第十一話 聖遺物庫の床下
大聖堂の地下は、驚くほど綺麗だった。
白い大理石の階段。磨き抜かれた手すり。壁には等間隔に聖灯がともり、空気には甘い香の匂いが満ちている。
案内役の若い神官は、俺たちを最下層の扉の前まで連れてくると、深々と一礼して去っていった。
扉の向こうは、円形の広間だった。壁一面の棚に、金の聖杯や古い聖典、宝石をはめこんだ聖遺物が整然と並んでいる。
そして広間の中央に、ひとりの老人が立っていた。
雪のように白い髭。金糸で縁取られた深紅の法衣。足元には、爪先に金の冠の鋲を打った、踵の広い靴。
「よく来てくれた、清掃員殿。そして剣姫殿も。大司教のグレゴールだ」
穏やかな声だった。ベルトランよりも、ずっと穏やかで、ずっと底が見えない。
「お招きありがとうございます。それで、汚れというのは、どこですか」
「見てのとおり、この部屋は毎日、神官たちが磨き上げている。汚れなど、どこにもない。……そう思うかね?」
俺は広間をぐるりと見回した。
確かに、床にも棚にも、塵ひとつない。完璧に磨かれた部屋だ。
だからこそ、おかしかった。
「……香が、強すぎますね」
大司教の眉が、ほんのわずかに動いた。
「聖遺物庫に、こんなに強い香を焚く必要はありません。香は、何かの匂いを隠したいときに焚くものです。それに――」
俺はしゃがみこみ、床の大理石の継ぎ目に指を這わせた。
部屋の中央に向かって、床がほんの少しだけ、すり鉢状に傾いている。目では見えないくらいの傾き。でも、毎日床を拭いている人間なら、足の裏でわかる。
そして中央の床石だけ、目地の汚れの付き方が違った。何度も持ち上げられた石の、目地だ。
「ここ、排水口ですよね。この部屋、水を流す必要なんかないのに」
大司教は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと手を叩いた。乾いた拍手が、円い広間に反響する。
「素晴らしい。三十年、誰ひとり気づかなかったのだがね」
大司教が錫杖で床を叩くと、中央の床石が重い音を立てて沈んだ。
吹き上がってきたのは、むせかえるような焦げた砂糖の匂いだった。
床下には、巨大な空洞が広がっていた。その中に、人の背丈ほどもある銅の大釜が、何十と並んでいる。釜の中で煮えたぎっているのは、黒紫の液体。濃縮された瘴気だ。
釜の底からは太い管が伸び、さらに下の暗闇へ続いていた。水の流れる音がする。王都の地下水路だ。
アイリスが、かすれた声でつぶやいた。
「浄化した瘴気が、どこかに消えてた理由……ここだったのね」
「消えたのではない。集めたのだよ、剣姫殿」
大司教は、慈愛に満ちた目で大釜を見下ろした。
「大聖堂の浄化は、瘴気を焼き払うものではない。聖なる器に吸い取り、ここへ運んでいる。そして煮詰め、必要なときに、必要な場所へ戻す」
「……必要なとき、ですか」
「人は、恐れなければ祈らない。迷宮が穏やかであれば、誰も大聖堂に浄化を頼まない。寄進も集まらない。信仰が細れば、国が乱れる。だから私は、ほどよく汚し、ほどよく清めてきた。三十年かけて、国を守るためにね」
大司教の目が、俺に向いた。
「だが、清掃課がいる限り、それができなかった。君たちが毎日、黙って床を磨くせいで、この街の迷宮だけはいつまでも穏やかだった。ずいぶん、邪魔をしてくれたものだ」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
三十年。グラム課長や、おばあちゃんたちや、名前も知らない先輩たちが、毎日モップを動かしてきた三十年。誰にも褒められず、気にも留められなかったその仕事を、いちばん正確に評価していたのが、この人だったなんて。
「それで、今日は俺を消すために呼んだんですか」
「いいや。勧誘だよ」
大司教は、柔らかく微笑んだ。
「君の《清掃》があれば、瘴気をもっと効率よく集められる。大聖堂の浄化司祭として迎えよう。報酬は、清掃課の百倍。もちろん――」
大司教は、俺の懐中時計にちらりと目をやった。
「定時に帰ってくれて構わない」
アイリスが、はっと俺の顔を見た。
俺は、懐中時計のふたを開けた。針は、夕方の四の鐘を少し過ぎたところだった。
「すごくいい条件ですね」
「ノエル……!」
「でも、お断りします」
俺は、ふたを閉じた。
「俺が定時に帰りたいのは、楽をしたいからじゃありません。毎日ちゃんと段取りして、毎日ちゃんと綺麗にして、明日もまた同じ仕事ができるように帰るんです。汚すために働く仕事は、何時に帰っても、ただの残業です」
大司教の微笑みが、すっと消えた。
「……そうか。残念だよ」
錫杖が、もう一度床を叩いた。
大釜の底で、いくつもの栓が一斉に外れる音がした。黒紫の濁流が、管を伝って地下水路へと流れ落ちていく。
「一時間もすれば、この瘴気は水路を通って、王都じゅうの迷宮に届く。三十年ぶりの大氾濫だ。そのとき人々は、清掃課ではなく大聖堂に祈るだろう」
広間の扉が開き、白銀の鎧をまとった聖騎士たちがなだれこんできた。二十人、いや三十人。
アイリスが聖剣を抜き、俺の前に立った。
「ノエル。ここは私が引き受ける。あなたは水路へ」
「でも――」
「斬るのは私の仕事。綺麗にするのは、あなたの仕事。そうでしょう、先輩」
俺はグラム課長の合鍵を握りしめ、床下の暗闇へと飛び降りた。




