ヴァンドール伯爵」


十年で一度も使ったことのない呼び方だった。


「もう、お返しするものがありません」


夫の手が下りた。


ふつうの速さで下りて、体の横につく。それだけだった。


長椅子のほうで、テオドラ様が小さく息を吐かれた。咎める息ではない。安堵の息でもない。長く生きた人が、話の終わりを聞き取ったときの息だった。


領主会の方々は、誰も口を挟まない。


「礼を、言わせてくれ」


「今おっしゃった礼は、十年前のぶんではございません」


「では、どうすればいい」


「どうにもなりません」


私はそう言った。


責めているのではない。恨んでいるのでもない。恨んでいれば、まだ何か残っている。残っているものがあれば、返す話にもなる。


私の側には、返すものがない。


夫は土間の真ん中に立っていた。


長いあいだ立っていた。誰も声をかけない。


この人は、こういうときにどうすればいいかを知らない。知らないまま十年、私の隣にいた。テオドラ様も、領主会の方々も、ヴィムさんも、何も言わない。宿の主人は、炉に薪を一本足しただけだった。


やがて、夫は外套を取る。


着るのに手間取っている。袖の位置が分からないようだった。着てから、私のほうを見ずに扉へ歩いた。


扉が開いて、雪の音が入って、閉まる。


土間の空気が元に戻るまで、しばらくかかった。テオドラ様が立ち上がり、女中に何か言い、階段を上がっていかれる。領主会の方々も、順に上がっていった。


私は炒った麦を布に移す。少し焦げていた。焦げた分は明日の朝、上のほうから掬えばいい。


冷ましてから壺に入れる。明日の朝、これを煮る。


ヴィムさんが薪を積み終えて、炉のそばに座った。膝に手を置いて、火を見ている。


何も聞かれなかった。あの人は誰だったのかも、なぜ来たのかも聞かない。


「明日の朝は、十八人ぶんです」


「はい」


「麦は足りますか」


「足ります」


それだけの話をした。


私は鎖の段を元に戻した。大鍋の底が火に近づく。夜のあいだに、明日の汁の下地ができる。


炉の火は、私の鍋のためだけに燃えていた。

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