序章 洞窟の住人たち
東京の片隅にある、築四十年のワンルームアパート。しかし、その一角だけは異様な熱気を放っていた。四畳半の和室という極小の空間において、明らかに不釣り合いな存在感を放つ壁一面の巨大な物体。それは、眩い光を放つ百インチの超巨大モニターである。画面に映し出されているのは、現代日本を代表するトップアイドル「マオマオ」のライブ映像。満員のドーム、渦巻くペンライトの海、そしてその中心で輝く一人の美少女。その圧倒的な大画面を前に、二人の男が異様な体勢で対峙している。一人は、液晶タブレットを前にCADソフトの製図画面を神速のブラインドタッチで操作する青年、プラトン。もう一人は、白髪交じりの豊かな髭を蓄え、古代ギリシャの衣服を現代風の「推しTシャツ」の上から中途半端に羽織った老人、ソクラテス。彼は、両手で顔ほどもある特大のルーペを構え、画面に吸い込まれそうなほど張り付いている。プラトンは一心不乱にキーボードを叩き、画面の中のマオマオの顔面に「黄金比」のブルーのグリッド線を次々と重ね合わせていく。マウスをクリックする音が、さながら精密機械の作動音のように部屋に響く。
「……素晴らしい。見てください、ソクラテス様!このミリ秒単位の一瞬、彼女の瞳孔から鼻先、そして口角を結ぶ三角形の比率は、正確に一対一・六一八の黄金比! まさにパルテノン神殿の正面立面図と同一の比例寸法です!」それだけではありません。左右の瞳の幅と鼻翼の幅の比率、生え際から眉、眉から鼻先、鼻先から顎先までの三等分分割!彼女の顔面は、コンクリートで築かれたいかなる現代建築よりも強固な、宇宙の調和たる『神の秩序』を内包しています!つまり、マオマオちゃんを観測することは、神聖なる幾何学の真理に触れることと同義なのです!」ソクラテスは、巨大ルーペをマオマオの笑顔のドアップにピタリと押し当てたまま、眼鏡の奥の目をギラリと光らせてゴクリと生唾を飲み込む。「うーむ……なるほど、なるほど。プラトンよ、お前が熱弁するその幾何学的なナンセンスは相変わらず小難しくて耳に障るが、このマオマオちゃんの笑顔の眩しさは、確かにわしの魂の奥深くを激しく震わせるのう。この胸の高鳴りは、かつてアクロポリスの丘で真理を語り合った時以上の熱量を感じるわい。しかしプラトンよ、この画面の上部に、何やら文字の影絵が凄まじい速度で右から左へと流れておるぞ?『マオマオ尊い』だの『結婚してくれ』だの『人生を狂わされた』だの……。これは何じゃ? 現代の神託か?」「それは『コメント欄』です、ソクラテス様。現代の『洞窟の住人たち』が、真理の光に目を焼かれ、言葉にならない獣の如き咆哮を吐き散らしている、ただの低俗な感情に過ぎません。彼女の美という太陽を前にして、ひれ伏すだけの哀れな影絵。
我々高尚なる哲学者は、そのような刹那的な情動に流されることなく、ただ冷徹に美の数値を観測し、構造的に理解すべきなのです」「ほう。冷徹な観測者、な。ならば問おう、プラトンよ。その『知的なる観測者』であるお前自身が、なぜ先ほどからペンタブレットを握る右手を小刻みに震わせ、耳の裏から首筋までを真っ赤に染めておるのじゃ?お前のその異常な脈拍の乱れも、その幾何学的な計算シートに組み込まれておるのか?」「こ、これは指先の腱鞘炎の予防、ならびに過度なタイピングによる局部的な血液循環の促進であって、決して私の精神が彼女のウインクに動揺したなどという、非論理的なバグではございません!私はただ、数理的な調和を……!」「ほっほっほ!苦しいのう、プラトンよ。言い訳の論理が破綻しておるぞ。お前もまた、この輝く影絵に魂を丸ごと奪われた『洞窟の囚われ人』の一人に過ぎんのだ。美とは頭で、数式で計算するものではない。この、胸の奥から湧き上がる『うおおお』という、もはや言葉の体をなしていない熱い『情動』こそが真理なのじゃよ。お前が引いた青いグリッド線など、彼女の生身の愛らしさの前にはただの落書きに過ぎん!」「ぐっ……!あなたという人は、そうやってすぐに、人類の至宝たる知性を野蛮な感情で泥塗りにする……!だからアテナイの法廷でも民衆の感情を逆撫でして、あんな最期を……!」「おっと、過去の古傷を抉るのは感心せんな。それこそ感情論というものじゃぞ?わしを見ろプラトンよ、転生し、令和の時代に再び生を授かったのじゃ。これも神のつくりし秩序そのもの。転生されたわしこその存在が秩序なのじゃ。ほっほっほ!……しかし、令和とはけしからん時代じゃ。若子があのように太ももをあらわにするとは、実にてぇてぇ、もとい、けしからんの~ほっほっほ!しかし、この美しき令和の秩序には逆らえぬの~ほっほっほ!」「今、脳内で『てぇてぇ』と言いませんでしたか!?だいたい、自分の物欲と性癖をカモフラージュするために『転生した自分自身がイデア』などと論理を飛躍させるのはおやめください!傲慢の極みです!」
深夜。ライブ映像の配信が終わり、百インチのモニターには「配信を終了しました」の文字が寂しく浮かんでいる。部屋はすっかり消灯され、静まり返っているはずだった。しかし、プラトンのデスクトップ画面には、昼間のライブ以上の熱量を孕んだ、別の「戦場」が開かれていた。画面いっぱいに表示されているのは、『マオマオ・ドームライブ プレミアム最前列チケット抽選受付ページ』。画面の中央では、申込締切を示すカウントダウンタイマーが、血のような赤色で不気味に時を刻んでいる。【残り時間:〇時間四分五十二秒】。プラトンは、額に青筋を浮かべ、まるで核爆弾の起爆コードを入力するかのような厳粛な面持ちで、静かにキーボードを叩いていた。「ソクラテス様、遊んでいる時間はありません!早くこちらへ!本日は、彼女のドームライブの『プレミアム最前列チケット』の抽選申込、最終日でございます!私の精密な確率計算およびトラフィック解析によれば、サーバーの負荷が最も減少し、ネット空間の秩序が保たれる『午後十一時五十七分三十秒』。この一瞬に送信ボタンを押すことこそが、当選という幸運を力づくで引き寄せる唯一の数学的解なのです!」
「はて、わしは今、それどころではないのじゃが」プラトンが怪訝に思って振り返ると、ソクラテスは部屋の隅で、今日届いたばかりの巨大な段ボール箱から、愛おしそうに何かを取り出していた。それは、等身大のアニメ調アイドルが極彩色のビキニ姿でプリントされた、巨大な「マオマオちゃんの添い寝抱き枕」だった。「なっ……!ソクラテス様!またそれを注文されたのですか!?先週も、その先週も、全く同じものを買ったばかりでしょう!これで我が家にある同じ抱き枕は、実に五つ目でございます!四畳半のアパートが、マオマオちゃんのグラビアで埋め尽くされているこの現状が、あなたにとっての秩序ですか!?」「物忘れが激しくてな、ネットサーフィンをしておると、つい右指が『購入する』ボタンを自動的に押してしまうのじゃ。だが良いではないか、プラトンよ。美しき精神の秩序に囲まれながら、完璧な美に包まれて睡眠をとる。これぞ哲学者としてのあるべき至福の姿ではないか。のう、そう思わんか?」「何があるべき姿ですか!同じ表情、同じポーズの抱き枕を五つも並べて、その間に挟まれて眠る老人が、哲学史のどこに存在しますか!それはただの、病的なまでの収集癖、いや異常な物欲による執着です!だいたい、その抱き枕はポリエステルと化学繊維の綿の集合体に過ぎません!本質はただの可燃ゴミです!今はライブチケットの申込が最優先です。ソクラテス様、お名前のフリガナを入力してください! 早く!」ソクラテスは、抱き枕のマオマオの頭を優しく撫でながら、ふむ、と髭をさする。「ふむ……。プラトンよ、お前は相変わらず、目に見える『物質』と、その背後にある『本質』を混同しておるな。このような対立した議論、言葉と魂のぶつかり合いの中からこそ、真の『問い』への解が生まれるとは思わぬか?」「議論で煙に巻いて話を逸らそうとしないでください!締切まで、あと二分を切りました!」「まあ待て。わしが思うに、この抱き枕の表面に印刷されたマオマオちゃんは、この不完全な現象界における単なる布切れではない。わしがこれを強く抱きしめ、精神を同調させる時、わしの魂は、天界に存在する『美のイデア』そのものと直接コンタクトを取っておるのじゃ。つまりじゃ、抱き枕が五つあるということは、真理へと繋がる霊的なアンテナが五波に増え、よりクリアな真理を受信できるということ。実に論理的かつ合理的な設備投資ではないか」「論理に対する冒涜にも程があります!!そんな電波を受信するアンテナがあるなら、私の脳に直接当選通知を送ってください!」「ほっほっほ! お前のような秀才が、そうやって感情を爆発させるのを見るのは実にもてなし甲斐がある。今回もまた、わしの『ロゴス(言葉)』が勝利したようじゃな。さあ、今宵はもう遅い。ノートパソコンの発するブルーライトは魂の調和を著しく乱す。さっさと火を消して眠るのじゃ」(……この老人は、人類の知的至宝などではない。哲学史に泥を塗るために現代に送り込まれた、最悪の知的災害だ。有害物質として法的に規制すべきだ)
チクタクと音を立てる壁掛け時計。プラトンは血の涙を流さんばかりの表情で、ギリギリの精神状態の中、震える人差し指で抽選申込の「最終確認ボタン」を叩いた。【抽選申込を受け付けました】の無機質な文字が、虚しく画面に光る。
「おやすみ、プラトンよ。真理は常に、わしと共に……むにゃむにゃ……」
ソクラテスは、部屋を占拠する五つの抱き枕に左右からサンドイッチのように挟まれるという、異様な光景のまま、秒速で高いイビキをかき始めた。静まり返った部屋。カーテンの隙間から東京の淡い月光が差し込み、ソクラテスと、彼を囲む抱き枕たちの奇怪なシルエットを畳の上に落としている。プラトンは一人、消灯されたモニターの前にぽつんと座り、暗闇の中で、手元のスマートフォンに今日の出来事を「音声入力」でボソボソと吹き込んでいた。それは、彼がWEB小説プラットフォーム上で『Architects』というペンネームを使い、密かに連載している漫画原作の、最新プロットであった。この現代の洞窟(ネット空間)において、彼ら二人の滑稽な対話は、確実に誰かの心を揺さぶり、じわじわと人気を博し始めている。スマホの画面をそっと見つめるプラトン。液晶のバックライトに照らされた彼の瞳には、今日の二人のやり取りを元に書き殴られた、冷徹な独白が映し出されていた。
【プラトンの思考】
師は「イデア」を抱き枕に重ね、至福の中にいると信じている。しかし、私がかつて定義したように、それは実体ではない。彼が手にしたのは、ただの布と綿の集合体に過ぎない。否。もし彼が「それ」を完璧な推しであると確信し、魂の底から救済を感じているのであれば。師にとって、その抱き枕こそが彼だけの「イデア」なのだとすれば、この滑稽な寝言こそが、令和における最も純粋な真理の探求なのかもしれない。いや、やはりあれはただの物欲だ。明日こそは、あの抱き枕を全て、粗大ゴミとして廃棄してやる。プラトンは静かにスマートフォンの画面を閉じ、深い溜息をついて布団に横になった。耳元には、師の「真理は我と共に……」というズレた寝言と、五つのポリエステル繊維が擦れ合う音が響いている。
ドームライブの当落発表まで、あと数日。完璧な「秩序」と、生身の「情動(オタクの熱狂)」が激突する、長く騒がしい戦いの幕が、今静かに上がろうとしていた。




