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第二話 物自体と転売のジレンマ

 窓の外からは、昼下がりの東京の騒がしい喧騒が聞こえてくる。しかし、築四十年の四畳半ワンルームの内部は、まるで極寒の深海のように静まり返っていた。プラトンは、液晶タブレットを前にして正座していた。その指先はキーボードの「F五」キー(ページ更新)の真上で、完全に静止している。彼の額からは、たらりと大粒の冷や汗が流れ落ち、畳の上に小さなシミを作った。壁の時計がコチ、コチと冷酷に時を刻む。現在の時刻、十二時五十九分四十五秒。あと十五秒で、あの運命の審判が下る。『マオマオ・ドームライブ プレミアム最前列チケット』当選発表。「……吸って、吐いて。吸って、吐いて。落ち着くのです、プラトン。私はかつて、肉体を魂の牢獄と呼び、感覚的な一喜一憂を排した哲学者。たかが現代のアイドルイベントの座席指定ごときに、魂の調和シンフォニアを乱されてなるものか。サーバーのデータベースが弾き出す抽選結果など、所詮は論理回路の演算結果に過ぎない。当選するも落選するも、すべては確率という厳密な秩序の内に収束するのだから……」「おい、プラトンよ。お前、さっきから呼吸のピッチが通常の三倍以上に加速しておるぞ。胸がバクバクと太鼓のように鳴り響いて、わしの昼寝の邪魔じゃ。まるで死刑宣告を待つ罪人のようではないか」ソクラテスは、部屋の隅に並んだ五つのマオマオ抱き枕の間に埋もれながら、煎餅をボリボリと齧っている。「うるさいですソクラテス様!あなたにはこの瞬間の神聖さが分からないのですか!十三時ちょうど。この瞬間に、私の登録したメールアドレス宛てに、宇宙の真理(当選通知)が送られてくるのです!もし落選していたら、私は今後の人生におけるすべての論理的整合性を失い、抜け殻となってアテナイの泥に還るしかありません!」「大袈裟なやつじゃ。たかが紙切れ一枚にそこまで魂を削るとは。わしを見ろ。たとえどのような結果になろうとも、わしのマオマオちゃんへの愛は不変、すなわち不動のイデアじゃ。動じることなど万に一つもないわい」チーン、と時計が午後一時を知らせる。「……き、来た!!」プラトンは、痙攣する人差し指で「更新」ボタンを叩いた。ブラウザの読み込みマークが、ぐるぐると数秒間回り続ける。その数秒が、プラトンにとっては数千年の対話の歴史よりも長く感じられた。そして、画面が切り替わる。受信トレイの最上部に、一通の新規メール。件名:【重要】マオマオ・ドームライブ 抽選結果のご連絡。



「う、うおおおお……!!」



 震える手でメールを開く。そこには、黄金の輝きを放つかのような文字が躍っていた。 『厳正なる抽選の結果、お客様はご当選されました。プレミアム最前列チケットをご用意いたしました』「と、当選……!当選しました!ソクラテス様!プレミアム最前列!彼女の瞳から流れる汗の軌跡までが肉眼で、あの黄金比の顔面を障害物なしで観測できる、神の領域の座席です! 私の計算は正しかった!午後十一時五十七分三十秒に送信ボタンを押すという、イデアの計算式は見事にサーバーの神に通じたのです!」プラトンは立ち上がり、狂喜乱舞しながら両手を天に突き上げた。その喜びようは、かつて自身の哲学体系が完成した瞬間をも凌駕していた。しかし、その傍らで、ソクラテスは先ほどまでの余裕をどこへやら、魂が口から抜け出たような顔でスマートフォンを見つめていた。「……? どうされたのですか、ソクラテス様。そんな、ソクラテスの裁判で死刑を宣告されたアテナイ市民のような顔をして」「……プラトンよ。この世に神の秩序など存在せん。正義ディカイオシュネーは死んだ。世界はただの理不尽な混沌カオスであり、永劫回帰の苦行に過ぎんのじゃ……」「急にニーチェ様のようなことを言い出さないでください。一体何があったのですか?」ソクラテスは、震える手でスマートフォンの画面をプラトンに突きつけた。画面には、別の抽選結果が表示されていた。『マオマオちゃん手書きシリアルナンバー入り・限定十体プレミアムフィギュア』落選通知。「限定十体……。わしが三日三晩、マオマオちゃんの美徳を称える念を送ったというのに、この仕打ちは何じゃ。なぜわしが外れて、名前も知らぬ現代の凡夫どもにあの至高の造形が渡らねばならんのだ。不条理じゃ、あまりにも不条理極まりない!」「はあ。限定十体のフィギュアなど、当選確率はおそらく零・零一パーセント以下ですよ。外れるのが当然の数学的帰結です。泣き言を言うのはおやめください。私には、ドームの最前列という『真の光』が待っているのですから!」






 プラトンが勝利の余韻に浸りながらライブの準備を始めようとしたその時、ソクラテスが不穏な動きを見せ始めた。ソクラテスは、フリガナを入力するのすら億劫がっていたはずのスマートフォンを、驚異的な指捌きで操作している。「……ソクラテス様? 何をそんなに血眼になって画面を睨んでいるのですか」「……見つけた。やはりこの世は金で解決せねばならんようじゃな。プラトンよ、このオークションサイトを見るがよい。早速、不届きな転売の徒どもが、わしのマオマオちゃんを出品しておるぞ」画面には、先ほどソクラテスが落選したという「限定十体プレミアムフィギュア」の画像が表示されていた。そしてその横に書かれた価格。『現在価格・三十五万円』。「さ、三十五万……!?馬鹿な!元値は三万円のフィギュアですよ!?ソクラテス様、まさか……それを買うなどと言い出すのでは」「買うに決まっておろう!これこそが、わしの魂が求めていた真理の具現化なのじゃ!」「目を覚ましてください、ソクラテス様!そんな悪質な転売屋から、十倍以上の暴利を貪る価格で購入するなど、道徳的アレテーに完全に誤っています!だいたい、そのフィギュアはただの着色されたプラスチックの塊、ポリ塩化ビニルの重合体に過ぎません!我々が今月生き延びるための家賃と食費をすべて注ぎ込んで、そんな『物質デミウルゴス』を買い取るなど、哲学者の風上にも置けません!」ソクラテスは、巨大ルーペをスマートフォンの画面に映るフィギュアの拡大画像にピタリと押し当て、不敵な笑みを浮かべた。「ほっほっほ。プラトンよ、お前は相変わらず、物事の表面しか見えん浅薄な男じゃのう。ここで、わしが敬愛してやまぬ、後世のドイツの哲学者イマヌエル・カントの言葉を引こう。カントは『純粋理性批判』において、我々人間が認識できるのは、主観のフィルターを通した『現象』に過ぎず、その背後にある客観的な『物自体ものじたい』をそのまま認識することは不可能であると説いた」「カント様をそんな邪悪な文脈で召喚しないでください!」「まあ聞け。このマオマオちゃんの限定フィギュアこそが、まさにその『物自体』なのだ。画面に映るデジタルな影絵(現象)をいくら眺めても、わしはマオマオちゃんの真の存在を認識することはできん。しかし!この三十五万円のプラスチックの塊が我が家に降臨し、わしがそれを手で触れ、その三次元的な立体美をこの肉眼で捉える時、わしはついに『物自体』との完全な合一を果たすのじゃ!これは消費行動ではない。純粋理性の限界に挑む、極めて厳かな哲学的実験なのだ!」「完全な屁理屈です!!カント様が泣いていますよ!彼は『自分の意志の格律が、常に同時に普遍的な立法の原則となるように行動せよ』とも言いました!あなたが三十五万円で転売品を買うという行動が、普遍的な道徳法則になり得ますか!?もし全員が転売屋からフィギュアを買い漁ったら、市場の秩序は完全に崩壊します!」「ふははは!秩序などという退屈な檻は、マオマオちゃんの絶対的な可愛らしさ(パトス)の前には、塵芥のごとく吹き飛ぶわい!よいかプラトン、今この瞬間に、わしの指先が『落札する』のボタンを押そうとしておる。この指を止められるのは、お前の論理か、それとも口座残高か!」「両方です!あなたの指をへし折ってでも止めます!大体、我が家の共同口座の残高は現在、私の原稿料を合わせても三十六万円しかありません!それを買ったら、来月の電気代すら払えなくなって、あの百インチのモニターはただの黒い粗大ゴミになりますよ!」「ぬ……。モニターが消えるのは困るな。マオマオちゃんの顔面を黄金比で計測できなくなるのは、お前にとっても損失であろう」「私を人質に取るような取引はやめてください!」「ううむ……。だが、諦めきれん。この『物自体』が、他の不届きな現代人の手に渡るなど、魂の耐え難い苦痛じゃ。プラトンよ、頼む。お前がWEB小説で稼いだブックマークのポイントを、何とかして日本円に換金できんのか?」「そんな機能はありません! ポイントはただの評価指標です!大体、あなたが抱き枕を並べるから私の執筆モチベーションが削がれ、原稿のクオリティが下がって平均読了率がワースト記録を更新しているのですよ!」「なんじゃ。結局お前の『文字』は、三十五万円の『物自体』一つ救えん無力な影絵に過ぎんというわけじゃな」「言葉の暴力をやめてください! 私の尊厳が音を立てて崩壊していくのを感じます!」二人の不毛な議論は、夕暮れが夜の闇に塗り潰されるまで、一歩も引くことなく続けられた。



 深夜。アパートの部屋には、冷たい静寂が戻っていた。結局、プラトンが物理的にソクラテスのスマートフォンを奪い取り、金庫に封印することで、三十五万円の転売フィギュア購入という最悪の財政破綻は免れた。ソクラテスは、「物自体が……わしの純粋理性が……」と呪詛のように呟きながら、五つの抱き枕に挟まれてふて寝している。プラトンは一人、暗闇の中でスマートフォンの画面を見つめていた。彼は、今日の「転売フィギュアと純粋理性批判」を巡る凄絶な対話を、脳内で整理しながら、WEB小説の投稿フォームに一文字ずつ打ち込んでいた。画面のダッシュボードを確認すると、「音声ハラスメント」に関するエピソードが、未だに高いアクセス数を維持している。コメント欄には、さらに新しい書き込みが増えていた。『ソクラテス先生の屁理屈がどんどん現代ナイズされてて草』『カントの墓が激しく揺れ動いてそう』『プラトン、チケット当選おめでとう』プラトンは、苦笑交じりの複雑な表情で、最新の原稿プロットを音声入力でスマートフォンに吹き込み始めた。



【プラトンの思考】



 師は「物自体」としてのフィギュアを求め、三十五万円という理不尽な価格の前に魂を悶えさせていた。確かに、実体のないデジタルな映像(現象)だけでは、人間の根源的な所有欲パトスは満たされないのかもしれない。カント様が言うように、私たちは本質に触れることはできず、ただその影を追い求めることしかできないのだとすれば。師がそのプラスチックの塊に三十五万円の価値(真理)を見出し、身を滅ぼしてでも手に入れようとする衝動こそが、人間が「現象」の壁を突き破ろうとする、最も泥臭くも純粋な挑戦なのだろうか。いや、やはりただの転売屋のカモだ。明日こそは、あのカモにされている師のスマートフォンを、パスワードロックを十重に掛けて完全に使用不能にしてやる。プラトンはため息をつき、静かにスマートフォンの画面を閉じた。ふと見上げると、神棚のように設えられた棚の上に、先ほど当選したドームライブの「当選画面のプリントアウト」が、神聖なイデアの如く美しく飾られていた。完璧なシステムがもたらした「最前列」という至高の権利。そして、師が引き起こすであろう「情動」の嵐。ライブ当日まで、あとわずか。四畳半の洞窟の中で、理性の調和は今、かつてない危うさで保たれていた。


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