設定駄目出し⑥:婚約破棄茶番
ゲオルグは、ここ数回の打ち合わせで一つのことを学んでいた。自分たち平民が『当たり前』だと思っていることは、貴族にとっては当たり前ではない。逆に貴族にとって常識であることは、平民にはまるで思いもつかないものだったりする。だからこそ、この『貴族校閲』は意味がある。
そして今日もまた、新たな常識が覆されようとしていた。
「今日は、この作品最大の見せ場についてお話ししましょう」
アレクシアは設定資料の終盤を開いた。そこには太字でこう書かれている。『卒業舞踏会にて婚約破棄』 その文字を見た瞬間だった。アレクシアが小さく首を傾げる。
「またなのね」
その一言だけでゲオルグは嫌な予感しかしなかった。
「やはり……駄目ですか」
「まず第一に卒業式典後の舞踏会なんて、少なくとも我が国ではないわ」
アレクシアは即答し、ゲオルグは固まった。大前提が消えた。
「……ない?」
「ええ」
まるで『今はお昼ですね』という確認への返答のようにあっさりとしたものだった。
「学院は16歳になる年の4月に入学して、3年後の3月に卒業するわ」
「それは存じています」
「では、社交界へのデビューは?」
「卒業後……では?」
「違うわ」
アレクシアは微笑んだ。
「我が国では15歳になる年の3月末。王宮で行われるデビュタントボール」
ゲオルグは目を丸くする。
「学院より1年早い……」
「ええ、だから、学院へ入るころには既に社交界には出ているの」
その事実は完全に初耳だった。
「本題からは逸れるけれど、社交界デビューについても話しておいたほうがいいわね」
アレクシアの言葉にゲオルグは頷く。デビュタントボールは小説でも見せ場の一つとしてよく扱われるのだ。
「まず、我が国の社交界デビューは成人として認める場ではないの。我が国の貴族は学院卒業で成人。社交界デビューは準成人扱いの始まりであり、今後も貴族として生きていくという発表の場でもある。だから、将来平民になる下位貴族の第二子以降はデビュタントボールに出席しないこともあるわ」
またしても自分の思っていたものとは違う貴族社会の仕組みにゲオルグは必死にメモを取る。なお、他国では社交界デビュー=成人とする国も多いというから、ゲオルグの認識が完全な間違いというわけでもない。
「ああ、そういえば、男爵家の庶子のヒロインが学院入学前に引き取られて貴族になるという設定も多いわね」
確かに多い。生まれながらの貴族ではなく、生まれと育ちが平民のヒロイン。それが平民読者の共感を呼び、夢を持たせるのだ。
「でもね、入学直前に引き取られても貴族とは認められないわ。遅くともデビュタントボールの1年前に招待状が届くまでには男爵家の籍に入っていなくてはならないわね。つまり、学院に入る2年前まで」
人気のベタな設定が一つ崩れかけたかと思われたが、逆に現実に即した説得力のあるものに出来るとゲオルグはペンを走らせる。
「社交界デビューして学院を卒業するまでの間はまだ未成年。でも、社交界には出る。つまり、実践訓練の期間なの。未成年だから問題が起きれば保護者が対応可能だわ。両親や兄姉の保護を受けつつ、自力で社交を熟す訓練をするために、成人前に社交界デビューするのよ」
アレクシアの言葉を必死でメモする。成程、見習い期間のようなものか。己で考え行動し、それを保護者が見守り、失敗し学ぶ。最終的には保護者が対応可能なため、言葉は悪いが安心して失敗も出来るし、社会は未成年だからと大目に見る。余程のことがない限り致命的な失敗は避けられる。
「学院生活は社交界の練習期間でもあるわ。夜会にも参加する。貴族同士の交流も続く。だから、卒業直後に改めて舞踏会を開くことはないの。卒業後の舞踏会はデビュタントボールの意味合いがあるから」
アレクシアは本題に戻る。
「成程……」
ゲオルグは慌てて書き留める。卒業舞踏会。その存在自体がこの国においては創作だったのだ。
「それに、学院が主催する舞踏会なんて危険でしょう?」
アレクシアは続ける。
「危険ですか……?」
「ええ、卒業して皆羽目を外すわよ。未来の国王や王妃、領主、宰相、大臣や外交官。そんな者たちを一堂に集めて酒宴を開くの。しかも、学院最後の日。羽目を外さないわけないわよね」
確かに言われてみればそうかもしれない。
「失敗したら、誰の責任?」
「学院長、ですかね」
「事件が起きたら、だれが責任を取るの?」
「やっぱり学院長でしょう」
「酔って喧嘩したら?」
「自己責任……と学院長ですかね」
アレクシアは肩を竦める。
「そんな責任、誰も負いたくはないでしょう?」
ゲオルグは苦笑するしかない。平民の学校とは責任の重さが違う。未来の国家中枢を預かる学校なのだ。派手な催しよりも安全第一になるのは当然だった。
「では……」
ゲオルグは恐る恐る本題へ入る。
「仮に招待された夜会で婚約破棄を叫んだら?」
アレクシアは少しだけ考え、「叫んだ瞬間に終わるわ。色んな意味で」と答えた。
「終わる?」
「ええ。主催者の私兵が連行するの」
「……王太子でも?」
「勿論」
ゲオルグは絶句した。
「扱いは丁重でしょうけれどね。それでも止める。何故なら」
アレクシアの目が真剣なものになる。
「招待されたということは、他家の夜会ね。そして夜会には主催者がいるもの」
ゲオルグは首を傾げた。
「つまり?」
「婚約破棄宣言に限らず、誰かが騒ぎを起こすということは、主催者の顔に泥を塗るということよ。社交界ではそれだけで十分な失礼なの。下手に対立派閥の夜会で仕出かせば、それは宣戦布告と同義になってしまうわ。だから、まずは拘束。それから保護、別室へ連行して、話し合い」
余りにも流れるような手順だった。
「王太子でも同じ?」
「王太子でも同じ。王位継承者だから扱いは丁重でしょうけれど、王家はうちに何か含むことでもおありで?と視線はずっと冷たいわね」
アレクシアは迷いなく断言した。
「茶会も夜会も必ず主催する貴族がいるの。その社交の場を壊すことは許されない」
ゲオルグはふと思いつく。
「ですが……もし王家主催の夜会なら?」
「その場合は……考えたくもないわ。王家主催なら、外交使節がいることが多いもの。国の恥を晒すようなものね。即刻国王陛下が事態を収拾なさるでしょうね。父としてよりも、国王として」
言われてみればその通りだった。小説では誰も止めない。教師も護衛も、親も。ただ、断罪劇が最後まで続く。だが、現実は一言叫んだ時点で終わる。いや、叫ぼうとした時点でか。
「茶番を企てた者が回収されたら、次は親が呼ばれるわ」
「親……」
「ええ。貴族令嬢令息なら当然両親。王家だと流石に国王夫妻は無理だから、宰相か侍従長か。或いは全員で王城へ出向くか。取り敢えず、関係者とその保護者が勢揃いするわね。それから始まるのは?」
ゲオルグは恐る恐る答える。
「……説教?」
アレクシアは首を横に振った。
「違うわ」
そしてにっこりと笑った。
「『何故、うちの夜会で騒ぎを起こそうとしたのですかな?』」
その声音は穏やかだった。だが、ゲオルグは思わず背筋を伸ばす。
「要するに、『うちに喧嘩売ってるのか!』という確認と、損害賠償請求」
アレクシアは笑顔のまま締め括る。
その瞬間、ゲオルグは漸く理解した。婚約破棄騒動は当事者だけの問題ではない。夜会の主催者の面子を潰す行為なのだ。だから、始まる前に終わる。社交界とはそれほどまでに『場』を重んじる世界なのである。
ゲオルグは思わず額を押さえた。婚約破棄が始まる前に終わる。そんな発想はこれまで一度もしたことがなかった。王太子が婚約破棄を叫べば悪役令嬢の断罪が終わるまで邪魔は入らない。平民向けの恋愛小説を書いている作家もそれが当然のものとして描いていた。
だが、アレクシアの説明を聞けば聞くほど、如何に非現実的な滑稽な茶番なのかが解る。
「つまり……」
ゲオルグは恐る恐る尋ねた。
「夜会で婚約破棄が成功することは?」
「まずないわね」
アレクシアは即答した。
「主催者が止める。護衛が止める。親族が止める。側近が止める。誰か一人でも真面な人がいれば、その場で終わるわ」
それだけ多くの人間が止めに入るならば、確かに断罪劇など成立しようがない。
「では……」
ゲオルグは次の可能性を探る。
「どうしても公衆のいる中での婚約破棄断罪の場面を描きたいなら?」
アレクシアは少しだけ考え込んだ。
「学院内、でしょうね」
「学院ですか」
「ええ。但し」
人差し指を立てる。
「行事では駄目」
「え?」
「教師たち職員、つまり大人がいるもの。卒業式、入学式、式典、催し。全部止められるわ」
ゲオルグは納得する。確かに教師が何もしないのも不自然だ。
「だから、教室、食堂、カフェテリア、図書室、実際の学院にはないけれど中庭の四阿。そういう、大人が常に監視しているわけではない場所。そこならば、少しは有り得るかもしれないわ」
『少しは』 その言葉が妙に印象に残る。飽くまで『完全に有り得ない』ではなく『現実味が増す』という程度なのだ。
「でも」
アレクシアは資料を軽く叩いた。
「ここに書かれている断罪理由は使えないわね」
「……苛めですか」
「ええ。前回お話ししたでしょう?」
ゲオルグは苦笑した。確かにそうだった。私物を隠す、池へ落とす、ドレスを破る。そんな行為自体が高位貴族では有り得ない。
「証拠もないでしょうし」
「証言なら?」
ゲオルグが食い下がる。
「王太子の味方が証言すれば」
アレクシアは静かに首を振った。
「まず、その王太子に味方が残っているかしら」
「……」
「王太子が男爵令嬢を堂々と側に置いている。婚約者を軽んじている。それだけで、高位貴族は見限るわ」
ゲオルグは驚いて顔を上げる。
「そこまでですか」
「ええ」
アレクシアの表情は真剣だった。
「高位貴族は恋愛より政治を見るの」
「つまり?」
「『この王太子は駄目だ』と思う。婚約者を蔑ろにする。公私の区別がつかない。感情で契約を壊そうとしている。そんな人物が国王になれば……」
そこで言葉を止める。だが、その先は説明されなくても解った。国が乱れる。だから見限るのだ。
「では、側近たちは?」
ゲオルグが尋ねる。物語では王太子の側近たちが『そうだそうだ!』と婚約破棄に加勢することが多い。
アレクシアは呆れたように笑った。
「加勢?」
「ええ」
「普通は計画段階で止めるでしょう」
「止めても聞かなかったら?」
「家に報告するでしょうね。そして家から婚約者の家と王家への報告が行くわ」
「それでも止まらなかったら?」
「側近を辞める」
「え?
「当然でしょう?」
アレクシアはゲオルグの反応に不思議そうな顔をした。
「側近とは主人を諫める役目でもあるの。暴走を止められない、止めようともしない。それは側近失格でしょう」
ゲオルグは何度も頷く。確かにその通りだった。忠臣とは、主人に迎合するものではない。誤りを正す者だ。
「まぁ、真面な側近なら王太子が不貞しようとした段階で止めるし、報告して未然に防ぐけれど」
「ですよね……。それでも王太子が強引に始めたら?」
「静観するわ」
「静観?」
「ええ」
アレクシアは穏やかに説明する。
「真面な側近なら、そこまでの段階で打てるだけの手は打ってるわ。それでも王太子が強行するなら、もう打つ手はなし。見放すでしょうね。そして、周囲の貴族令息令嬢はそんな彼らを見て、考えるの。どちらに付くべきか。王太子か、婚約者令嬢か。そしてほぼ全員が婚約者側を選ぶでしょう」
「どうして?」
「勝ち目がないもの」
その一言が意外だった。王族と貴族。有利なのは王族ではないのか。
「側近たちが止めずに静観している。婚約者は冷静に対応している。側近も婚約者も実家は高位貴族。婚約者の親族も高位貴族。婚約者の実家は派閥のトップか重鎮。一方、王太子は? 何の後ろ盾もない男爵令嬢に夢中になって、周囲を敵に回している」
「……」
「勝つと思う?」
ゲオルグは即座に首を横へ振った。
「思いません」
「でしょう?」
アレクシアは微笑む。
「だから味方はしない。少なくともその場で王太子側に立つ令嬢令息はいないわ」
部屋が静かになる。ゲオルグは改めて、これまで読んできた恋愛小説を思い返した。断罪劇、拍手喝采、観客全員が王太子の味方、婚約者だけが悪者。今ではそれが酷く不自然に思える。
「ふふ」
アレクシアが小さく笑った。
「顔色が悪いわよ」
ゲオルグは乾いた笑みを浮かべる。
「シビアですね」
「そう?」
アレクシアは首を傾げた。
「これが普通よ。わたくしたちは社交界に出る前から、こういう判断が出来るように教育されるもの。誰に就くべきか。どちらが家の利益になるか。何が国益か。それを考える癖がついているの」
その言葉を聞き、ゲオルグは漸く理解した。平民向けの恋愛小説は、恋愛を中心に世界が回っている。だが、貴族社会は違う。恋愛はなくてもよいもので、中心に据えるのは家であり、派閥であり、国家だ。全ては契約によって成り立つ。だからこそ、『婚約破棄茶番』は夢物語としては面白くても、貴族社会では成立し得ないのだ。
ゲオルグは新しいページに、大きく1行だけ書き記した。『恋ではなく、家と国家が動く世界を基盤に据える』 その一文を見たアレクシアは小さく満足そうに微笑んだ。
「漸く貴族向け恋愛小説の入り口に立てたようね、ゲオルグ」
その言葉に、ゲオルグは深く頭を下げた。自分はまだ入り口にも立っていなかった。しかし今、その扉が少しだけ開いた気がしたのである。




