第三話 広い男の肉体的(フィジカル)矛盾
窓の外には、明日のドームライブを控えて色めき立つ東京の夜景が広がっている。しかし、築四十年の四畳半アパートの室内は、明日の決戦に向けた「物質的な準備」によって、別の意味で緊迫していた。畳の上には、明日のライブに持参するグッズが整然と並べられている。 マオマオちゃんの限定マフラータオル、公式ペンライト二本、特製缶バッジが美しく配置された痛バッグ、そして水分補給用のスポーツドリンク。プラトンは、それらの配置をコンパスと定規を用いてミリ単位で微調整し、完璧な「対称性」を構築していた。「よし……完璧です。この配置こそが、明日のライブにおいて最も効率的にグッズを取り出し、かつ周囲の観客の鑑賞視野を妨げない、黄金比に基づいた『空間の調和』。あとは、明日に備えて私の生体リズムを最適化するために、今夜は二十二時ちょうどに就寝し、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルを完璧に制御するのみ……」「おい、アリストクレスよ」不意に、部屋の隅から低く粘り気のある声が響いた。プラトンは、その「忌まわしき本名」を呼ばれた瞬間、まるで見えない電流を浴びせられたかのように背筋をピンと硬直させた。「……ソクラテス様。その名前で呼ぶのはおやめくださいと、転生初日に固く誓い合ったはずです。私は今や、完璧なる宇宙の秩序を世に広める哲学者、プラトン。その不名誉なあだ名はとうに捨て去ったのです」ソクラテスは、五つの抱き枕のうちの一つの上に顎を乗せ、薄汚れたルーペでプラトンの背中をまじまじと観察しながら、ほっほっほ、と不敵に笑った。「何を言うか。お前がどんなにキーボードを優しく叩こうが、その背中、そして左右に不自然なほど張り出したその肩幅を見れば、アテナイのレスリング場で汗まみれになって男たちを投げ飛ばしていた頃の面影が丸見えじゃぞ。なあ、アリストクレスよ。お前、その異常な肩幅のせいで、せっかく買ったマオマオちゃんの限定推しTシャツのLサイズが、ピチピチになって『大胸筋が主張しすぎている』とSNSのファンコミュニティで噂されておるのを知っておるか?」「な、ななな……!? なぜそれを知っているのですか!あれは、アパレルメーカーの縫製プロセスにおける微細な寸法公差、ならびにポリエステル繊維の伸縮率の計算ミスであって、私の僧帽筋が発達しすぎているからでは……!」「ほっほっほ! 言い訳の筋肉がキレておるな!だいたい、お前の『プラトン』というあだ名からして、レスリングのコーチが『おい、お前は肩幅が広すぎるから今日からプラトン(広い男)だ』と名付けたのが始まりではないか。あるいは、その広すぎる『おでこ』が、夕日に光るアクロポリスの丘のように平らだったからとも言われておる。そんな岩石のようなフィジカルを持った男が、令和の東京の四畳半で、小さなキーボードを壊さないように人差し指をプルプル震わせながら『マオマオちゃんてぇてぇ……』と打ち込んでおる。この物理的な矛盾こそ、天界のどのイデアよりも面白い喜劇ではないか!」「やかましいです!レスリングは若き日の、肉体と精神の調和を保つための神聖な教育課程の一環に過ぎません!私はただ、与えられた頑強な肉体を、現代の知的生産活動へと昇華させているのです!この広い肩幅は、大量の画材や液晶タブレットを一度に運搬するための『運搬効率の最大化』のために存在しているのです!」「ほう。ならば、その『効率の最大化』された頑強な肉体で、なぜ明日のドームライブの物販列に朝の四時から並ぶのを嫌がるのじゃ? お前のその鋼の太ももがあれば、始発の改札が開いた瞬間に他のオタクどもをスクラムで薙ぎ倒し、最前列で限定グッズを買い占めることなど造作もないはずじゃが?」「それは秩序に反する蛮行です!道徳的に、並んでいる他者を物理的に排除することは、普遍的立法の原則に反します!私はただ、ルールに従って、自分の番が来るのを静かに待つのみです!」「ふん、単にあの地獄のような炎天下の物販列に立っておるのが、その繊細な神経にとって耐え難いだけじゃろう。「肉体はヘラクレス、精神はアジサイのように壊れやすい。お前はやはり、己の肉体という『物質』に、精神という『イデア』が完全に敗北しておるのじゃよ。ほっほっほ!」「……言わせておけば、好き勝手と……!私の肉体的矛盾を嘲笑する前に、ご自分の『歴史的・言動矛盾』を振り返り直してはいかがですか、ソクラテス様!あなたこそ、アテナイの法廷で死刑を回避するチャンスがいくらでもあったというのに、陪審員たちに向かって何と言い放ちましたっけ!?『アテナイのために尽くした私にふさわしい処遇は、国賓として毎日タダでごちそうを食べさせてもらうことだ。それが嫌なら、ほんのわずかな罰金(一ミナ)で勘弁してやろう』でしたよね!?」「ぬっ……。そ、それは、わしが常に国家に真理の光を与え続けたことに対する、極めて客観的で妥当な恩恵の要求であって……」「妥当なわけがあるか!!命がかかっている裁判の場で、国家公認のニートの分際で『タダ飯を食わせろ、嫌なら小銭で許してやる』などと煽り倒せば、そりゃあ陪審員全員が激怒して死刑票に一票投じるに決まっているでしょう!ご自分の底なしの煽りスキルのせいで最期を迎えた方が、よくもまあ私の健全なレスリング歴を『矛盾』などと笑えたものです!」「お、お前、師に向かってニートとは何事じゃ!わしは魂の産婆術(対話)という極めて高尚な労働を……」「一銭にもなっていないので現代基準では無職です!!明日のライブ会場では、その『アテナイ最悪の煽り癖』を絶対に発揮しないでください!もしマオマオちゃんや運営に対して不遜な態度をとったら、それこそ一瞬でアカウント永久バン(追放刑)になりますからね!」プラトンがどれほど怒ろうとも、ソクラテスの「広い男イジり」は止まらない。今度は、ソクラテスがスマートフォンを掲げながら、プラトンのおでこをペチペチと軽く叩くような仕草を見せた。「しかし、この『おでこが広い』という説も捨てがたいのう。見てみよ、プラトン。この部屋の蛍光灯の光が、お前のおでこに反射して、百インチのモニターに絶妙なグレア(映り込み)を発生させておるぞ。これではマオマオちゃんの神聖なライブ映像に、お前のおでこの輝きが重なって、真理の光が二重スリット実験のようになってしまうではないか」「物理の用語を不正確に混ぜるのをやめてください!私のおでこは、脳の容積、すなわち知性を司る前頭葉が常人よりも発達しているために、構造的に前方へと突出し、結果として皮膚が引き伸ばされて面積が広く見えているだけです!反射光の拡散については、明日までにヘアバンドを着用し、光の吸収率を九十九パーセントまで高めるブラックホール仕様の対策を施しますので問題ありません!」「ブラックホール仕様のおでこ! ほっほっほ、それは見ものじゃな。だがプラトンよ、お前がどれほど知性でカモフラージュしようとも、お前が書いているWEB小説の読者たち(洞窟の住人)は、すでにお前のその『物理的な気配』を察知しておるぞ」「……えっ? な、何のことですか」プラトンは、嫌な予感がして手元のスマートフォンのアクセス解析画面を開いた。すると、コメント欄に昨日までにはなかった、不気味な書き込みが数多く並んでいるのが目に入った。『この原作者のArchitectsって人、文章は理屈っぽいけど、なんか行間から「ベンチプレス百五十キロくらい挙げそう」なフィジカルの圧を感じる』 『知性の解説パートの熱量より、殴り合いの比喩の筋肉描写がガチすぎる。元格闘家か?』 『プラトンのキャラ、肩幅の広さを物理的に突っ込まれててワロタ。作者の自虐かな?』「ば、馬鹿な……!私の書く文章は、完全に感情を排した、クリスタルのように冷徹で無機質な論理の結晶のはず!なぜ読者どもは、私の文章から『筋肉の乳酸』を感知しているのですか!?このプラットフォームの読者は、野生の猛獣か何かなのですか!?」「わはははは! 読者たちの直感の勝利じゃな!いくらお前が文字という死体の中に魂を隠そうとしても、お前の血潮、その太い血管を流れる熱きパトスは、文字の隙間からダダ漏れになっておるのじゃ。彼らは、お前の冷たい秩序の裏にある、狂おしいほどの『マオマオちゃんへの情動』と『強靭な肉体』の葛藤を読み取って楽しんでおる。結果、お前の原作者プロフィールへのアクセス数が、本日だけで通常の八倍に急騰しておるぞ!」「急騰している場合ではありません!私の神聖な幾何学的アイデンティティが、ただの筋肉ダルマのオタクとして消費されているというのですか!これでは、私が提唱する『美のイデア』の威厳が、根底から覆ってしまいます!」「良いではないか。筋肉ダルマのオタク哲学者。実に現代のイデアにふさわしい、ハイブリッドな存在じゃ。よし、明日のドームライブでは、お前がその広い肩幅でわしをおんぶし、最前列でマオマオちゃんに向かってダブルバイセップス(両二頭筋のポーズ)を決めるのじゃ。そうすれば、マオマオちゃんもお前の『調和された肉体美』に気づき、ステージの上から直々にウインクを送ってくれるに違いない!」「絶対にやりません!!もしそんな筋肉アピールをライブ中にやったら、周囲の観客の視線を物理的に遮るだけでなく、会場の警備員という名の『治安の秩序』によって即座に強制退場させられます!私の夢の最前列を、あなたの筋肉論法で台無しにしないでください!」
深夜。アパートの部屋には、冷たい空気と静寂が戻っていた。結局、プラトンはソクラテスの「おんぶダブルバイセップス計画」を論理的かつ法的な観点から完全に論破し、明日のライブでは「直立不動の、最も空間を圧迫しない姿勢」で鑑賞することを誓わせた。ソクラテスは、「お前の広い背中におんぶされるのは、乗り心地が良さそうだったのじゃがな……」と未練がましく呟きながら、五つの抱き枕に挟まれて、高いイビキをかいて眠りについている。プラトンは一人、暗闇の中で、ノートパソコンのディスプレイが放つ青白い光に照らされていた。彼は、己の広いおでこに手を当て、そこから反射する光が虚空に消えていくのを見つめながら、スマートフォンに向かって、今日の「肉体的矛盾」についての独白を吹き込み始めた。その画面の中で、冷徹なフォントが、彼の内に渦巻く魂の叫びを綴っていく。
【プラトンの思考】
師は私を「広い男」と呼び、私の頑強な肉体と繊細な知性の矛盾を嘲笑する。確かに、私が文字でどれほど完璧な秩序を構築しようとも、そこに私の生々しい肉体の気配が滲み出て、読者たちがそれを敏感に察知し、バズを引き起こしているのは事実だ。人間は、冷たい論理だけでは満足せず、その背後にある生身の「呼吸」や「筋肉の躍動」を、無意識のうちに求めてしまうのだろうか。私の広い肩幅が、もし明日のドームライブで、師の小さな体を人混みから守るための「盾」として機能するのだとすれば。この不条理で頑強な肉体こそが、不完全な現象界において、大切なものを守るための最も確かな「秩序」なのかもしれない。いや、やはりただの肩幅の無駄遣いだ。明日ライブ会場で、もし師が暴走して筋肉のポーズを要求してきたら、その時は私のこのレスラーの技術をもって、彼を優しくスリーパーホールドで眠らせてやる。プラトンは静かにスマートフォンの画面を閉じ、深い溜息をついて布団に横になった。明日はついに、彼らにとっての約束の地、ドームライブ当日。東京の片隅の洞窟で、筋肉と知性、そして愛を詰め込んだ痛バッグを抱え、青年は静かに目を閉じた。彼らの魂が最も熱く燃え上がる、運命の一日が、すぐそこまで迫っていた。




