設定駄目出し⑦:純潔を貴ぶ
ゲオルグは最近、自分でも驚くほど貴族社会というものに興味を持ち始めていた。以前であれば『貴族とは遠い世界の住人』で済ませていたことが、今では『彼らは何故そう考えるのか』と理由まで知りたくなる。
それは目の前の少女──アレクシア・ベアトリクス・ノイチュが単に『それは違います』と否定するだけではなく、必ず理由まで説明してくれるからだ。
理屈が解れば納得できる。納得できれば物語にも活かせる。出版社の編集者として、これほど有り難いことはなかった。
今日もゲオルグは、新しい設定案を机の上に並べていた。作者が持ち込んだ最新のプロットである。前回告げられた『純潔』に関わる物語だ。
内容は王太子と侯爵令嬢の恋愛を描いた作品で、これまでの『平民少女もしくは下位貴族との身分違いの恋』から一歩進み、身分の近い王族と高位貴族との恋愛を描こうという意欲作だった。その分だけ、貴族社会の常識をより正確に描かなければならない。
ゲオルグ自身も、以前なら見逃していた違和感に気付けるようになってきていた。
アレクシアはゆっくりと設定資料を読み進める。ページを捲る音だけが静かな応接室に響いていた。暫くして、彼女は資料を机に置く。
「今回はそこまで大きな問題はないわ」
その一言だけで、ゲオルグは胸を撫で下ろした。以前なら冒頭数ページで真っ赤になっていた設定資料が、今回は最後まで読まれたのである。それだけでも進歩だった。
「ただ、1点だけ」
やはり来た。ゲオルグは自然と背筋を伸ばす。
「婚約前にヒロインが恋人と関係を持っていた設定ね」
「あ……はい」
作者としては『過去の恋』という演出らしい。平民向けの小説でもよくある設定だ。既に恋人とは別れ過去の存在になっており、王太子と出会ったときには何の関係も持っていない。だから問題ない。ちょっとした恋愛のスパイス程度だ。そう考えていた。
「これは貴族向けだと厳しいわね」
アレクシアは静かに首を振る。
「貴族は結婚するまで純潔であることが大前提なの」
平民であれば然程問題にはならない処女性は、貴族では重要な要素になる。
「理由はいくつかあるけれど、一番大きいのは托卵防止」
聞き入なれない言葉だった。
「たくらん……ですか?」
「ええ」
アレクシアは頷く。
「婚姻前に性交渉経験のある女性では、確実に王家の子を孕むとは言えない」
ゲオルグは首を傾げる。
「ですが……結婚してから子供が生まれれば、それで問題ないのでは?」
「本当に?」
優しい口調だった。
「結婚した直後に子を授かったとして、その子が誰の子か、どうやって証明するの?」
「…………」
返事が出来なかった。確かに判らない。平民なら夫婦が信じ合えば済む話だ。だが、王家となれば話は別だ。王侯貴族は血統を重視する。
「別の男性の子を孕んだ状態で嫁ぐ可能性はゼロではない」
アレクシアは淡々と続ける。
「だから王家だけではなく、貴族は婚約者には純潔を求めるの」
ゲオルグは思わず唸った。恋愛感情ではない。嫉妬ではない。血統管理だった。王家とは国家そのもの。その血統に疑念が生じることは王位の正統性そのものを揺るがす。歴史書でも王位継承争いは何度も読んだ。だか、それを未然に防ぐための制度として純潔を求めるという発想はなかった。
「勿論、完全に防げるわけではないわ」
アレクシアは付け加える。
「夫婦になったあと不義を働けば意味はないもの」
「では……」
「だからこそ、教育するの」
その答えは実に貴族らしかった。
「幼いころから王族とは何か、家とは何か、結婚とは何か、血統を重視するのは何故か。それを教える」
恋愛小説では恋を知ることで少女は成長する。しかし、貴族社会では違う。恋を知る前に義務を知る。その順番なのだ。
「それに──」
アレクシアは少しだけ表情を改めた。
「王侯貴族は学院を卒業して成人してほどなく結婚するから、婚姻前に純潔ではないということは、学生の身で性交していることになるでしょう」
ゲオルグはハッとした。確かにそうだ。学院卒業後に婚姻する者が多いのであれば、婚約前の恋愛経験とは10代半ばまでに関係を持ったことだ。成人前の責任のとれぬ年齢で己の欲望に負けたことになる。
「それは貴族としての常識と貞操観念の欠如を意味するわ」
その言葉は決して感情論ではなかった。規律を守れない者。教育を軽んずる者。家の名誉を理解していない者。そう判断されるという話なのだ。
ゲオルグは必死に書き留める。純潔=恋愛経験の有無ではない。純潔=教育を受け入れ家の規律を守れる人物かどうか。そこまで書いて、顔を上げた。
「つまり……貴族にとって純潔は貞操というより信用なのですね」
アレクシアは微笑んだ。
「その理解でいいわ」
漸く本質が伝わったことが嬉しいのだろう。
「平民から見ると少し窮屈かもしれないけれど」
「いいえ」
ゲオルグは首を振る。
「会社を経営していると、信用が何より重要なのは判ります」
一度でも約束を破れば作家は離れる。取次は本を扱わなくなる。読者も信用しない。商売とは信用の積み重ねだ。
ならば国家を支える王家にとって、その信用が何倍も重いのは当然だった。
アレクシアは満足そうに頷く。
「ええ。だから、王侯貴族は純潔そのものを神聖視しているわけではないの」
そこで一度言葉を切った。
「もっと現実的な理由があるのよ」
その声音にはまだ語るべきことが残っているという含みがあった。ゲオルグは新しいページを開く。
今日もまた、自分の常識が書き換えられていく。そんな予感を抱きながら、ペンを握り直した。真っ新な何も書かれていないページを見ながら、ゲオルグは先ほどまでの話を頭の中で整理した。
純潔とは恋愛観ではない。血統を守り家を守り信用を守るための制度。そこまでは理解できた。しかし、アレクシアは『もっと現実的な理由がある』と言った。まだ何かあるのだろうか。ゲオルグの疑問を見透かしたかのように、アレクシアは静かに口を開く。
「王族側としては、欲望に負けるようでは為政者として失格なの」
その言葉に、ゲオルグは少し意外そうな顔をした。
「為政者、ですか?」
「ええ」
アレクシアは頷く。
「国王も、王太子も、公爵も……王族も高位貴族も、自分の欲を優先してはならない立場よ」
恋愛も、怒りも、悲しみも、喜びも、全てを理性で制御するように幼いころから教育される。当然そこには欲望の制御も含まれる。
「性欲を抑えきれず、色に溺れた権力者の話は世の東西を問わず多いでしょう?」
ゲオルグは頷いた。歴史書にもそうした王や貴族は何人も登場する。愛妾を優遇し国政を乱した王。寵姫に入れ込み戦争を起こした皇帝。美女に溺れて国庫を空にした王。平民でも知っている有名な逸話だ。
「だからこそ、教育するの」
アレクシアは続ける。
「欲望を制御できる者だけが、国を治める資格を持つ」
ゲオルグはゆっくりと息を吐いた。恋愛を否定しているのではない。優先順位の話なのだ。自分の欲望よりも国の利益。自分の幸福より領民の安定。その覚悟を持つ者だけが王となる。だから、純潔はその基準の一つになる。
「貴族社会ではね」
アレクシアは少しだけ笑う。
「純潔そのものが尊いというより、『自分を律する出来ることが出来る人間』という評価になるの」
「成程……」
ゲオルグは何度も頷きながら書き留める。純潔=自己管理能力の証明。その一文を書いたところで、ふと一つ疑問が浮かんだ。
「為政者として……なら、これは男性側に求められる?」
「そうね。純潔は女性ばかりが求められるものではないわ。托卵防止は女性に求められる理由だけど、それ以外は男女ともに共通ね」
その答えは即答だった。
「仮に王太子が婚約前から女性と関係を持っていたらどうなりますか?」
アレクシアは小さく肩を竦める。
「教育係は更迭」
「え?」
「護衛騎士は叱責」
「はい?」
「侍従長も責任問題」
ゲオルグは口を開けたまま固まる。
「本人が叱責されるのではなく?」
「王族は一人で育つわけではないもの」
教育係、侍従、侍女、護衛、乳母、執事。多くの者が王族教育に関わっている。その結果として問題を起こしたなら、教育体制が問われる。それは純潔問題だけではない。全てにおいてそうなる。
「王太子本人も当然厳しく叱責されるでしょうけれど、それだけでは終わらない」
「周囲も責任を負う」
「ええ」
それは平民の感覚とは全く違った。当人個人の責任だけでは終わらない。組織全体で責任を負う。だからこぞ、誰もが本気で教育する。
ゲオルグは出版社のことを思い出した。新人作家が問題を起こせば編集者も管理責任を問われる。出版社全体の信用にも関わる。規模は違うが、理屈は同じだった。
「それに、教会の教えを守れない者が、神の怒りを伴わない様々なルールを守れるのか」
フローリィ王国を含む大陸には共通する信仰がある。その教えはそこに住む人々の根幹となるものだ。生まれたときから当たり前にあり、全ての道徳や規律の基盤となっている。
「教会が説く戒律は国法よりも前に学ぶものよ。その中には『汝、姦淫するなかれ』と説かれているわ。幼いころから『守りなさい』と言われ続ける。それすら守れない人が、税法や外交条約、王国法だけは守れます、なんて信用できる?」
返す言葉がない。確かにそうだった。最も基本的な約束すら守れない人間が、より複雑な約束を守る保証などない。
「勿論」
アレクシアは付け加える。
「神罰が怖いから守る人もいるでしょう。でも、政治は信仰だけでは成り立たない。だから現実的な利益と結び付けて教育するの」
理想だけでは続かない。利益だけでも続かない。だから両方教える。その教育方法は如何にも長い歴史を持つ貴族社会らしかった。
ゲオルグは何枚ものページを見返した。純潔、托卵防止、血統管理、自己抑制、信用、宗教。どれも一つだけなら理解できる。しかし、それら全てが積み重なって初めて『純潔を重んじる』という文化が出来上がっている。単なる恋愛観ではない。一つの社会制度なのだ。
「……小説でよくある『恋人がいたけれど真実の愛に目覚めました』という設定は」
ゲオルグが恐る恐る尋ねる。アレクシアは少し困ったように笑った。
「平民同士なら構わないと思うわ。でも王族や高位貴族では難しいわね。恋をしたことではなく、その過程で家や教育を軽んじたと見られてしまうもの」
ゲオルグは深く頷いた。これまで『貴族は恋愛に厳しい』としか思っていなかった。しかし、実際には違う。恋愛を禁じているのではない。恋愛より優先すべき責任があるだけなのだ。
アレクシアはゲオルグが書き終えるのを待ちながら、静かに紅茶を口へ運んだ。そして微笑む。
「次回は……愛人についてお話ししましょうか」
その一言にゲオルグは思わず苦笑した。平民の間では『貴族は愛人を持つのが当然』という噂が半ば常識になっている。しかし、これまでの流れからすれば、その常識もきっと覆されるのだろう。
ゲオルグは新しいページを開きながら、小さく呟いた。
「また一つ、世間の思い込みが崩れそうですね」
「ええ」
アレクシアは楽しそうに頷く。
「今度もきっと驚くわよ」
その笑顔を見て、ゲオルグも笑みを浮かべた。
最初は震え上がっていた公爵令嬢との打ち合わせも、今では毎回新しい発見を得られる楽しみな時間へと変わっていたのである。




