最終章 ドームの中心でイデアを叫ぶ
押し寄せる人の波、色とりどりの公式Tシャツ、そして空気を震わせるファンの熱気。 東京ドームの外周は、まさに現代における「情動の最高神殿」と化していた。その喧騒のただ中で、プラトンは異様な威圧感を放ちながら直立していた。頭には反射光をカットする黒いヘアバンド(光吸収率九十九パーセント設定)。その下には、広い肩幅を強引に包み込んだピチピチのLサイズ限定Tシャツ。片手には、ミリ単位の美しさでグッズが配置された痛バッグを硬く握りしめている。「見なさい、ソクラテス様。このドームという建築空間を。五万人を超える人間が、マオマオちゃんという『美のイデア』を模倣した偶像に向かって、一つの秩序ある流れを形成している。これこそが現代の都市における、情動とシステムが奇跡的に融合した最高形態の神殿です」「ほっほっほ! お前が理屈を並べれば並べるほど、その隠しきれん胸筋のピチピチ具合が際立つな、アリストクレスよ。 だが、わしにはこの場所が、あの懐かしきアテナイの民会、あるいは光を知らぬ住人たちが壁の影絵を見て騒ぎ立てる『洞窟』そのものに見えるぞ。さあ、早く中に入ろうではないか。わしの魂が、マオマオちゃんの放つ高周波の光を求めてうずいておる!」「焦るなと言っているでしょう!入場ゲートでの手荷物検査における金属探知プロセス、電子チケットのQRコード読み取りにおける照度調整……これらすべてを円滑に通過するためのシュミレーションは、すでに脳内でコンプリートしています。私の後ろにぴったりと影のように追従し、一切の無駄な挙動を慎んでください!」しかし、ソクラテスはすでにゲートのスタッフに向かって、「お嬢さん、手荷物検査とは、人間の所有欲という名の執着を、一時的に国家のルールに委ねる通過儀礼かね?」と話しかけようとしていた。プラトンは無言で、そのレスラー譲りの巨大な手でソクラテスの首根っこを掴み、システムの一部として強制的にゲートを突破した。
手に入れた座席は、奇跡的な神席。アリーナ最前ブロックのほぼ中央。ステージまではわずか数メートルという、あまりの至近距離に、さしものプラトンも呼吸を乱していた。「……信じられない。この距離は、幾何学的な測定限界を超えています。ステージ上のスピーカーから出力される音圧の波形が、私の鼓膜をダイレクトに振動させ、三半規管を通じて脳内に直接『てぇてぇ』の信号を送り込んでくる……」「おいおい、プラトン。何を直立不動で硬直しておる。ほれ、隣の若者たちを見よ。すでにペンライトを両手に抱え、光の儀式を起動させて、狂ったように踊り狂っておるぞ。お前もそのレスラーの広背筋を使って、激しく光の棒を振り回すがよい!」「言ったはずです、私は周囲の視界を物理的に遮らない『直立不動の、最も空間を圧迫しない姿勢』を貫くと!私の愛は、騒がしい動作ではなく、静寂なる観照によってのみ表現されるのです!」その瞬間、ドームの照明が完全に落ちた。地響きのような大歓声。五万人の絶叫が、アリーナの床を物理的に揺らす。ステージ中央の巨大なLEDモニターに、まばゆい光の粒子が走り、爆音のイントロとともに、純白のドレスをまとったマオマオちゃんがポップアップで登場した。「みんなマオマオだよーーー! 今日は最後まで、最高の思い出作っていこうねーーーっ!!」「おおおおお!!マオマオちゃーーーん!!可愛い!!美のイデアそのものが肉体を得てそこに立っておるぞ!!」ソクラテスは、アテナイの法廷でも見せたことのないほどの満面の笑みで、公式ペンライトをものすごい速度で回転させ始めた。その姿は、魂の産婆術を説く賢者ではなく、完全に情動の荒波に身を任せた一人の狂信者だった。「おい、アリストクレスよ! なぜ叫ばん!これほどの光、これほどの善の太陽を目の前にして、黙って立っておるなど、哲学に対する冒涜じゃぞ!ほれ、マオマオちゃんがこっちを見た!今じゃ! お前のその広い肩幅でわしを上に掲げよ!ダブルバイセップスじゃ!!」「やりません!やりませんと言っているでしょう!!私はただ、この網膜に、マオマオちゃんの光学的波動を完全に記録し……っ、ぐあッ!?」興奮が極限に達したソクラテスは、プラトンが断るよりも早く、その強靭な「広い肩幅」に向かって、猿のような身軽さで飛び乗った。アテナイの師弟による、まさかのライブ会場での肩車の完成である。「なっ、何をするのですかソクラテス様!?降臨しなさい!重力加速度と私の脊椎の物理的負担を計算してください!周りの迷惑になります!」「うおおお! よく見える!絶景じゃ!マオマオちゃーーーん!!こっちを見ておくれーーー!!ここに、アテナイから転生してきた、一銭にもなっておらん無職の魂がおるぞーーー!!」「自分の無職属性を絶叫のネタに使うな!!」最前列で、ピチピチのTシャツを着た筋肉質な大男の上に、白髪混じりの老人が肩車され、狂ったようにペンライトを回している。 そのあまりに異様な、圧倒的「物質の矛盾」に、ステージ上のマオマオちゃんが一瞬、歌いながら目を丸くした。
そして。マオマオちゃんは、確実にその「広いおでこ」と「広い肩幅」のコンビを見つめ、満面の笑みで人差し指を向け、バチコーン☆と特大のウインク(レス)を放った。「うわあああ!!今、確実にわしたちを見た!ウインクが、わしの魂の最も深い部分を撃ち抜いたぞ!!」「あ……あ……」プラトンの脳内のすべての論理回路が、一瞬で消滅した。黄金比、アクセス解析、幾何学的対称性、社会秩序。彼が構築してきたすべての「システム」が、マオマオちゃんのたった一粒の光によって、完全にハッキングされ、光輝く塵となって崩壊していく。「マ……マオマオちゃん……てぇてぇ……(限界)」崩れ落ちそうになる膝を、元レスラーの強靭な大腿四頭筋でどうにか支えながら、プラトンはついに、己の奥底に眠る「生の情動」を解放した。 黒いヘアバンドが汗で弾け飛び、広いおでこがドームの照明を浴びて眩しく輝く。「うおおおおおーーーっ!!マオマオちゃん!!あなたが!!あなたの存在そのものが!!宇宙における唯一絶対の真理だあああああーーーっ!!」師を肩に乗せたまま、プラトンはドームの中心で、己の知性をすべてかなぐり捨てた、最も美しい絶叫を響かせるのだった。
ドームの喧騒から数時間後。四畳半のアパートには、再び元の静寂が戻っていた。畳の上には、力尽きて泥のように眠るソクラテスの姿。抱き枕を五つすべて強引に抱え込み、「マオマオちゃん……タダ飯を……」などと寝言を言っている。プラトンは、ノートパソコンの前に座っていた。ヘアバンドは外され、画面の青い光が彼の広いおでこに反射している。彼は、カタカタと静かにキーボードを叩き始めた。彼が書いているのは、小説の最終章。そこには、今日のドームで彼自身が身をもって体験した「秩序と情動の和解」が、美しい日本語で綴られていた。
【プラトンの思考】
私は、世界を「冷たい論理」で縛り、コントロールすることだけが、美を正しく理解する方法だと信じていた。しかし、それは間違いだった。完璧なシステムとは、それ単体で完結するものではない。人々の内から湧き出る、理屈を超えた「生の情動」を受け止め、輝かせるための、ただの『器』に過ぎないのだ。師は、その不遜な煽り癖と無秩序さをもって、私の冷たい器を何度も叩き壊してくれた。そして今日、あの光の神殿で、私たちは一つの「美の真理」に到達した。「情動なき秩序は空虚であり、秩序なき情動は盲目である。」読者諸君。私たちのこの奇妙な転生の旅(オタ活)は、まだ始まったばかりだ。完璧な調和を求める私の知性と、それをハッキングし続ける師の対話は、これからもこの狭い四畳半で、宇宙の終わりまで続いていくのだろう。
「美は秩序から生まれ、秩序もまた美からうまれる」
プラトンが次のステップへの投稿ボタンを押すと、画面の向こう側のサーバーが唸りを上げ、コメント欄にイマヌエル・カント、フリードリヒ・ニーチェ、ジャック・デリダの「情動」が乱入し始める。画面の中で、ゆっくりと完璧な正円(秩序)が歪みだし、新たな対話の迷宮が口を開く。
【エピソード一 完】




