第12話 私が食べたいもの
年が明けて、雪が根雪になった。
峠は閉じたままで、旅の者はほとんど来ない。日に二人か三人。荷を運ぶ者たちが、朝の粥を食べて出ていくだけだ。
冬のあいだ、三脚亭の土間は静かだった。
洗い物が減ると、手の甲の割れが治る。治ると、水が沁みなくなる。沁みなくなってから、私は自分がずっと痛かったことに気づいた。
ある朝、ヴィムさんが布に包んだものを持ってきた。
「これを」
板の上に置いて、包みを開く。
私の銅鍋だった。
内側が明るい。端から三本、川のように伸びていた剥げが消えている。銀色の面が縁までつながって、光を返していた。
「錫を引き直しました。まだ使えます」
私は鍋を手に取った。
軽くなっているはずはないのに、手のひらの中で軽く感じた。縁のところに、前にはなかった細い筋が一本ある。直した人の手が通った跡だ。
嫁入りのときに実家から持ってきて、十年、屋敷の隅に置いていた。使ったのは水と骨と根菜だけ。酸の強いものは一度も入れなかった。
これから何を煮ても、この鍋は傷まない。
「どちらで」
「峠の下に鋳掛けがいます。冬は暇にしてるので」
「お代は」
「もう払いました」
そう言って、彼は薪のほうへ行った。話はそれで終わりだという背中だった。
私はしばらく鍋を持っている。
酸の強いものは煮られないと、私はこの鍋のことを諦めていた。誰にも言っていない。
言っていないのに、この人は鍋の内側を見ていた。
その日の午後、便りが届いた。
荷馬車の御者が置いていったもので、宛名は私の名前だけが書いてある。家名はない。差出人の名も書かれていなかったが、字を見れば分かる。
オルガの字は、線が太くて、終わりのところで力が落ちる。手が疲れる人の字だ。
紙は一枚。中身は四行だった。
一行目に、屋敷の者は変わりなくおりますと書いてあった。
二行目に、旦那様は九日の卓を今年からお出しにならないと決められた、とあった。母君の命日には礼拝だけをなさる。誰も作れないものを卓に並べるのはやめる、と旦那様が仰せになったのだと。
それを読んで、私は何も思わなかった。
半年前なら、七つの皿が消えると聞けば、何かが痛んだと思う。今は、九日に礼拝だけをなさる家の話が、遠い土地の天気のように読める。
三行目に、旦那様が離縁の書付に判をお押しになったとあった。侯爵夫人が王都で口添えをしてくださったそうでございます、と続けてある。
これで、私はヴァンドールの名を返すことになる。お返しするものがないと申し上げた口で、名前だけは返す。
これも同じだった。
四行目にはこうある。
お嬢様が、初めてご自分で湯を沸かされました。
それだけだった。
私は紙を二度読んで、畳んだ。
ユーディト様は十九で、湯の沸かし方を知らない。知らないまま嫁げば、一生知らないまま終わる人もいる。私はそういう家に嫁いで、そういう家で十年、湯を沸かした。
あの方が何を作ろうとして湯を沸かしたのかは、書かれていない。
書かれていないほうがいい。
書いてしまえば、私はそれを直したくなる。麦は炒ってから、と言いたくなる。塩は喉に障ります、と言いたくなる。
言わずにおくというのは、こういうことだ。
紙を抽斗に入れた。この宿へ来てから作った蜜蝋の包みは、一つも残っていない。作ったそばから、誰かが持って出ていく。
夕方、私は献立を決めるために炉の前に立った。
宿の献立は、その日にあるもので決まる。今日は蕪が四つと、大麦と、乳が一壺。塩漬けの豚は昨日で切らした。旅の者は二人しか来ていない。
いつもなら、ここで数える。
二人ぶん。ヴィムさんの膝は今日はいい。だから固いものでも食べられる。荷運びの二人は夜明け前に発つから、腹に残るものがいい。乾いた風の日だったから、汁気は多めがいい。
十年、私はこうやって数えてきた。数える相手の顔を並べて、その全部に合う一皿を探す。
そこまで数えて、私は手を止めた。
私は白いものが食べたかった。
熱くて、白くて、匙で崩れるもの。理由はない。今朝から、それが食べたいと思っていた。思っていたことに、今、気づいた。
私は乳の壺を取った。
蕪を厚めに剥く。薄く剥くと筋が残って、口の中で毛のようにほどける。厚く切って、水から茹でる。竹串が中心まですっと入ったら、そこで湯を捨てる。
大麦は昨日の残りを使った。一度炒ってあるので、香ばしさが少し残っている。
銅鍋を炉に掛けた。
錫を引いたばかりの鍋は、乳を入れても大丈夫だ。剥げたままの鍋に乳を入れると、匂いがおかしくなる。
乳は沸かさない。沸かすと膜が張って、その膜が舌に残る。鎖を二段上げて、鍋の底が火からずいぶん離れたところで、ゆっくり温める。
木匙で底を撫でるように動かす。焦げるのは底の中央だ。中央だけが先に熱を受けて、そこから茶色い点が出る。出る前の、匙にかかる手応えが少し重くなるところで火から離す。
蕪と大麦を入れる。塩をひとつまみ。
胡椒を少しだけ挽いた。宿の棚に一粒ずつ数えられるほどしかない胡椒で、ヴィムさんは客に出す汁には使わない。今日は使った。誰にも断らずに使った。
そのまま待つ。
湯気が上がる前に、匂いが立った。
乳と蕪の匂いは似ている。似ているものを一緒に煮ると、どちらでもない匂いになる。甘いような、青いような、名前のない匂いだ。
私はその匂いを嗅ぎながら、前世のことを考えていた。
夏に食べていた冷たいものを、去年の秋に忘れた。器が汗をかいて、卓に丸い跡を残すものだった。中身が思い出せない。
今年は、もう一つ減っている。
湯気の向こうに背中があった。その背中が誰のものだったか、名前がついていた気がする。ついていたことは覚えている。ついていた名前が出てこない。
呼べば返事をした人だ。返事の声も、もうない。
私が忘れることで、あの人は二度目に死ぬのだと思っていた。だから覚えていようとする。覚えていようとして、他人の記憶ばかり守っていた。
減った。守っても減った。
減っていく。
これから先も減っていく。いつか、義母の煮込みの丁子が二本だということも忘れるだろう。ユーディト様の粥の麦を炒ることも、蕪の皮を厚く剥くことも、忘れる日が来る。
それでも、今、私の手は動いている。
木匙が底を撫でて、焦げる手前で止まる。止める頃合いを、私はまだ知っている。知っているうちに、作る。
荷運びの二人には、麦と豆の汁を別に出した。腹に残るものがいいと言ったのは私で、二人は黙って二杯ずつ食べて、階段を上がっていった。
土間に残ったのは、白い鍋のほうだ。
椀に注いだ。二つ。
一つを板の上に置いて、もう一つを持って、私は炉端の長椅子に座った。火から二つ離れたところだ。
ヴィムさんが薪を置いて、こちらに来た。
長椅子は二つある。客用の一つと、炉の脇の一つ。彼はいつも炉の脇に座る。
その日、彼は私の向かいに座った。
板を挟んで、私と同じ高さで、同じ鍋のものを持って。
「いただきます」
「どうぞ」
彼が一口飲んだ。飲んで、椀の中を見た。
「白いですね」
「はい」
「これは、誰のものですか」
十年、この問いの答えはいつも決まっていた。義母のもの。義妹のもの。当主のもの。客人のもの。
私は椀を持ったまま、少し考えた。
「今日は、私が食べたいものを作りました」
彼は頷いた。それだけだった。
飲むと、喉から胸の裏へ熱が下りていく。指先ではない。肩甲骨の内側から広がって、そのあと腰へ来る。汗は少し遅れて出た。
飲み終えて、私は椀を膝に置いた。しばらく動きたくない。
「エルシャさん」
「はい」
「春になったら、この宿を一つ広げようと思います」
「はい」
「土間をもう少し出して、板場を広くする。人がもう一人入れるように」
私は火を見ていた。
板場が広くなれば、二人で立てる。二人で立てば、鍋は二つ掛けられる。掛けられる鍋の数を、私はもう数え始めている。
「私は、忘れていきます」
言うつもりのなかったことが出た。
「毎年、一つずつ減ります。何年か経てば、味の名前も出てこなくなります。いつまでいられるかは、申し上げられません」
ヴィムさんが椀を板に置く。置いてから、私の手を見た。
膝の上に出したままの手だった。隠すのを、私はもうやめている。
「八つですね」
数えられた。
憐れまれもせず、褒められもせず、ただ数えられた。
「忘れたぶんは、俺が覚えます」
炉の火が、静かに燃えている。
「あなたが忘れたら、俺が言います。蕪は厚く剥くんでしたね、と。それで思い出さないなら、それはもう新しい味です。新しいのを作ればいい」
返事のかわりに、私は椀の底に残った白いものを匙で掬って口に入れた。もう温かくはない。冷めても、この味は落ちない。
空になった椀を、彼の椀の隣に置いた。
板の上に、椀が二つ並んだ。明日もここに二つ並ぶのだと思った。思ってしまってから、取り消さなかった。
外は雪だ。窓の格子の向こうは白くて、境目が分からない。
十年前の冬も雪だった。婚礼の年に、私は屋敷の厨房で初めて義母の煮込みを作った。あの晩、誰かが扉を開けて、匂いがすると言った。誰だったかは覚えていない。覚えていないその一言を、私は十年、何度も思い出した。
明日の朝は、荷運びの二人が発つ。麦を炒って、粥を出す。その次の朝も、その次も。
いつか、炒る音の変わり目が分からなくなる日が来る。
来たら、そのとき考える。
忘れていく私の手が、今夜の味を覚えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




