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ヴィオラと愉快な仲間たち

ヴィオラちゃんファイトォォォォ

作者:青井冬
 ヴィオラは今日という日を一年前から楽しみにしていた。
 なんといってもダンが、あの朴念仁で不器用で鈍感で生真面目で気が利かなくて研究馬鹿で空気と言えば読むものではなく吸うものとしか認識していなくてそれでも優しくて賢くて正直で裏表が無くて心が広い素敵な幼なじみ兼ヴィオラの十八年来の想い人であるダンが、ヴィオラのために時間を割くと約束してくれた日なのだ。心が浮き立たないわけがない。
 ヴィオラは町中で知らない者がいないほどダンにぞっこんだった。
 物心ついたころにはもう同年のご近所さんである彼のことが好きで好きでしかたがなかったし、家族の証言によればダンの生まれた日、〇歳児のヴィオラは初めて目にした彼を夢中で眺めに眺め、引き離そうものなら大声で泣き叫んで抗議したという筋金入りだ。
 無邪気な乳児に始終つきまとう乳児、迷惑そうにする幼児に始終つきまとう幼児、逃げる児童に始終つきまとう児童、呆れる少年に始終つきまとう少女、諦めた男に始終つきまとう女。
 ヴィオラとダンの人生はだいたいこんなところだった。生まれてこのかたヴィオラの行動原理にダンが関わっていなかったことはない。
 ヴィオラが求愛するにあたって、目に見える障害はほぼ存在しなかった。周囲の大人の見方は、ここまで情熱的に愛してもらっているなら嫁いでもらえばいいよダン、というものが大半だったし、ヴィオラもダンも、略奪する気概のある恋人候補が現れるほど好条件ではなかったのだ。少女を止める者は皆無だった。むしろ一途すぎる健気な思いに心打たれていつしか誰もが彼女の恋の成就を応援するまでになっていた。
 ところがダンの淡泊ぶりもさるもので、ヴィオラの連敗記録は長年とどまるところを知らなかった。
 昔はまだよかった。
「ダー、ダー、ダー」
 ヴィオラの発語は母でも父でもなくダンを呼ぶものだったらしいが、それに対するダンの第一声は「びー」だそうだ。彼女はそれが己のことだと信じて疑わない。
「ダン、しゅき」
 ヴィオラの最初の記憶はダンへの愛の告白である。ダンはこう答えた。
「ん」
 なんたる悠揚迫らぬ態度だろう。幼児の反応とは思えない。ダンは間違いなく大物になる。そう確信して三歳のヴィラは三歳の彼にますます夢中になった。
 ヴィオラは聞き分けのないほうではなかったので、ダンが本気で嫌がるようなら過多な愛情表現を控えただろう。けれど実のところダンは一度も彼女を突き放す決定打を放ったことがなかった。
 ダンの懐は深い。あんなにも世界をすんなり受容する人をヴィオラはほかに知らない。人も動物も植物も、あらゆる生きとし生けるものをダンはあっさり認めて内側に招き入れてしまう。彼の懐の心地よさを味わったが最後、ヴィオラはどこにも行けなくなった。大勢の中のひとりであっても、それでも離れられない。ヴィオラはいつだってダンの一番近くにいたいのだ。
 ダンとヴィオラの関係に大きな変化があったのは三年前だ。街の若人連中と飲んだくれた夜、慣れないせいばかりではない下戸ぶりを発揮したふたりは働かない頭でなんとかダンの家へ帰り着いた。ヴィオラの家は遠いので必然的にそうなった。ほかの面子も泥酔状態で自宅の近い者のところへなだれ込んでいることだろう。
 ダンは独り暮らしだった。実家には兄夫婦が住んでいるため、数年前に気を遣って出てきた。
「おい、ヴィオラ、そんなところで寝るな。風邪引くぞ」
「にゃあ、心配してくれるの。ダン好きぃ……」
 ヴィオラは感激のあまりダンに飛びついた。お互い酩酊しているので体勢を崩し、倒れ込む。ヴィオラよりは少しだけ正気の度合いが大きかったダンは、迫る彼女を引きずって寝台へ運び込んだ。ヴィオラの執念は彼の手を離さなかったので必然的にふたり揃ってシーツに沈む。
「ダン、ダン、好き好き好き」
「ちょ、離れ……」
「好き好き好き」
「わーおまえどこ触って、うわ、ちょ、待っ!」
「んー……」
 幸か不幸か翌朝のヴィオラはすべてを覚えていた。
「なんてことを」
 なぜダンのベッドで彼に抱きついて寝ていたのかも、なぜどちらも服を着ていないのかも、身体の中心が重く痛むわけも、脚の付け根が引きつるような感覚がどういう行為によるものかも、みんな説明できる。
 ぼろりと大粒の涙が目から零れた。己の痴女っぷりに死にたくなったせいだ。どう考えても強姦だった。自己嫌悪にしばらくひとりで泣いた。
 やがて目覚めたダンは掌を額に当ててため息をついた。
「ありえない……」
 返す言葉もないヴィオラなので反論はしなかったが、けっこうあんまりな言いぐさだと思った。自業自得の悲しみに後でまた少し泣いた。
 しかしその日を境にダンとヴィオラの間柄は単なる幼なじみではなくなった。少なくともヴィオラはそう感じた。たとえばヴィオラが自宅の実験室に押しかけるのはいつものことだが、「何か用か」とダンが尋ねなくなった。それはまるで、ヴィオラがダンの隣にいることに理由がいらないと言われたようで、舞い上がった。
 そして瞬時にたたき落とされた。
 ダンは王立大学校の入学試験に合格していたのだ。大学のある都へはここから歩きで半日はかかる。春からはダンが里帰りでもしない限り会えなくなるのだ。ここしばらくのダンの優しさともつかぬ優しさが一種の同情であった可能性に思い当たり、ヴィオラは呆然とした。
 王立大学校といえば国内のエリート中のエリートだけが入学を許される高等教育の学校で、卒業後はそのまま都に留まって役人や学者となる学生がほとんどだ。
 ダンが、いなくなってしまう。
 ヴィオラは恐怖した。その勢いのままダンに突進したかったが、一体何を言えるというのか。町の誇りといっても過言でない栄えある場所へ望みを叶えに行くダンを慰留するのは言語道断だし、わたしを憐れんでいたのと尋ねるのは自分の墓穴を掘るようなものだ。
 それでも我慢できず会いに行った実験室で、ダンはエスカと談笑していた。
 エスカはヴィオラの従姉で、一般に淑女はかくあれかしという条件のすべてを兼ね備えた美女だ。中でもエスカの得がたい長所は竹を割ったような性格の美しさにあり、またエスカがダンに幼なじみ以上の興味の欠片も抱いていないことを知るヴィオラなので、妙に勘ぐることはなかった。けれど、その光景はヴィオラに長年の危惧を思い出させた。
 うじうじしている間にダンは都へ旅立つことになり、町民総出で道中の無事を祈りつつ盛大に見送った。ヴィオラは滂沱の涙で見送りに加わった。ダンはため息をついてヴィオラの頭を撫で、夏には帰ってくるからと約束してくれた。彼の顔は見られなかった。呆れた顔ならまだよいが、煩わしそうな顔だったらと思うと怖かった。
 ダンが町を去って一月、ヴィオラは早々に切れた。ダン禁断症状に堪忍袋の緒ならぬ我慢の緒が切れた。「よく保った」と皆が言った。自分でもそう思った。
 愁眉も麗しいエスカが言った。
「三日で切れるほうに賭けていたのに。損をした」
 ヴィオラは提案した。
「儲けたのは誰なの。分捕って旅費にするわ。余ったらエスカにあげる」
「いい考えだ。乗ろう」
 かくしてヴィオラは都へと旅立った。一応妙齢の女性が供もなく旅に出ようというのに誰ひとり止めなかった。止めても無駄なのを知っているのだろう。恋に狂った若者の勢いに勝てる者など存在しない。
「ダン、会いたかった!」
 ダンの住処に押しかけ帰宅を待ち受けていたら第一声は「うわ」だった。でもヴィオラは気にしない。
 顔を見たら安心したと言いたいところだが、残念ながらダンの横に立つ少女にヴィオラの心は波立った。ダンに鬱陶しがられたくないので表には出さないが、アイアイと名乗るそのダンの学友が豁如とした好ましい気性だったのでますます嫌な気分になった。どこかエスカに似ている。けれどエスカと違ってダンを見る目が熱い。そして明らかにダンは気づいていない。ヴィオラの拳がぶるぶる震えた。
 さりげなく追い返したかったが夕食を共にする約束だったそうで、むしろヴィオラが割り込む形になった。用意した夕食を無視して外食に行かれなかっただけありがたいと思うべきだろう。ヴィオラにはわからない専門的な話で盛り上がっているのを黙って聞くしかないが、久しぶりのダンを眺めているだけでそれなりに心は満たされた。
 もちろんふたりの話が色めいた方向に行こうものなら即座にヴィオラは横やりを入れるつもりでいる。しかしダンは研究馬鹿なのだ。朴念仁なのだ。その目を輝かせているのが学問であってヴィオラでないのは悔しいが、その地位を奪うには力不足であることは痛感している。せめて人間の一位を狙うしかないヴィオラは、愛する人の喜びを理解せねばと思うのだ。
「ヴィオラって料理上手ね。こんなにおいしい家庭料理は初めてだわ。わたしの家にもあなたみたいな料理人がいてくれればいいのに」
「まあそんな滅相もない」
 ほほほと笑ってみせる顔が引きつっていないことを願う。彼女の中でヴィオラはダンの使用人として位置づけられたらしい。悪気がないのが質の悪さに拍車を掛けている。そしてダンは何も言わない。あとで問い詰めたところ彼女は都会のお嬢様育ちだからしかたないとのことだった。
 ちなみに夜は泊めてもらった。宿代は底をついたと主張してそのまま居座った。脅しではなく単なる事実だ。実家の店と似た定食屋に職を見つけて昼は働き朝と夜はダンの世話をやきつつ長々と過ごした。ダンは相変わらずだったがたまにヴィオラに手を出した。
「それ、いいように使われすぎじゃないの、あんた。ていうか相手の男、ヒモでしょ」
 同僚のメイヤが怒っていたがヴィオラはけっこう毎日が楽しかった。将来に向けて努力する恋人を支える健気な少女の図に陶酔していた。
「そもそも恋人なの?」
「そういえば、どうなのかしら……」
 自信がないので確かめていない。
 夏になると里帰りするダンと共に町へ戻った。都へ出発するときも当然のように同行するつもりだったが、置いて行かれた。追いかけようとすると今度は家族に止められた。
「ダンは勉強しに行ってるんだから、あんたが四六時中くっついていたら邪魔でしょう」
 ダンに頼まれたらしい。自分が邪魔者だったという事実にヴィオラはうちひしがれた。それなりに役に立っているつもりだったからだ。ダンもダンだ。直接そう訴えてくれれば引き下がったのに、信用されていなかったとしか思えない。
 皆なぜか誤解しているようだが、ヴィオラにダンの意思を無視してまで愛をぶつける気はない。ここまで明確な拒絶を受けてしまったからには大人しくするつもりだった。
 でも手紙くらいは許してほしい。返事はいらないからねと末尾に毎回書き加えつつ、まあこんなことを言うまでもなくダンにそんな律儀さを期待していないヴィオラは一方的にほとんど毎日手紙を書き綴った。読んでくれていると信じたいがどうだろう。焚き付けにされていたらどうしよう。
 次にダンに会えるのは来年の夏だ。そのころにはまた帰ってくると言っていた。だからヴィオラはひたすらその日を待った。そのうち驚くべきことに返事が来た。以前の手紙に書いた「夏祭りにダンと行きたい」という言葉を取り上げて、ならば来年の夏はその日に合わせて帰るとあった。何かの間違いかと思った。確かにダンの筆跡であることを確信してからは嬉しさのあまり数日寝込んだ。
「焚き付けにされてなかった!」
「そう、よかったな」
 興奮熱に喘ぐ病床のヴィオラをエスカは哀れみの薄笑いで見た。

 そんなこんなで一年が過ぎた。そして話は冒頭に戻る。今日は待ちに待った夏祭りの日だ。
 ヴィオラはめかし込んでダンの帰りを待った。
「おばさま、ダンは帰ってきた?」
「まだのようだよ」
 日が高くなってもダンの帰郷の気配はない。夜に戻るのだろうか。すでに町は賑わっているが、言ってみれば祭りの本番は夜なので、それもよしかとヴィオラは考えた。しかし夜になってもダンは顔を見せなかった。
 急用や、日付を勘違いしていたのなら、まだよい。事故に遭っているかもしれないと思うと、いっそ約束を忘れていてほしかった。
 夜が明けても待ち人は現れなかった。心配でいてもたってもいられなくなって、ヴィオラは取るものもとりあえず都方面へ向かうことにした。しかし町を出るところで配達人とすれ違った。ダンからヴィオラ宛の手紙があった。どうしても受けたい臨時講義が重なったため里帰りができないことを謝罪する内容だった。
「うちの馬鹿息子がごめんよ、ヴィオラ」
 ダンの家族に謝られたが、ヴィオラが座り込んだのは怒りや悲しみでなく安堵のせいだった。
「無事でよかった……!」
 結局その夏にダンは帰ってこなかった。その代わりというわけではないがメイヤが遊びに来てくれた。垢抜けた彼女を見ていると都を思い出すので寂しい気分が少し紛れた。
「あの男、しょっちゅう店に来るけど大抵アイアイとかいう女と一緒よ。好き勝手させといていいの?」
 メイヤが渋い顔で教えてくれた。ヴィオラはどうしていいかわからなかった。ただ微笑んだ。
 秋口に、どうしても都に行ってダンに会わねばならない事情がヴィオラにできた。手紙では埒があかないと思った。返事が必要な用件だからだ。
「お願いダン今すぐわたしと結婚して!」
「帰れ」
「嫌」
 開口一番の求婚は一瞬で断られた。ヴィオラはこのとき初めてダンの拒絶に退かなかった。隣に居合わせたアイアイは目に入っていなかった。
「俺は今から行かなきゃならん場所がある。俺の家にいていいから頭を冷やせ。済まなかったアイアイ、行こう」
「いいの?」
「ああ」
 なおもヴィオラは縋った。
「お願い、うんって言って!」
 ダンはヴィオラの手を振り払った。
「いい加減にしろ!」
 ヴィオラがここまでしつこくしたのが初めてなら、ダンがヴィオラを怒ったのも初めてだった。信じられない思いでヴィオラは目を見開く。身体がすくんで動けなくなった。
 どうしよう、怒らせてしまった。これまで一度も本気でヴィオラを邪険にすることはなかったダンが、怒鳴った。嫌われてしまう。近くにいられなくなってしまう。
 慄然として足が震えた。さぞ悲壮な面持ちだっただろう。
 それを見たダンはかすかに動揺したようだったが、数秒の逡巡ののち、「あとで話を聞く」と告げると背を向けて去った。アイアイがじっとヴィオラを見ていたが、気づく余裕などなかった。
 今回ばかりは落ち込みが深い。不撓不屈のヴィオラとて鋼鉄製ではないのだ。傷つくことも多々ある。ダンの家で待つのも気が引けて、ヴィオラが向かったのはメイヤのところだった。
「だから言ったのに、あんな男やめとけって」
「ううん、よく考えてみれば何の説明もなく結婚を強要されて頷く人なんていないわ。ダンは悪くないと思うの」
「確かに説明はしたほうがいいわよ、どう考えても」
「……それは、ちょっと、難しいけど。でも、謝りに行かなきゃ」
「あーはいはい、もう好きにすれば」
 だめだこりゃと頭を抱えるメイヤに送り出され、ヴィオラはダンの家へ向かった。
「ダン! さっきは……」
 扉を開けた瞬間の衝撃をどう表現すべきかわからない。怒るより泣くよりまずヴィオラは無表情で固まった。
 寝台にダンとアイアイがいる。互いに着衣したままだがダンは仰向けになり、アイアイがしなだれかかっている。ヴィオラも寝たことのあるその場所に、別の女性がいる。
 アイアイは黙ってヴィオラを見ていた。ダンが半身を起こして口を開こうとするのをヴィオラが遮った。
「今までありがとう」
 間髪を入れず続ける。
「いっぱいわがまま言ってごめんなさい嫌な思いをさせてごめんなさい邪魔ばかりしてごめんなさい長い間ありがとうたくさん感謝してる本当にありがとうさようならお元気で」
「ヴィオラ……!?」
 大急ぎでその場を去ったヴィオラはその後のことをあまりはっきり覚えていない。というより思い出さないようにしている。確かなのはその足で町に逃げ帰ったということだ。途中で馬を借りたのですぐだった。
 泣き濡れたひどい形相で町に入ったヴィオラを見つけたのはエスカだった。
「自業自得」
 エスカは言った。傷つく余裕さえ与えてくれないほど的確な言葉だった。
「求めない態度は気遣いでなく傲慢だよ、ヴィオラ」
 項垂れてヴィオラは帰宅した。
 その朝、町を飛び出していく馬があった。




 なんということだ。
 ダンは愕然としていた。
 あの、いつも一生懸命に全力でたまに暑苦しいけれどそれさえ眩しくていついかなるときも笑っていたかわいいヴィオラが、泣いた。泣かせてしまった。
 泣かない生き物だと思っていた。いつも笑っているのが当たり前の幼なじみだった。しかし冷静に考えてみればそんなはずはない。ヴィオラは特殊な生き物などではなく十八歳の女の子なのだ。
 思考回路が焼き切れた状態で灰になっているうちに朝が来ていた。昨日は敬愛する講師に食事に招かれたもののヴィオラを気にするあまり酒を断り損ねてうっかり酔っぱらってしまいどうやって帰宅したものか判然としないが気づけばヴィオラが涙を流して走り去っていた。級友がいた気がするがいつの間にかいなくなっている。
 ダンを正気に戻したのは、首元に突き付けられた白刃だった。
「いつまで腑抜けになっている気だ、ダン」
「エスカ……」
 彼女は真顔だった。長い付き合いなだけに、それが強烈な怒りを宿した表情であることがわかる。なぜ町にいるはずの幼なじみがここに、と考えたところで我に返った。
「ヴィオラ!」
「どこへ行く」
 立ち上がろうとするダンを、エスカの愛剣が阻む。
「ヴィオラは、どこへ」
「帰ってきたよ、今朝」
「昨日の夜出たのか!? 危ないだろう!」
 ダンは青くなったが、エスカはそれを鼻で笑った。少しも愉快そうではない。
「ここにいたほうがヴィオラの心が危ない」
 抜き身の剣は未だダンに傷ひとつ付けていないが、ぐっさりと刺されたような痛みに彼はうめいた。
「そもそもなんで、ヴィオラはあんなことを……?」
 苦悩するダンを見下ろすエスカはいたって冷静なものだ。
「ひいじいさんが、いよいよやばい」
 ダンは顔を上げた。
「ヴィクトール爺さんが……? 直る見込みは」
「ない。そもそも病気ではなく老衰だからな」
 ヴィオラとエスカの曾祖父であるヴィクトールはもうずいぶん長いこと寝たきりだった。若い頃は剣で勇名を轟かせた豪傑で、大勢いる曾孫の中でも元気で明るいヴィオラを特にかわいがっている。
「今すぐどうこうってわけじゃない。だが、覚悟をするよう医者が伝えてきたのが一昨日のことだ。ヴィオラはひいじいさんっ子だからな、自分の花嫁姿を見たがってるひいじいさんの望みをどうしても叶えたいんだろうよ」
 ダンは頭をはたかれた気がした。なぜ彼女があのときそれを言わなかったのかという無神経な疑問はさすがに浮かばなかった。彼女の性格上、愛する曾祖父の死など口に出せるわけがない。怖かったのだろう。ヴィオラは手紙に何度もヴィクトールのことを書いてきた。その愛情や心配を知っていたダンは気づいてしかるべきだったのではないか。
「察しろとは言わない。伝えないヴィオラが悪いんだ」
 ダンの心中を見透かしたようにエスカは言った。
「そのことに関しておまえを責める気はないよ。恋人でもない女からいきなり求婚されても断るのが普通だものな。そうだろう?」
「な、違」
「違うとは言わせない」
 エスカの切れ長の目が鋭く光った。刀身を押しつけられる。
「ヴィオラを振ったことは責めない。だが結婚する気もない女を傷物にした点では万死に値する。しかもダン、おまえ何をした? あのヴィオラが泣くなんてただ事じゃない。事によっては明日の朝日は拝めないと思え」
 振った覚えはないとか命の危険だとかより質問そのものにダメージを受けた。そうだ、あのヴィオラが泣いたのだ。
「……わからん」
「あ?」
「俺のほうが知りたい。情けないことに、ヴィオラが泣いた理由がわからないんだ」
「本当に情けない。何があったか話してみろ」
 ひとつ年上の幼なじみは、ダンを含め町の男衆にとって姉貴分と言うより兄貴分だった。剣を下げて聞く体勢になった彼女にダンは昨日の出来事を説明した。求婚のくだりは話していて胸がじくじく痛んだが、なるべく忠実に伝えられるよう努めた。
「なるほど」
 聞き終えたエスカは得心がいったように頷いた。
「そりゃ想い人の浮気現場、いやこの場合ヴィオラのほうが浮気なのか? まあとにかくそんな場面を目の当たりにすれば、さすがのヴィオラだって傷つくだろうよ」
「は!?」
 ダンは仰天した。思いもよらない解釈だった。
「ダン、考えてもみろよ。ベッドで男女が密着してたら普通はどんな言い訳も通らないだろう」
 ここまで言われるまでダンはヴィオラの受けた衝撃に思い至らなかった。もしかして本当に潔白なのかとエスカの頭に疑問が去来したとき、ダンが叫んだ。
「ありえない! 俺はヴィオラにしか勃たない!」
「知るか馬鹿」
 即座にエスカは下品な弟分の頭に拳骨を落とした。
 手加減なしの一撃に唸りながらもダンの心はヴィオラのことでいっぱいだった。
 なんということだ。今ごろ彼女はどれほど消沈しているだろう。
 昔からずっと呼びかけるまでもなくヴィオラはいつもダンを見ていてくれたから、安心しきっていた。ないがしろにしていたと言われてもしかたがない。ヴィオラに気持ちを返す努力を怠っていたのは確かだ。それどころか、勉強に集中したいダンの前に現れて心をかき乱す彼女を鬱陶しく思うことすらあった。傍にいれば不埒な気分に陥ってしまう。行動に移してしまったことも少なくない。今となっては言い訳にもならないが、卒業するまでは関係を進めず我慢する予定だった。学問への信仰を揺るがせる恋人をしばしば恨んだ。どう考えてもダンの身勝手だ。
「おおむね話はわかった。で、どうする?」
 どこまでも居丈高にエスカは決断を迫った。
「弄んで捨てるつもりだったんならちょうどいいだろう、放置するのもひとつの手ではある」
 「何を」と気色ばむダンの抗議は切って捨てられた。
「ああ安心しろ。傷ついた女心のアフターケアは任せてくれていい。ヴィオラは私が娶ってやる」
「な! やっぱりヴィオラを狙ってたのか、エスカ!」
 真っ先に問題となるはずのエスカの性別について、焦りすぎたダンは突っ込まなかった。
「ヴィオラはかわいいからな。特別に器量よしってわけじゃないが、愛嬌があって飽きない顔だ。あれだけ熱心に好いてくれる娘はそういないことだしな。ダンに振られたとなると男どもによる争奪戦が始まりそうじゃないか。勝つのは私だが」
 自由奔放すぎる発言にダンは奮起した。
「おい、どこへ行くダン」
「ヴィオラのところだよ」
「やめとけ。ヴィオラは人生と同じ長さの不毛な恋からやっと解放されようとしているんだから、妙な手出しはしないほうがいい」
「解放させてたまるか!」
 ダンの瞳には炎が燃えている。もはや制止は耳に入らないだろう。エスカはにやりと笑った。
「おいダン」
「なんだ! 俺は急いでいる」
「土下座が似合う男は素敵ってヴィオラが言ってたぞ」
 ダンはエスカを一瞥して出て行った。と思ったら戻ってきた。
「エスカ、ヴィオラのためとはいえおまえも無茶をするな。明け方の道だって危険なんだぞ」
 言うだけ言って再びダンは去った。律儀な奴だとエスカは呆れた。ヴィオラはそういうところに参っているのだろうが。
「さて、私は休んでから帰るか。少々痛めつけ足りない気はするが」
 住人のいない部屋でエスカはひとり呟いた。




 ヴィオラは地にめり込んでいた。もういやだ恥ずかしいわたしったら恋人とはいかなくてもダンのそれなりに特別な人間であると思い込んでいただけだったんだわでもひどくないかしら普通勘違いもするわよあんなことまでされていたらああでも最初に襲ったのはわたしだったわ軽い女だと思われていたのかしらもういやだ恥ずかしい消えたい。
「立ち直れないわ……」
 いつもならヴィクトールの見舞いに行くところだが今日ばかりは気が進まない。花嫁姿を見せてあげられなくなったからだ。玄孫の顔を見せてあげたかったがそれも叶わないだろう。曾祖父不孝な曾孫で申し訳ない。
 エスカに言われた言葉の意味はヴィオラ自身が一番よくわかっている。
 あれだけしつこく愛を語りながらヴィオラは実のところダンに何も期待していなかった。諦めがとことん彼女を大胆にしていたといってもよい。無邪気にダンの言葉を欲しがっていた幼児期は遠い昔のことだ。ヴィオラは長ずるにつれて諦念を知り献身を装った逃げを知り、ダンの想い人に気づかぬふりをするあまり、やがてダン自身すら見なくなっていたのかもしれない。
 拒まないダンにつけ込んでいたのはヴィオラだ。
「でも、もう終わりにしなくてはいけないのね。あの女は気にくわないけど」
 くよくよ悩むのは性に合わない。これからはダンのいない生活に慣れねばならないのだ。ヴィオラは部屋を出た。忘れることが可能だとは思えないが、家に閉じこもっていてはいつまで経っても気分が浮上しない。
「そうだ、こういうときは肉体労働よ」
「そうだよ姉ちゃん、薪割りがいいよ」
 思考回路の似た弟の励ましを受けつつヴィオラは斧を手に取った。弟も幼いなりに、いつになく浮かない表情の姉を心配しているようだ。
「とうっ! ふん! えいや!」
 薪割りに熱中し爽やかな汗を流していると、次第に頭の中の靄が晴れてくる。するとどうにも悔しさが抑えきれなくなってくるのだった。
「エスカならともかく、あの女は許容できないわ!」
 またひとつ薪をぶった切る。
「年月という強力な武器があるんだし、略奪もひとつの手かしらっ?」
 名案が浮かぶと同時に気分が上向きになり、斧をくるくる回し始める。
「姉ちゃんかっこいい! 業師!」
「あら、照れるわ」
 調子に乗って振り回していたら斧がヴィオラの手を離れて飛んでいった。慌てて目で追った先で馬がいなないた。
「まずいわ」
「まずいよ」
 ふたりで走っていくと、そこには目の前に落ちてきた斧に動転して半狂乱になった馬と、それを宥めるダンの姿があった。
「ダン!」
「ヴィオラ! って、うわ、落ち着け、どうどう」
 再会の気まずさも感動も、暴れる馬がかき消した。三人がかりでなんとか大人しくさせ、ほっと息をつく。改めてダンがヴィオラに向き直った。まだ彼の顔を見られるほどふっきれていないヴィオラは逃げねばと思ったが、ダンの珍しく強い眼差しに骨抜きにされている懲りない彼女は生憎その場を動けなかった。むしろ弟が気を利かせて去った。
「あの、ごめんなさい、怪我はない?」
 見つめるだけで何も言わないダンにたまりかねてヴィオラから口を開く。
「ない。ヴィオラ」
「は、はい」
「結婚しよう」
 ヴィオラは驚かなかった。
 驚きをはるかに通り越した境地に達していた。
 言葉の持つ威力が巨大すぎて、いったん耳に入ったものの反対側の耳から出ていってそのあたりをぐるぐる旋回して回り疲れて耳に戻ってきてようやくそれはヴィオラの脳に届いた。
 続いてヴィオラは顔も身体も微動だにしないまま言葉の意味を咀嚼した。分解して組み立て直して吟味して、エスカの顔が浮かんだところで納得のいく答えにたどり着いた。
 間違いない、ダンはヴィクトールの話を知ったのだ。優しいダンらしい選択といえる。
 さてヴィオラはどう答えるべきだろうか。
 当初の希望どおりと言えばまさにそれには違いないが、ダンにベッドを共にするような相手がほかにいることを知った今となっては即答しにくい。いや略奪を誓ったのだから望むところなのか。ここは喜んで頷くべきなのか。
 さんざん検討したのち「承りました」と答えそうになっていたヴィオラに、ダンは言う。
「その、もしかしたら誤解しているかもしれないけど、アイアイとはなんでもない」
「こっ、これが斜向かいの奥さんが言っていた白々しい言い訳その一、アイツトハナンデモナイというやつ……!?」
 感想が口からだだ漏れになっていることにヴィオラは気づいていない。
「斜向かいの奥さんは疑念に取り憑かれてるというか疑うのが趣味のような人なんだから真に受けるな! アイアイは俺に恋人がいることを知ってるし、そもそも単なる同級生だ」
 相変わらずのダンの鈍さにヴィオラはつい恋敵へ同情しそうになるが、それより聞き捨てならない単語があった。
「恋人!?」
 がーんと音が聞こえそうな驚きと悲しみと絶望をヴィオラは味わった。いつのまにそんな存在をこさえていたのか。そして何もかも己が悪いと思い込み始めているダンは、彼女のその表情にまたぞろ言葉の足りなかった過去の所行を恥じた。
「三股!?」
「違う!」
 その誤解だけは避けたい。ダンは思い切り電光石火の勢いで否定した。
「ダンってエスカが好きなんじゃなかったの? それともエスカに相手にされないからもう誰でもいいってこと?」
「なんだその超理論! やめてくれ恐ろしい! エスカは姉っていうか兄だ、超えられない壁だ」
 そろそろ疲れ果ててきたダンだが、ここで退いては誤解がさらにとんでもないことになるという確信があった。
「昔も今もこの先も、俺はヴィオラだけだ。恋人も妻も、ヴィオラだけがいい」
「言い訳その二、オレニハオマエダケダ……」
「違う! とりあえず斜向かいの奥さんのことは忘れて、俺を信じろ! いや、我ながら図々しい言い分なのはわかってる、でも頼むから信じてくれ」
「……よくわかんないけど、いいや。ダンが結婚してくれるなら、もうなんだっていいや」
 呆然としつつもちゃっかりヴィオラは呟いた。もはや信じられないというより信じたくないという拒絶をダンはそこに見る。一体どうすればヴィオラの笑顔が取り戻せるのかわからない。
 そこにとんでもない人物が現れた。
「うむ、聞いた話より早いがめでたいことには変わりない。よかったなヴィオラよ」
 もうずいぶん長いこと寝床から出ていないはずのヴィクトールだった。
「ひいおじいちゃんが立った!」
 ヴィオラは亡霊を見たような反応を示した。ダンも驚かずにはいられない。
「ヴィクトール爺さん、あんた死にそうなんじゃなかったのか」
「見くびるな若造」
 いや、見くびるとかそういう問題なのかこれは、と若者ふたりの混乱は甚だしい。齢九十に届こうという老人はどこからどう見てもぴんぴんしている。
「ヴィオラが泣いていると聞いて起き上がってみたら、なんともなかったぞ。あの藪医者、いい加減な見立てをしおって」
「よ、よかったねえひいおじいちゃん……!」
 何が何だかわからないが吉事には違いない。ヴィオラは感涙にむせぶ。
「うむ、二年後のおまえの結婚式にも必ず出てやろうて。もっとも、早まりそうだがな」
「二年後? ひいおじいちゃん、ボケてるの?」
 そんな予定を知らない当人は眉根を寄せた。ダンがその後ろで慌てる。
「知らんのか? ダンは都へ行く前、家に来て頭を下げたぞ。卒業したらヴィオラをくれと」
 ダンの名を聞くや反射的にヴィオラは彼を振り返る。じっと見つめる。ダンは赤くなった。
 そのときヴィオラの心境がどのように変化したのかダンは知らない。ただ、ダンの大好きな笑顔が浮かんだのを彼は陶然と眺めていただけだった。




 実は恋人どころか婚約者だったダンは、授業があるからと慌てて都へ出発した。ヴィクトールが復活した今となっては急ぐ必要もなくなったわけだが、めでたいついでに式は次の冬の休暇に合わせて行うことになり、日取りも決まって準備に追われるヴィオラは町に留まっている。
 ある日エスカが彼女を訪ねた。
「懐が温かいから、礼も兼ねて婚約祝いに何か買ってやるぞ」
「エスカ? 何に、賭けたの」
「形勢逆転の時期。十年越しの賭けになったな。私の一人勝ちだ」
 ヴィオラが首を傾げると、美女が凛々しくもあくどい笑みをのぞかせた。
「本来ヴィオラは尽くすタイプじゃないからな。血筋から言っても、ダン以外への態度からしても。いつ女帝化するか固唾をのんで見守っていたんだ。大方の予想を超えてヴィオラが耐えるものだから周りは気が気じゃなさそうだった。もっとも私は想像がついていたからな、迫ることでむしろ主導権を握っていたからこそここまで続いたことも、そのうち一悶着起こるだろうことも」
 なるほどそれで「ヴィオラおまえ遅いんだよ!」だとか「予想外すぎる」だとか得体の知れない愚痴をこぼしにくる者が続出したのか、とヴィオラは納得した。女帝になった覚えはないのだけれど。
「そうだエスカ、ダンに何か言った? なぜかダンはプロポーズには土下座が必須だと思い込んでいたみたいなんだけど」
 一連の騒動ののち、改めてダンはヴィオラに正式な求婚をしている。
「さあ」
 エスカは空とぼけた。というか見たかった。その場に居合わせたかった。
 嘘は言っていない。曾祖父が曾祖母に惚れ込んで土下座付きで結婚を申し込んだ話にヴィオラがうっとりしていたのは事実だ。
「まあいいわ。それよりエスカ、わたしこれから出かけるから」
「どこに?」
「都よ! そろそろ限界!」
 ヴィオラは禁断症状を訴えた。今回は二週間保った。
 馬にまたがる従妹にエスカは言った。
「ヴィオラ、幸せになれよ」
「もちろんよ!」
 ヴィオラは自信満々に破顔して、愛しい人のもとへ駆けていった。


おしまい
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