設定駄目出し⑧:貴族の愛人
初めてアレクシアの校閲を受けた日、ゲオルグは『対応を間違えれば首が飛ぶ』と本気で思っていた。だが、こうして何度も公爵邸に通うようになった今、その緊張は薄れていた。
勿論、目の前にいるのは王太子妃最有力候補であり、王国でも指折りの名門公爵家の令嬢であるという事実は変わらない。それでも話し始めれば相手は理路整然と説明してくれる。判らないことを尋ねれば笑うことなく答えてくれる。決して理不尽なことは言わないししないし、平民だからと侮ることもない。だから最近では、寧ろ打ち合わせの日を楽しみにするようになっていた。
今日も応接室へ案内されると、スザナが慣れた手つきで木製のカップを運んできた。
「ありがとうございます」
「最初はその木のカップですら遠慮していたのに」
少しだけ笑みを浮かべるスザナに、ゲオルグも照れ笑いを浮かべる。
「今では随分慣れましたね」
「それでも、ソファの端に座る癖は直りませんけど」
言われてみればその通りだった。未だに背凭れへ体を預ける勇気はない。応接室の調度品一つ一つが、自宅一軒よりも高価なのではないかと思えるのだから仕方ない。
そこへアレクシアが姿を現した。
「待たせたかしら」
「いえ」
ゲオルグは立ち上がり一礼する。アレクシアは軽く頷き、向かいの席へ腰かけた。
直ぐに新しい原稿へ目を通し始める。今回持ち込んだ作品は、王国でも人気のある作家による新作だった。舞台は侯爵家。主人公は若き侯爵。そして、その侯爵には美しい愛人が何人もいるという設定である。
平民向け恋愛小説では極めてありふれた設定だった。貴族とは愛人を囲うもの。妻は政略結婚。真に愛する女性は愛人。そうした作品は読者からも高い人気を得ている。ゲオルグも何の疑問も抱かなかった。
しかし、数枚読んだところで、アレクシアの手が止まる。
「これが、平民が考える貴族の愛人像なのね」
穏やかな声だった。しかしゲオルグは察する。これはまた根本から違うのだと。
「この侯爵、愛人が3人いる設定だけれど、その理由は?」
思わぬ質問だった。
「……え?」
「何故、愛人が3人必要なの?」
必要。その言葉にゲオルグは戸惑う。好きだから。男だから。貴族だから。そんな答えしか浮かばない。
「物語ですと……女性関係が派手な人物という演出で……」
貴族だから複数の愛人を持ったりするだろうという単純な思い込みからの設定で特に深い意味はない。女性関係が派手な人物が真実の愛に出会い、その相手を愛人とし、やがて妻とする。そんな展開だ。
恐る恐るそう答えると、アレクシアは苦笑した。
「この愛人たち、侯爵邸に住んでいるわね」
「はい」
「何故? 正妻と同じ屋敷に住むなんて面倒な火種を持ち込むようなものでしょうに」
そこにも深い意味はなかった。貴族だから。そう思っていた。しかし、確かに正妻と愛人の同居はトラブルの元に違いなかった。
「愛人を本宅に連れ込むことは出来ないわ。それは正妻を蔑ろにすることだもの。政略で結ばれた正妻は配慮しなければならない相手よ。そんな相手を蔑ろにすれば、両家の間に亀裂が入ることだってあるわ」
散々言われていた、貴族の契約。結婚も当然そうだ。婚家において妻は夫人であると同時にその実家の代理人でもあるのだ。そんな正妻と愛人のトラブルは愛憎ゆえではない。政治と私事を混同した夫の咎だ。
「貴族の愛人って、2種類あるの。どちらにも共通しているのは、正妻が把握して許可して初めて認められることね」
「許可……」
「そう。正妻の知らないところで子が出来ても困るでしょう?」
血統管理。前回の打ち合わせでも出てきた事柄だ。確かに、正妻の知らぬ庶子などトラブルの種でしかない。
「愛人には2種類と言ったけれど、そうね……。子を産むための愛人か、子を産むことを許されない愛人か、というところかしら」
「子を産むためと、子を産めない……?」
どういう違いなのか。同じ愛人ではないのか。
「正妻に子が出来ない、でも両家の関係上離婚は出来ない。そういった場合に、子を産むためだけに迎えられる愛人がいるの。決して夫が愛した女性ではないわ。子が乳離れすれば愛人はお役御免。そして、子を産むことが赦されない愛人は貴方たちが想像する、恋愛による愛人ね」
愛人にすら、恋愛と政治があるのかと驚く。確かに子を作らなければ家が途絶える可能性がある。政略で結ばれているのだから簡単に離婚というわけにも行かないだろう。だから、子を産ませるだけの愛人を作る。それは平民が考える『貴族の愛人』とは全く異なるものだった。
「王家を例にしたほうが判りやすいかしらね。公的に複数の妻を持てるのは国王と王太子だけよ」
ゲオルグはメモの手を止める。そういえば側室制度があるが、それは王族の中でも限られた二人にしか許されていないのか。
「それも、白い結婚ではなく、定期的な営みがあり、5年経っても子が出来ない場合にのみ、王妃もしくは王太子妃、つまり妻の一族から迎えるの」
「え? 妻の一族ですか?」
「ええ」
アレクシアは当然のように頷く。
「他家から迎えたら新たな政治問題になるでしょう?」
その一言でゲオルグは理解した。確かにそうだ。新しい側室は子を産むために迎えられる。その側室が王妃もしくは王太子妃と対立する勢力であれば政治の場は混乱する。だから既に王家と深く結びついている王妃の一族から選ぶ。当然のことだった。
「3年経っても出来ない場合は側室交代。二人目の側室も3年身籠らなかったら、王太子交代」
「……え?」
ゲオルグは思わず顔を上げ聞き返す。交代するのは側室ではなく、王太子。確かに3人の女性が誰も妊娠しないのであれば男性側に問題があると思われるから、当然なのだろう。
「そこまでするんですか?」
「そうよ」
アレクシアは淡々と答える。
「我が国では王太子に王の孫が出来てから即位するのが基本なの。立太子は婚姻を結んでからね。第一王子殿下がまだ王太子でないのは独身だからよ」
その説明にゲオルグは目を見開いた。成程。子を生せることが確認されてから王位を継ぐ。子が生せなければ王太子位から退く。血を繋ぐ意味では堅実な制度だ。
「子がいる王子が王太子になり、第一子が王太子とは限らない。子が出来るまでは王太子であって王太子ではないという微妙な扱いね」
「では、長男だから王になるわけではないのですね」
「そういうことよ。女性にも王位継承権はあるし、性別よりも資質と能力を重視するわ」
ゲオルグは急いで書き留める。これまでの恋愛小説では、第一王子が当然のように王太子だった。しかし、この国では違う。王になる資格とは、生まれ順ではなく能力なのだ。そして、その能力の一つが『子を残せること』。恋愛小説では殆ど描かれない、極めて現実的な視点だった。
暫く沈黙が流れる。ゲオルグはページ一杯に書かれた文字を見返した。愛人、側室、王位継承、どれも自分が知っていたものとは違う。
「つまり……」
ゲオルグはゆっくり顔を上げる。
「王家の側室は恋愛ではなく、跡継ぎを残すための制度なのですね」
アレクシアは満足そうに頷いた。
「その通り。側室も国家を維持するための仕組みなの。恋愛ならば愛妾ね。そして、身分や出自を問われない代わりに愛妾は子を産むことは許されない」
王の子を産むことは政治だから、恋愛だけで政治的な背景を持たない愛妾には子を産ませない。非情でありつつも納得のいくものだった。王族はまずは国。個人の幸せはその次。それがこれまで何度も聞かされてきた、この国の王侯貴族の在り方だった。
「さて、ここまでは王家のお話。一般貴族の愛人についてに話を戻しましょう」
ゲオルグは姿勢を正した。こちらこそが多くの恋愛小説で描かれている『貴族の愛人』である。しかし、その常識もまた覆されるだろう。先ほどのほんのさわりの部分だけでも思いもしないことだったのだから。そんな予感を抱きながら、彼は新しいページを開いた。
アレクシアの説明が終わるころには、ゲオルグの手帳のページはびっしりと文字で埋まっていた。
貴族の『愛人』。平民向け恋愛小説では、最も人気のある題材の一つである。正妻に虐げられながらも愛される愛人。愛人で有りながら真実の愛を掴む女性。子を産み、やがて正妻となる元愛人。そんな物語は人気がある。
しかしアレクシアは、それらを一言で切り捨てた。
「貴族社会では、まず起こらないわ」
その断言に、ゲオルグは尋ねる。
「ですが……愛人から正妻になる話は人気なんです」
「人気なのは理解しているわ」
アレクシアは紅茶を一口飲み、静かに続けた。
「けれど、人気があることと現実に有り得ることは別問題よ。初めに愛人には2種類あると言ったでしょう?」
子を産むための愛人と、愛情による愛人。これがイコールで結ばれることはないという。
「子を産むための愛人はね、産んだあとはお役御免なの。初めにそういう契約を結ぶのよ。閨だって妊娠するためだけに行われる。愛人と呼ばれているけれど、仮母とかお腹様と言われる存在なの。中には夫とは顔を合わせず、閨のときすら顔を見せない家もあるほどよ。徹底して子を産むためだけの存在。彼女は子を産んで動けるようになれば屋敷を出て行くわ。彼女が子供と会うことは二度とない。そして生まれた子は正妻の養子になって跡継ぎとなる」
充分な報酬を与えられ、まさに仕事として子を産むだけの愛人。それは平民が想像する『愛人』ではない。『お腹様』というのが確かにぴったりな存在だ。
「そして、愛によって結ばれた愛人は、決して本宅に足を踏み入れることを許されないの。子を産むこともなく、愛する貴族が訪れるのを待つだけね」
愛のみで繋がる関係は不安定だ。どんなに愛していても相手の元に行くことは出来ない。
「……不遇ですね」
「そうかしら? 妻或いは婚約者のいる男を選んだのだもの。それくらい当然でしょう」
ゲオルグの口から洩れた言葉に、アレクシアは冷たく返す。
「愛し合うことは自由よ。人の感情までは誰にも縛れない。だから、恋をするなとは言えないわ」
アレクシアは恋愛を否定しているわけではない。愛人を否定しているわけではない。夫と愛人が愛し合うことを否定しているわけでもない。ゲオルグは少しだけ安心した。やはり恋愛は自由なのだ、と。しかし次の言葉でその期待は粉々になる。
「だからといって結婚できるとは限らないでしょう?」
「……」
「恋愛は個人の感情。結婚は家同士の契約」
その言葉が全てだった。
「例えば、公爵家の当主が平民女性を心から愛したとしましょう」
「はい」
「当主と彼女は愛し合った。だから、彼女は愛人になる」
「え?」
「愛し合うことは止められない。でも、正妻には出来ない」
アレクシアは当然のように続ける。
「一つには貴族の戸籍法があるから。我が国は平民は貴族とは結婚できない。そして、一番の理由は、平民女性に貴族夫人は務まらないから」
「務まらない……」
「ええ。公爵夫人は王妃や王太子にに次ぐ高位の女性よ。社交界をリードし、社交で夫を支え、夜会を催し、貴族社会の女性たちを誘導し纏める。そんな立場なの。それが、平民や下位貴族に出来るかしら」
「……難しいでしょうね」
「そうでしょう?」
アレクシアは微笑む。
「だから、恋人として側に置くことは出来ても、公爵夫人には出来ない」
「では、正妻が亡くなった場合は……」
「再婚相手は別の高位貴族令嬢ね。愛人はそのまま愛人」
「……」
ゲオルグは頭を抱えたくなった。
「随分夢がありませんね」
「夢で領民の生活を守ることは出来ないわ」
あっさりと返される。その通りだった。アレクシアは更に続ける。
「そもそも、高位貴族ほど結婚相手には政治的価値が求められるわ」
「政治的価値?」
「ええ。実家の派閥や資産、領地の産業や特性、防備などの軍事力、そして社交や外交。一人の結婚相手にそれだけの意味があるの」
ゲオルグは絶句した。平民ならば結婚は家族になること。しかし、貴族は違う。結婚とは領地経営の一部なのだ。
「だから、愛人を正妻にするということは、その全てを捨てるということ」
アレクシアが結論を告げる。
「そんな愚かな当主を家臣も分家も寄子も支持しないわ」
「当主交代になりますか?」
「当然ね」
「……」
「家が先よ」
静かな一言だった。恋愛小説ならば冷たい人物として描かれる台詞だろう。しかし、アレクシアは少しも冷たくなかった。ただ、常識を話しているだけなのだ。
「それに平民が思うほど、貴族は愛人を持たないわよ。恋愛遊戯を楽しむ愛人はいるけれど、本当に恋愛している愛人というのは少ないわ。だって、愛している人を不安定な立場には置きたくないでしょう?」
愛人は妻ではない。家に守られる存在ではない。愛人から貴族男性に連絡は出来ない。ただ愛する人が訪ねてくるのを待つだけだ。それに、男の愛がいつまで続くかは判らない。捨てられてしまえば、その後の生活の保障もない。若いころは許されない愛に酔って現実から目を背けられても、子を持てない不満も出てくる。年を取れば捨てられるのではないかという不安も生まれる。
「だから、誠意ある貴族は妻に愛人の存在を告げて認めてもらうの」
「妻に、認めてもらう?」
意味が解らない。妻と愛人は水と油のような決して混じり合うことのない関係ではないのか。
「妻と夫が恋愛関係であればそうなるでしょうけれど、共同経営者としての側面が強い夫婦も多いもの。公は妻、私は愛人と割り切っている方も少なくないわ。正妻が愛人を認めているとね、愛人が夫に捨てられたときに妻がある程度の補償をすることが多いわ。制度としてあるわけではないけれど、ある種の慣習みたいなものね。夫のせいで愛人は貴重な時間と子供を産めたかもしれない機会を失っているから」
目から鱗である。これまでの恋愛小説では正妻と愛人は敵同士だった。夫の愛を競い合う相手。或いは夫の愛を奪った憎い相手と愛する男の妻の座を不当に占める女。しかし、現実には役割分担し、そして最終的には庇護してくれるかもしれない存在。
勿論、そんな綺麗ごとでは済まないケースも多いだろう。愛人を虐げる妻もいるだろう。妻を馬鹿にする愛人もいるだろう。けれど、少なくとも妻も夫もまずは『家』を考える。だから、少なくとも小説のように泥沼の愛憎劇などは起こらない。少なくとも表には出ない。
「ゲオルグ、愛人を書くこと自体は悪くないわ」
その言葉にゲオルグは顔を上げた。
「え?」
「恋愛小説なのだから、恋を描くべきでしょう」
「では?」
「でも、貴族を書くなら、現実の貴族を基盤として書くこと。でなくては貴族の読者はついてこない」
「……」
「愛人は夢の象徴ではなく、愛するがゆえの苦しさも知る存在であること。正妻は単なる恋敵ではなく、家を支える責任ある女性として描く。不倫の恋を描きたいなら、貴族同士で、しかも既婚者同士。出来るだけ爵位差がないほうがいい。そして、家と恋、役目と心での葛藤も描く」
そう描くことが出来れば。
「貴族の読者も最後まで読める作品になると思うわ」
ゲオルグはゆっくりと頷いた。今日だけで、今迄書こうとしていた物語が何本も消えた。だが同時に、それ以上に面白い物語が見えてきた気がする。夢物語ではなく、責任と義務の中で、それでも恋に藻掻く人々の物語。そのほうがずっと深く人の心を動かすのではないか。
そう思えたのだった。




