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短編色々  作者: 紺とすん
14/14

(14)楕円式フレーム(緑岡 雪乃さんの金曜日)


 駅に向かって歩く雪乃の横を、同じく会社帰りらしき五、六人の小集団が、にぎやかにしゃべり散らかしながら通り過ぎて行く。


 今日は金曜日、前日の昨日は木曜日。あたりまえだ。

 だが昨日はなかなかに充実した一日だったと雪乃は振り返る。

 昨日とつぜん社内データベースがダウンしてしまった関係で、復旧を待って作業する必要があった雪乃の帰りは遅くなってしまった。データベースは無事復旧して雪乃も仕事を済ませることができ、そのうえ、遅くなったからと課長が自宅近くまで送ってくれた。


 もちろん雪乃は最初、課長の申し出を固辞した。その身に何かあって周りが困るのは、自分などより課長の方だ。

 だからむしろ雪乃が課長を送っていきたいぐらいだったが、結局は妙に頑なになった課長に押し切られて、送ってもらった。


 なんだか嬉しかった。


 と、いうようなことを思い出しながら歩いていたときだった。


「雪乃」


 ざわざわとした金曜日の雑踏のなかで、その小さな呼びかけのこえは、少しの痛みをもって雪乃の耳をとらえた。それは忘れようのないこえだった。


「・・・」


 たちどまった雪乃の前にあらわれたのは、やはりその人だった。

 狭い部屋でやさしく呼ばれた自分の名前。一日に何度も頬にのばされた温かな指先。

 これまでの人生で、ただ一度だけ交際した異性の。


「よかった。元気そうだね」

「・・・。あなたも」


 季節二つぶんくらいの、短い交際期間だった。

 その頃、二人ともまだ学生だった。

 ほとんどけんからしいけんかもしたことがなかった。いつとはなしにつきあいだして、しかし別れは唐突にやってきた。

 半年ほどたったある日、彼が言った。


 好きな人ができたと。


 考えてみれば、はっきりと彼に好きだと言われたことも、彼に好きだと言ったこともなかった。

 だから愚かなことに一瞬、好きな人とは自分のことかと思ってしまった。あらためてことばにしてくれたのか、と。そのな誤解はすぐに消えさった。ずっと誤解していたかった。

 でも相対する彼の目の奥に、苦しさと罪悪感とを見てとって、心が凍った。


 そして彼をそんなにも苦しめているのは自分なのだと、分かってしまった。


 別れてから半年ほどして――ちょうどつきあいはじめた頃と同じ季節になって――、彼が難しい病気を抱えた年上の女性と交際しているという噂を聞いた。

 その女性はちょうど雪乃たちが別れた頃に手術を受け、病状は快方にむかっているとのことだった。




「少しだけ、コーヒー飲むぐらいの時間はとれる?」


 そう言って近くのカフェを指したその男の左手に、少し変わった形の、でもなんとなくその人らしい指輪が、薬指を飾っているのが見えた。

 頷いて彼につづき、店に入る。

 ちょうど席をたつ人たちがいて、入れ替わるように二人は席をとった。

 彼がコーヒーを、雪乃はストレートの紅茶をたのんだ。


 コーヒーを飲む時間はあるかと聞かれたのに紅茶を注文してよかったのかと、ふと考え込んだ雪乃の眉間に力が入った。


「いま、何か妙なこと考えただろ」


 懐かしげな顔をして彼が言う。


「え?」

「その癖。変わってないな」

「くせ?」

「そう、癖。そんなところも、好きだったよ」

「・・・」

「雪乃は、きれいになったね」


 雪乃は呆然と、彼の顔を見た。穏やかで優しい表情、それにあの頃より深みをましたようにみえる目の色。きっとそうさせたのは、自分の知らない人の存在だ。


「なんで、なんで・・・」


 なんで今頃、そんなことを。ほとんど腹立たしいほどの疑問で心がいっぱいになり、雪乃はことばをつぐことができない。


「雪乃にきちんと、謝りたかった、あのときのこと。ごめん。本当にごめん」

「・・・謝らないで、ほしい」


 謝られると、あの半年間の大切な時間がなかったことにされてしまいそうだ。それとも、なかったことにしたいのだろうか――雪乃は、ほとんど睨むように、相手を見つめた。あの頃と同じ、銀縁フレームの眼鏡の奥から。


 自分の過去を振り返るとき、それはなんとなく灰色のグラデーションが壁のようにつらなっている気がする。でもあの半年間だけはそうじゃなかったと思う。


「それも、ごめん。謝るのは僕の勝手だからね。でもさっき偶然みかけたとき、幸せそうに見えたから。もう謝らせてもらってもいいと思ったんだ」

「・・・」

「今、雪乃のそばにいる人は、いい奴なんだろ?」

「そんな人、いない」

「本当にいないの? じゃあ、充実しているのは仕事の方?」


 充実、は、している気がした。仕事のせいなのかどうかは、よく分からなかったが。


「そう、なのかな。長い長いトンネルの向こうに少しだけ、今は光が見える気がする」

「そう。よかったな」


 自分のことのように嬉しげな彼の表情が、別の誰かと重なって、雪乃はあわてる。


「サナトリウムってほんとに白いの?」

「どうだろう。行ったことないから知らないや」


 穏やかな表情のまま首をかしげるようにした彼を見て、自分がまた妙なことを言ってしまったことに雪乃は気づいた。

 薄倖の美しい女性と彼が白い病室で見つめあう、昔々の映画のような勝手なイメージからのばかみたいな連想。彼のその好きな人というのが、どんな病気なのかすら知らないのに、自分はなんて失礼な人間なんだろう・・・


 雪乃は昔から、自分の発言がときおりひとの会話のペースを乱してしまうことに、なんとなく気づいてはいた。彼はそれに頓着しない数少ない一人だった。


「ちなみに今は、ほとんど普通の日常生活を送れてるよ。もう、結婚して五年になるんだ」

「そうなんだ。よかった。おめでとう」


 雪乃はほっとして、心からそう言った。


「ありがとう。雪乃にそう言ってもらえるのが一番うれしい」


 彼が微笑む。それを見て、雪乃は、

 ああこれで、ようやく終わったんだ――

 と思った。


 宙ぶらりんになっていた自分の気持ちが、たった今ゆっくり終わっていく。



 今、自分が隣りにいてほしいと思うのは、この人じゃない別の人。



 二人は店を出た。同じ駅を使っていることがわかって、今まで会わなかったことの方が不思議なくらいだった。雪乃は買い物して帰るからと、店の前で彼を見送った。


 遠ざかって行く、好きだった人の背中。

 振り返りもせず、その背中は手の届かない所へ去っていく。


 金曜の夜の駅近くは人通りが多くて、ひょうきんな看板をかかげたタコ焼き屋の前には短い行列までできている。待たされているのに並んでいる人はみな楽しそうだ。


 たくさんの、人。人が多すぎる。

 いっそ、人を減らしてしまいたい。

 いや減ればいいのはむしろ自分か・・・

 いろいろ思考の収拾がつかなくなって、雪乃は立ち止ったままタコ焼き屋を見ていた。

 なんでこんなときにタコ焼き。今の気分には花屋か葬儀屋が似つかわしいのに、タコなんて。タコ、タコなんだ。タコ、といえばタウリンだ。タウリンといえば、オーバーワークのあの人に・・・


「緑岡じゃないか、どうしたんだ」


 雪乃の背中によく知る声が呼びかけた。振りむくより早く、声の主が正面に立った。


「課長・・・は、タコ焼きを、食べればいいと、思います」

「タコ焼き? タコ焼きが食べたいのか、緑岡」

「いえ、私ではなく」

「タコ焼きくらいで泣きやんでくれるなら、いくらでも買ってやる。でも、違うだろう?」

「え?」


 なんて、情けないんだろう――雪乃は両手で顔を隠した。この歳になって、よりによって課長の前で泣くなんて、あっちもこっちも痛すぎる。


「泣くなよ。いや、泣いてくれ。我慢するな」


 集まり出した周囲の視線からかばうように、黄川田は雪乃の肩を抱かえて路地の方に移動した。


 泣いているのは二十九歳の自分じゃなくて、我慢してしまったあのときの自分だ。今の自分はもう少し、強固にして堅牢な精神を獲得しているはずである、絶対に。

 雪乃は自分をはげますと、息を整え、銀縁フレームの位置を指できりりとただした。


「申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です」

「無理はしないでほしいんだ。何があったのか、聞いてもいいのか」

「いえ、今さらな甘っちょろいことを言う男は嫌いだと、それだけの話です」

「・・・。そうか、気をつけるよ」

「違います、課長のことは、好きです」

「す・・・きって・・・」

「好きです」


 過去にことばにできなくて後悔したなら、それを今後の経験にいかせばよいのだ。そう思いつくとすがすがしい気持ちになって、雪乃は顔をあげてきっぱりと言う。


「では課長、お疲れでしょうけれど、お気をつけてお帰りください」

「いや待て」

「タコに含まれるタウリンは、疲労回復に効果的だそうです。では」

「だからちょっと待て」

「トンネルを抜けてもまたトンネルかもしれませんが、それはそれでいいのです。わたしはもっと、がんばります。で、課長、なにか?」

「トンネル・・・はさておき、言い逃げはマナー違反だぞ、緑岡」

「言い逃げ、ですか? 申し訳、ありません?」

「おい、納得していないだろう」


 黄川田はいったんことばをきる。そして目の前の雪乃を、いつものごとく、初めて見るような感動を持って、あらためてしみじみと見る。

「ディスプレイをさす指先も、銀縁の眼鏡姿も、そっけない服装も、ぜんぶ」

「ぜんぶ?」

「緑岡を、好きなんだ」


 目を見開いた雪乃の顔が一瞬白くなる。

 それから徐々に、赤く染まっていった。


「意見が一致したということで、いいんだろうな?」

「・・・」


 残念ながら、いろいろありすぎて完全に容量オーバーとなった雪乃は答えるすべを持たなかった。

 電池切れしたペッパーくんのようになってしまった雪乃を、それもまたよし、などと内心で思いつつ黄川田が家の近くまで送っていく。


 別れ際、もはや年中行事のように、二人は三度ずつお辞儀をくりかえす。


 顔を見合わせると、なんだかまたうるみそうになる雪乃の目に、黄川田の笑顔が見えた。



 それはとりあえず、休日の明日土曜日に会う約束だけはとりつけた黄川田の会心の笑みだった。

 ペッパーくんと化した雪乃がその約束を記憶にとどめたかどうか、黄川田に若干の不安がないわけではなかった。が、覚えてなければもう一度誘えばいいのだと思える程度には、遠慮がなくなっていた黄川田だった、とさ。





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