第一話 ソクラテスという監視者
窓の外には夕暮れに染まる東京のビル群。四畳半の室内では、プラトンが座椅子に深く腰掛け、ノートパソコンの画面を血走った眼で睨みつけていた。カタカタカタ、ターン!と、キーボードを叩く指先には悲壮感すら漂っている。そこへ、背後から音もなく忍び寄る白い影。五つの抱き枕に囲まれて昼寝を貪っていたはずのソクラテスが、いつの間にかプラトンの真後ろに立ち、巨大ルーペを片手に画面を覗き込んでいた。「ほう。プラトンよ、お前はまた、この光る板に向かってパチパチと妙な儀式をしておるな。どれ、わしにも見せてみよ」「ひゃあッ!?ソ、ソクラテス様!驚かせないでください!背後に気配もなく立つのは、心臓に極めて悪影響を及ぼします!」プラトンは慌ててブラウザのタブを切り替えようとしたが、時すでに遅し。ソクラテスは巨大ルーペを液晶画面に限界まで近づけ、一文字一文字をなぞるように凝視した。「むむ……。これは、わしとお前の名前が書いてあるな?お前、またこんな『文字の影絵』を書き散らしておるのか!嘆かわしい。文字というものは、ただの魂の抜け殻、真理の模造品に過ぎんとあれほど教えたであろう。言葉とは、生きた人間同士が魂をぶつけ合い、音声をもって対話する中で初めてイデアを宿すのじゃ。文字に固定された瞬間、言葉は自ら反論することもできぬ死体となる。お前は私の生きた魂を、この冷たい格子の中に閉じ込めて窒息させる気か!」「い、言い訳をさせてください!これはただの死体ではありません!現代における最も高尚な『魂の対話の記録』であり、私の創作活動の結晶……つまり、漫画原作でございます!文字によって固定されるからこそ、この美しき対話の構造は時空を超え、何万人もの読者(洞窟の住人)に届くのです!」「ふん、屁理屈を。だいたいお前、この前わしが言った『マオマオちゃんの太ももは古典主義建築の黄金比』という極めて真面目な観察眼を、そのままセリフとして書き写しておるではないか!これではわしが、ただの好色なルーペ老人として後世に誤解されるではないか!」「誤解も何も、事実ではありませんか!私はあなたの野蛮な『情動』を、現代のシステムに適合するよう美しく構造化してあげているのです!」
プラトンは憤慨しつつも、手元のスマートフォンでWEB小説プラットフォームのダッシュボードを開いた。画面に表示された折れ線グラフと各種の数値を見て、プラトンの目がカッと見開かれる。「……あ、ありえない。そんな馬鹿なことが……!」「何じゃ、その世の終わりを見たような顔は。今度はどのフィギュアが発売延期になったのじゃ?」「ソクラテス様、見てください……!我々が投稿した最新話のデータ、ならびにアクセス解析の変動です。 昨日あなたが抱き枕を五つ並べて『これぞ五波の霊的アンテナじゃ』と豪語した、あの最低の屁理屈パートがSNSで大拡散され、一時間あたりのページビューが通常の十倍以上に跳ね上がっています!ブックマークの登録者数も垂直立ち上がりを見せ、コメント欄には『このクソ理屈、天才すぎる』『令和の詭弁王』と、あなたの暴言を絶賛する洞窟の住人たちで溢れかえっているのです!」「ほっほっほ!どうじゃ!やはりわしの生の言霊、音声特権の勝利ではないか!現代の若者たちも、わしの深い知性にひれ伏したというわけじゃな」「喜んでいる場合ではありません! 一方で、私が三日三晩不眠不休で推敲を重ね、幾何学的な美しさと構成美を極限まで突き詰めた渾身の解説パート『イデアの幾何学的空間における比例寸法』は…… 読者から『長すぎて般若心経かと思った』『文字の羅列で目が滑る』『ここだけスクロール推奨』と酷評され、平均読了率が底なし沼のように急降下しております!! 私の血の滲むような構造美が、ただの退屈なノイズとして読み飛ばされているのです!」「わはははは! 平均読了率の底抜け! 実に痛快じゃのう!」「笑い事ではありません!神の秩序、数理的な調和が、なぜ現代の洞窟では忌むべきお経のように扱われ、あなたの知性を言い訳に使った物欲の叫びばかりが爆発的なバズを起こすのですか!現代の読者は、秩序を拒絶し、生々しい情動のみを求めているというのですか!このプラットフォームのアルゴリズムは狂っています!」「お前はまだ分かっておらんのう、プラトンよ。市場原理という名の『情動』は、お前の書いた冷たい数式や完璧な秩序など求めておらんのじゃ。彼らが求めているのは、魂の震え、生々しい人間味じゃ。どれ、そんなに悔しいなら、今からわしが極上のセリフを音声入力してやろう。マオマオちゃんの今回の新曲衣装のスカートのプリーツ数における調和について……」「絶対に録音しません!これ以上私の神聖な原稿を、あなたの欲望のスケッチブックにしないでください!」「そうか? ではわしは、五つの抱き枕たちと対話の続きをしてくる。今夜も真理に囲まれて眠るのじゃ。ほっほっほ、火を消すがよい」(……この老人は、現代のシステム(WEB小説)を都合よくハッキングしている。やはり、あの抱き枕と一緒にどこかへ隔離すべきだ)ソクラテスは満足そうに首を振り、五つの抱き枕が整然と並ぶ布団へと滑り込み、ものの数秒で高いイビキをかき始めた。静まり返った暗闇の中、プラトンはノートパソコンのディスプレイが放つ青白い光に照らされていた。ソクラテスのイビキを聞きながら、彼はスマートフォンを手に取り、今日の屈辱と、それでも否定できない「ソクラテスという情動の引力」を、音声入力でボソボソと吹き込み始める。スマホの画面の中で、冷徹なフォントが今日の対話の結末を綴っていく。
【プラトンの思考】
師は「音声」こそが真理であり、文字は魂を抜かれた影絵に過ぎないと私を嘲笑する。確かに、彼の放つ野蛮な情動(暴言)は、システムが弾き出すアクセス数の上で爆発的な最高値を叩き出し、私の愛する秩序(美しい解説)は読了率の最低ワースト記録を更新し続けている。だが、彼がその生々しい声で語る屁理屈が、どれほど低俗な欲望にまみれていようとも、そこに現代の囚われ人たちが熱狂しているのは事実だ。彼の「声」を私の「文字」で固定するこの共同作業(冷戦)こそが、不完全なこの世界で、イデアの影を最も色濃く引き写す手段なのだろうか。いや、やはりあれはただの音声ハラスメントだ。明日こそは、あの声を録音しているボイスレコーダーを、全て初期化して廃棄してやる。プラトンはため息をつき、画面を閉じた。ドームチケットの当落発表まで、あと数日。プラトンの心の中で、システムへの忠誠と、師の暴論に歪められていく文字への葛藤が、静かに火花を散らしていた。




