補足:婚約破棄茶番のその後
アレクシアの説明はこれまでゲオルグが読んできた恋愛小説という世界を根底から覆してきた。婚約破棄は恋人同士の恋愛の縺れの結果ではない。それは国家と国家、家と家との契約を破壊する政治事件である。その認識を叩きこまれたばかりのゲオルグは、乾ききった喉をもう一度潤した。
木のカップの水はすっかり温くなっていたが、それでも充分に有り難かった。対照的にアレクシアは優雅に紅茶へ口をつける。
先ほどまで婚約破棄騒動が如何に現実離れしているかを淡々と説明していた人物とは思えないほど、穏やかな所作だった。だか、その瞳だけは真剣である。
「ここまでは、茶番そのものが成立しないという話だったわ」
ティーカップを置き、アレクシアは言う。
「では仮に──本当に万が一、いいえ億が一、誰にも止められずその茶番が最後まで行われたらどうなるか。そこも気になるでしょう?」
ゲオルグは大きく頷いた。まさにそこが知りたかった。物語では婚約破棄の後、王太子とヒロインは幸せになり、悪役令嬢は没落する。その『その後』を描く作品など、殆ど存在しない。
「まず、茶番が実行された場合、それが公の場でも学院内でも、実行した王太子は王位継承権を剥奪されるわ」
さらりと言われた言葉に、ゲオルグは瞬きを繰り返した。
「……そこまでですか?」
「当然でしょう」
アレクシアはゲオルグの反応に不思議そうに首を傾げる。
「王とは国家の最高権力者であり、施政者なのよ。感情で国家契約を壊した人物に、誰が国を任せたいと思うの?」
その言葉だけで充分だった。ゲオルグは何も返せない。確かに平民である自分ですら、商会の契約を感情だけで破る店主とは付き合いたくない。況して国家なら猶更である。
「それから、外交や諸貴族との折衝が必要な役目は与えられないわ。書類整理か、軍部に兵卒として放り込まれるか。政治的判断を要する役目や機密に関わる役目には付けないわね」
王太子から一転して窓際。その落差にゲオルグは息を呑む。小説では失恋した王太子が隣国へ留学する程度だった。しかし現実では、一生涯にわたって重要職から外される。それほど信用を失うということなのだ。
「えっと……幽閉されたりはしないんですかね」
王族が重大な罪を犯したら幽閉されるという話をよく聞いたので、そう尋ねてみる。
「幽閉? そうね……」
アレクシアは少しだけ考えるような仕種を見せた。
「幽閉されるってことは、相当な無能ね。或いは逆に影響力を持ちすぎたカリスマ。カリスマなら婚約破棄茶番以前に何とかしてるでしょうから、除外。無能はそれ以前に王位継承権を最下位に落とされているから、さくっと王籍剥奪して臣籍降下して、一兵卒にして辺境にポイっとされるでしょうし」
王族である以上、『無能』は許されないとアレクシアは言う。確かにそうだ。フローリィ王国は側室が認められているし、男女ともに王位継承権がある。王位継承権を持つ者は常に5人は確保されているという。ならば、無能を王太子にする必要はない。
「それに、基本的に幽閉って、血を残す必要がある場合の措置なの。だから、兄弟が複数いるとか、王族の従兄弟姉妹が複数いるなら、幽閉はしないわ。経費の無駄よ。例えば、兄弟が一人しかいない、王位継承権持ちが幽閉される王子の他に一人しかいないという場合には、新たな王太子に子が複数人生まれるまでは幽閉されるだろうけれど、生まれれば毒杯ね」
ゲオルグは目を丸くした。幽閉とは一生牢に閉じ込められる罰だと思っていた。しかし、彼女の説明ではそうではない。
「茶番だと取り返しのつかない失敗とまでは見做されないから、幽閉まではされないでしょうし。それよりは何らかの役目を与えて、これまでにかかった経費の元を取る方向で処理するでしょうね」
余りにも合理的だった。王族一人を育てるのには莫大な費用が掛かる。だから失敗したからと捨てるのではなく、使える場所で使う。その考え方は平民の考える貴族よりも商人に近い。
(無駄を排除するのか)
ゲオルグは内心で呟いた。平民の想像する貴族とは違う。感情より利益。体面より国家。そうした価値観で動いている。だから、恋愛小説が現実と乖離してしまうのだ。ゲオルグは漸くその意味を理解し始めていた。
アレクシアは次の紙へ視線を移す。
「次にヒロインね」
その声音は王太子のとき以上に冷静だった。
「王家と有力貴族、或いは高位貴族同士の婚約を壊したのだから、まず実家は取り潰しね」
ゲオルグは息を呑んだ。主人公なのに。恋をしただけの少女なのに。そんな考えが頭を過る。だが、それは平民の感覚なのだろう。
アレクシアは続ける。
「当然、婚約者令嬢家への損害賠償金も支払わなければならないから、取り潰しにならなくても困窮して没落は間違いないわね。男爵家だと商家を経営して余程裕福じゃない限り、収入の50年分近い賠償金になるでしょうし。寄り親や本家にまで請求が行く可能性もあるわ」
50年。その数字に気が遠くなる。令嬢の親だけではなく、兄弟、下手をすれば甥姪の世代まで支払わなければならない年数だ。確か、一般的な法衣貴族男爵家の俸給は年額700ターラーだと聞いたことがある。平民の年収の10倍ほどだ。その50年分、3万5000ターラー。
「とてつもない額ですね……」
「男爵家にとってはそうね。公爵家だと……領地収入の50分の1というところかしらね」
ゲオルグは顎が外れるかと思った。公爵家と男爵家ではそんなにも違うのかと。尤もアレクシアが言ったのは公爵領の歳入であり、公爵家として使う額は遥かに少なくなる。しかし、それだけでも高位貴族と下位貴族の経済規模の違いが明らかだ。
貴族にとって経済規模の違いはそのまま家の大きさの違いになる。当然、爵位の差もある。男爵令嬢が公爵令嬢の婚約者に粉を掛けるというのは、大陸一の大商会に店を持てない露天商が喧嘩を売るようなものなのだ。漸くその身の程知らずな行いを理解した。
「……本人は」
そんな身の程知らずなことを仕出かした当の本人はどうなるのか。命を奪われても不思議ではない。
アレクシアは少しだけ視線を伏せる。
「賠償金を作るために、裕福な商家とか貴族家の愛人か後妻に売られるのではないかしら」
部屋が静まり返った。ゲオルグは返す言葉を失う。恋愛小説ではどんな逆境でも最後は愛が勝つ。けれど、悲恋を描いた作品であれば、ヒロインが愛人や後妻に身を落とすこともある。それは『高位貴族の逆鱗に触れたゆえの仕置き』として描かれていた。だが、それも違うのだ。己のせいで家が負った借金を返すために身を売るだけなのだ。高位貴族が求めてそうするのではない。家に不利益を齎した娘に責任の一端を担わせるために親や当主がそうするのだ。
「恋愛小説とは全然違いますね」
漸く絞り出した声に、アレクシアは小さく微笑んだ。
「ええ、だから創作なの」
その言葉には否定も侮蔑もなかった。ただ事実だけがあった。夢物語を夢物語として楽しむこと。それ自体は悪くない。だが、それを現実と混同して貴族社会に持ち込めば多くの人間が不幸になる。特に身分の低い者ほど。だから、彼女はこうして説明しているのだ。
ゲオルグは改めて、この仕事の意味を理解した。単なる校閲ではない。現実と創作を切り分けるための監修なのだ。彼は新しい紙を取り出し、大きく1行書き加える。
──婚約破棄の代償は恋愛ではなく政治である。
それがこの日最大の収穫だった。
ゲオルグが書き留めた文字を見届けるように、アレクシアは静かに頷いた。
「さて、まだ終わりではないわ」
王太子、そしてヒロイン。二人の行く末だけでも充分に衝撃的だったが、アレクシアの口ぶりからすれば、まだ全体の半分に過ぎないらしい。
「それから、王太子の側近ね」
ゲオルグは思わず背筋を伸ばした。確かに物語では王太子の親友である公爵令息や侯爵令息たちも一緒になって婚約破棄を叫ぶ。彼らは最後まで王太子の味方であり、恋を応援する善良な青年として描かれることが殆どだった。だが、この世界では違う。
「彼らは側近として王太子を諫めなければならない立場。当然、家を通して王家にも報告しなければならないわ。それをしていたのであれば、数年間謹慎というところかしら」
「していなかったら?」
恐る恐る尋ねる。アレクシアは少しも迷わなかった。
「間違いなく、処罰されるわね」
余りにも当然という口調だった。
「側近とは王太子のお友達ではないの。王族を補佐するために各家が差し出している人材よ。だから、忠誠を尽くす相手は王太子個人ではなく、王家であり国家なの」
ゲオルグはその違いに目を見開く。友情、その言葉だけで片付けていた関係が、一気に政治色を帯びる。
「では、王太子が暴走したら?」
「止める」
「止まらなかったら?」
「家へ報告する」
「それでも止まらなかったら?」
「王家へ報告する。尤も、婚約者以外の令嬢を側に置いた時点で側近は家に報告するし、報告を受けた当主は国王陛下に奏上するけれど」
まるで手順書でも読むかのようだった。
「側近は王太子の共犯者ではないのよ。寧ろ、監視者であるべきなの」
その言葉が重い。
「暴走を止められなかったどころか積極的に協力した彼らは、恐らく領地に蟄居か地方役人になるかしらね。王太子の処遇次第では家から排除されて平民になることもあるでしょう。跡継ぎではないから、家への被害は少ないかしら。それでも実家も教育の不備に関しては責任を負うでしょうけれど」
あっさりと王太子の側近から地方の役人への転落。王太子の婚約破棄茶番を止められなかっただけで、そんな罰を受けるのか。しかし、これまでアレクシアから聞いた貴族の契約の重さ、領民や国民への責任を考えると妥当なのかもしれない。
「ん? 跡継ぎじゃないんですか? 王太子の側近なんだから、次期当主なんじゃ」
「王の側近と領主が両立できると思っているの?」
少しだけ呆れたようにアレクシアが笑う。
「どちらも激務よ」
ゲオルグは思わず苦笑した。確かにその通りである。自分だって出版社の仕事だけで毎日忙しい。領地経営と王太子の執務補佐を同時に行うなど想像も出来なかった。
「家を継ぐ前に側近、家を継いだら辞して領主というのは有り得ますか?」
家を継ぐのは早くても20代半ばくらいだと聞いたことがある。通常は子供が生まれてある程度育ってからだと。大体30代後半から40代で爵位を継ぐのが一般的らしい。ならば、学院卒業から20年近くは時間があることになるのではないだろうか。
「家を継ぐ前には家を継ぐための実践的な学びがあるわ」
アレクシアは説明を続ける。
「大抵の高位貴族は嫡子用の爵位と領地があるの。うちの長兄は嫡子の立場だけど、今は後継者用の爵位である伯爵なの」
兄ディートヘルムの姿が、ほんの少しだけ柔らかい表情と共に語られる。
「公爵領の一部である伯爵領の運営をしながら、公爵になる準備を進めているわ。父が領地にいる間は王都にいて他家との折衝や社交を担い、父が王都にいるときは領地に戻って領政を執っているの」
ゲオルグは思わず感嘆した。
「それでは……殆ど休みがないのでは?」
「ええ」
さらりと返ってきた。
「領主ですもの」
まるでそれが当然であるかのように。その言葉に虚勢も自慢もない。幼いころからそう育てられてきた者の、揺るぎない常識だった。
ゲオルグは胸の奥が少しだけ痛んだ。平民は貴族を贅沢を享受し遊び暮らしている存在だと思っている。しかし、目の前の少女を見ていると、それは大きな誤解なのだと理解できた。自由など殆どない。責務だけが山のように積み重なっている。
「それに、途中で側近を降りられては王家も迷惑だし、降りたあと、誰がその穴を埋めるのかという問題もあるわ。だったら、最初からずっと仕えられる後嗣以外を選ぶほうが理に適っているわ」
ゲオルグの無知な質問にもアレクシアは呆れることなく答えてくれる。そして、プラスアルファで貴族や王族の考え方を示してくれる。
「隠居した前領主が領地経営をして、当主が王都で役職に就くというケースは?」
アレクシアは首を傾げる。
「何故、当主でなくなった者が領地経営をするの?」
逆に質問されて、ゲオルグは返答に詰まる。
「領地の全ては当主の承認が必要なの。だったら、無駄でしょう」
合理的な答えだった。だからこそ納得する。前当主が実権を握り続けるなど、責任の所在が曖昧になるだけだ。政治とは責任の明確化でもある。そんな基本的なことに今更気付かされた。
暫く沈黙が流れる。ゲオルグは何枚もの紙を見返した。王太子、ヒロイン、婚約者、側近。誰一人として物語通りの結末にはならない。
そのとき、ふと最後に気になっていた人物を思い出した。
「あの……婚約者の令嬢は?」
アレクシアが穏やかに微笑む。
「ああ、婚約破棄されて傷物になったから次は碌な縁談が望めない、という話?」
「はい」
多くの恋愛小説では、婚約破棄された令嬢は社交界から追放される。修道院へ送られたり、辺境へ嫁いだり、生涯に独身だったり、醜悪な老人に嫁いだり。それが定番だった。
しかし、アレクシアは小さく首を振る。
「そうね……明らかに瑕疵は相手にあると解っている状態だから、問題はないわね」
「え?」
思わず声が漏れた。
「貴族令嬢として当たり前の行動をしていれば、『良識と常識を弁えた令嬢』として直ぐに申し込みはあるでしょうね」
ゲオルグは耳を疑う。恋をしただけの王太子とヒロイン、純粋に友を応援していた側近たちは皆身分や地位を失うのに、悪役令嬢はお咎めなし? いや、違う。王太子やヒロイン、側近は契約や政治を蔑ろにし、悪役令嬢は飽くまでも貴族のルールで行動している。ならば、それも当然か。
「ただ、近しい年齢には婚約者がいる者ばかり、ということもあるから、多少年齢の離れた相手にはなるでしょうね。後妻、というのもあると思うわ」
それは罰ではない。単純な市場原理だった。高位貴族の令嬢は政治資源である。価値が失われるどころか、寧ろ『冷静に対応した被害者』『高度な教育を受けた者』という評価が上がる場合すらある。
「恐らく、婚約者の王太子が身分の低い令嬢と不貞を始めた時点で、婚約者の令嬢の家も新たな婚約者候補の選定に入っているだろうし、王太子の不貞が噂になるころには水面下で令嬢の家と交渉に入っている家もあると思うわ」
そこまで先を見越して動くのか。ゲオルグは呆然とした。
「だから、それほど令嬢側が困ることはないのではないかしら」
静かな締め括りだった。ゲオルグはペンを置き、大きく息を吐く。
この数日だけでも、自分の常識は何度も壊された。婚約とは恋愛ではない。王族は自由ではない。側近は友人ではない。令嬢は恋する乙女ではなく家を背負う政治家の卵。そして、婚約破棄とは恋物語の終焉ではなく、国家を揺るがす政治事件。
どれも平民向け恋愛小説には書かれていないことばかりだった。だが同時に、だからこそ面白いとも思った。夢物語ではなく、現実の貴族社会を知れば知るほど、その厳しさと合理性には一つの説得力がある。
アレクシアはそんなゲオルグの様子を見て小さく笑った。
「顔色が悪いわよ」
その言葉にゲオルグは苦笑した。
「シビアです……」
「シビアですって?」
アレクシアはくすりと笑う。
「それが貴族というものよ」
その声音には誇りも驕りもない。ただ、生まれたときからそう生きるように教育されてきた者の自然な響きだけがあった。
「わたくしたち高位貴族は、社交界に出る前にこういう判断が出来るように教育されているの」
ゲオルグは深く頭を下げた。
「……本当に勉強になります」
「それは良かったわ」
アレクシアは微笑み、机上の原稿を軽く叩く。
「では次回は、『純潔』についてお話ししましょうか」
また一つ、自分の知らない貴族社会の常識が待っている。ゲオルグは新しい手帳のページを開きながら、次の打ち合わせの日程を確認するのだった。




