設定駄目出し①:ヒロインの出自
菫苑出版の社長兼編集者であるゲオルグ・ダウムは、生まれてこの方これほど胃が痛くなった日はないと思っていた。まだ朝も早い時間だというのに目は冴え渡り、何度も鏡の前に立っては襟元を直し、髪を撫でつける。新品の上着に皺はないか、爪は伸びていないか。昨日だけでも10回は確認したというのに、家を出る直前になってまた気になり始める。
──相手は公爵令嬢だ。それもただの公爵令嬢ではない。王家に次ぐ筆頭公爵家の令嬢にして、第一王子の婚約者。将来、王妃となる可能性が最も高い女性。
そんな人物が自分たちの出版する恋愛小説を読んで助言してくださるという。普通なら夢物語だ。いや、夢でもこんな話は信じられない。
出版社を始めて数年。社員は自分と事務員の2人だけ。王都の片隅で平民向け恋愛小説を細々と作ってきた零細出版社が、どうして未来の王妃候補と仕事をすることになるのか。人生とは本当に何が起こるか判らない。
尤も、その縁を結んでくれたのは従妹だった。下級メイドとして公爵家に勤める従妹が、侍女を務める遠縁の伯爵令嬢スザナへ話を繋ぎ、そのスザナが『お嬢様も興味を示されています』と言ったときには、嬉しいよりも先に血の気が引いた。
その夜は眠れなかった。嬉しさではない。失礼があればどうなるのかと考え始めると、目を閉じても悪い想像ばかり浮かんできたからだ。
勿論、公爵家が理不尽に平民を罰するような家ではないことくらいは知っている。領民を大事にしているというし、令嬢は孤児院や病院などの慰問も積極的に行っている。だが、『だから安心だ』と思えるほど、ゲオルグは貴族という存在を理解してはいなかった。無知は罪だ。相手が王侯貴族なら猶更である。
だからこそ、今日という日に備え、作者から預かった設定資料とプロットは何度も読み返した。
この物語は面白い。下位貴族の少女が王太子と恋に落ち、悪役令嬢を乗り越えて結ばれる。きっと平民の読者は喜ぶ。だが、それは平民だからだ。貴族が読めばどう思うのか。
それを知るために、今日ここへ来たのである。
ザスキア公爵家の王都別邸は、屋敷というよりは宮殿としか思えなかった。『別邸』でこれなら、領地にある本邸はどれほどの規模になるだろうと予想もつかなかった。
門をくぐった瞬間から、手入れの行き届いた前庭が視界一杯に広がる。噴水、花壇、左右対称に植えられた並木。どれ一つとして乱れがない。公爵令嬢が手配してくれた馬車で馬車用通路を進み、車寄せで馬車を下りる。従妹によるとこの馬車は使用人が使うものらしいが、普段使う辻馬車の何倍も立派で何十倍も乗り心地が良かった。普通に公爵家が使う来客を出迎えるための馬車では気後れするだろうと、使用人用を手配してくれたらしい。もし馬車がなければ正門から玄関まで数十分は歩かねばならなかっただろうから、非常に助かった。
玄関で丁重に出迎えられた。出迎えてくれたのはスザナだ。他の使用人では緊張するだろうからとこれも公爵令嬢の配慮らしい。屋敷の中に入れば、緊張のあまり案内してくれるスザナの歩調に合わせるので精一杯で、初めて見る貴族の大邸宅の内装を楽しむ余裕などなかった。応接室へ通されると、更に緊張は増した。広い。とにかく広い。自宅兼仕事場がそのまま入ってしまいそうな部屋である。
床には厚い絨毯が敷かれ、磨き抜かれた家具には細かな彫刻が施されていた。壁に飾られた絵画一枚だけでも、自分の会社が1年で稼ぐ利益よりも高いのではないか。そんな考えが頭を過る。これも後に知ることだが、この応接室は平民の商人や職人と打ち合わせをする際に使う応接室らしく、尤も質素な部屋らしい。あれで質素とはとゲオルグは失神しかけた。
案内役のスザナがソファを勧めた。しかしゲオルグは立ち尽くしたままだった。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ……その……」
このソファに座るのか? 本当に? 万が一、服が汚れていたら。緊張で飲み物を零したら。考えれば考えるほど腰が引ける。
「大丈夫です。お座りください。先ほどの馬車の座席と変わりませんよ」
柔らかな口調ではあったが、有無を言わせぬ響きもある。スザナに二度三度と促され、漸く恐る恐る腰を下ろした。浅く、本当に浅く。背もたれによりかかるなど論外である。気を抜けば立ち上がってしまいそうなほど、落ち着かなかった。
そうこうしているうちに扉が開いた。思わず立ち上がる。入室してきた女性を見た瞬間、思考が止まった。美しい。その一言では足りない。華やかでありながら気品があり、見る者を圧倒する存在感を纏っている。だが、威圧感はない。自然と頭を垂れたくなるような、不思議な空気だけがあった。
この人が、ザスキア公爵令嬢アレクシア・ベアトリクス・ノイチュ様。未来の王妃候補。ゲオルグは己よりも10歳以上若い、まだ王立学修院に通う少女に完全に呑まれていた。それでも何とか自分を立て直し、最敬礼を取った。粗相だけはするな。頭の中はその言葉だけでい杯だった。
「ザスキア公爵家の長女アレクシア・ベアトリクス・ノイチュよ。よろしくね」
まさにゲオルグが想像する貴族のご令嬢という微笑みでアレクシアは名乗る。緊張するゲオルグにスザナが目配せし、名乗りを促す。
「きっ菫苑出版のゲオルグ・ダウクと申しますです。ほ、本日はお時間を頂戴いたしまして、恐悦至極に存じますでございます、ノイチュ公爵令嬢様」
緊張のあまりに言葉遣いがおかしくなっていた。背筋が伸び、がちがちに固まってしまっている。そんな平民の様子に慣れているのだろう、アレクシアは微笑んだ。
「これから先、何度か打ち合わせることになるでしょうから、わたくしの名を呼ぶことを許します。わたくしも貴方をゲオルグと呼ぶわ。この打ち合わせに限り、仰々しい敬語は不要よ。貴方が普段ちょっと年上の取引先の相手に使うくらいの言葉遣いでよろしくてよ」
ゲオルグは目を丸くした。名前を呼ぶ。それは平民には到底許されない栄誉だ。いや、本来なら家族や婚約者くらいにしか許されないはずではなかったか。そんなことまで許してしまっていいのだろうか。
困惑するゲオルグを見て、アレクシアは微笑んだ。その笑みには何の気負いも侮りもない。恐らく、この方にとっては仕事を円滑位進めるための合理的な判断なのだろう。
成程、とゲオルグは思う。身分が高い人ほど形式ばかり重んじるのかと思っていた。しかし、この令嬢は違う。必要な礼節は守る。だが、不要な堅苦しさは切り捨てる。だからこそ、多くの者に支持されるのかもしれない。
幾分背筋の強張りが取れたところで、ゲオルグは鞄の中から書類の束を取り出し、テーブルの上に置く。作者から預かった設定資料とプロットだ。
「拝見するわ」
対面に座るアレクシアは机の上に置かれた小冊子ともいえるそれに手を伸ばし、視線を落とす。部屋には紙を捲る音だけが響く。1枚、また1枚。
ゲオルグにはその数分が何時間にも感じられた。内容に呆れているのではないか。嗤われているのではないか。貴族から見れば幼稚で稚拙な設定ばかりなのではないか。作者へどう伝えればいい。そんな不安が次々と胸を占める。
やがて最後の1枚を読み終えたアレクシアは、静かに資料を閉じた。
「設定とプロット、読ませていただいたわ。プロットからすると物語は面白そうね。でも、いくつか貴族としては違和感を覚える箇所があったの。これから色々と質問させていただいてもよろしいかしら」
その言葉で、ゲオルグは背筋を伸ばした。愈々始まる。平民の想像と貴族の現実との答え合わせが。
喉が酷く乾いていることに気付いた。だが、テーブルに置かれた繊細で華奢なティーカップへ手を伸ばす勇気はない。震えた手で高価そうな器を割りでもしたら、生涯かけても弁済不可能な失態になるかもしれない。そんなゲオルグを見て、アレクシアはスザナへ視線を流す。それを受けてスザナは頷くと、側に控える給仕係のメイドに小さく耳打ちする。暫くして素朴な木製のカップが運ばれてくる。使用人たちが普段使うものだ。
その心遣いにゲオルグは胸が熱くなった。自分の様子から無言で公爵令嬢が指示を出し、それを過たず侍女がメイドに伝えた。まさに阿吽の呼吸であり、平民の客人に対しての過不足ない配慮だった。令嬢と使用人たちに感謝しつつ、木の香りがわずかに残る水を一口飲み、漸くゲオルグは人心地がついた。
「まずはヒロインについてね。ヒロインは男爵令嬢。つまり、貴族社会において最下層の者。そんな男爵令嬢が何故王太子殿下と出会えるのかしら」
予想していた。いや、覚悟していたというべきだろう。この設定は平民向け恋愛小説ではごく当たり前の導入だった。だからこそ、最初に問われるだろうとも思っていた。
だが、彼は理解していなかった。貴族社会において、男爵令嬢という立場が如何に弱いものであるか。平民の価値観でいえば、大商会の会頭の子と下請けの工場の下働きの子ほどの立場の違いがあるのだ。
だから、彼は小さく唾を飲みこみ、用意してきた答えを口にする。
「登場人物が通う学院では、学院内での身分の差はなく、平等だからです」
口にした瞬間、ゲオルグは自分でも心許ない説明だと思った。
作者から預かった設定にはそう書かれている。平民向けの恋愛小説では珍しくもない一文だ。『学院内では身分の差はない』。その一言で、王太子と平民娘も、公爵令嬢と男爵令嬢も、同じ教室で机を並べ、友情を育み、恋をする。
平民の読者は誰も疑問に思わない。寧ろ、『そういうものだ』と受け入れる。
だが、その物語の舞台となる貴族社会を実際に生きる人間が聞けば、どう映るのか。その答えが、今まさに返ってこようとしていた。
「如何なる理由で平等なのかしら」
静かな問いだった。責める口調ではない。だからこそ、誤魔化しは通じない。
「学問の前に身分は関係ないという学院の理念です」
ゲオルグはそう答えながらも、自分の胸の内で苦笑していた。平民の学校ではよく聞く言葉だ。但し、『身分』ではなく『貧富』だが。勉学の前では誰もが平等。身分も財産も関係ない。そうした理想は、多くの恋愛小説でも当然の前提となっていた。それが間違っているとは、今迄考えたこともなかった。
「……同じクラスになるのは?」
「平等ですから、身分に関係なくクラス分けされます」
応え終えたところで、アレクシアは小さく息を吐いた。呆れたというより、何処か納得したような表情だった。
「物語の展開のため、作者の貴族知識不足のため、そういった平等が謳われるのね。けれど、貴族向けに出版するのであれば、その設定は受け入れられない読者が多数でしょうね。受け入れられなければ、彼女たちはそこで読むことを止めるわ」
その言葉に、ゲオルグは思わず背筋を伸ばした。やはり駄目だった。だが、不思議と落胆はなかった。アレクシアは『貴族知識の不足』と言った。今回のこの面会の目的はその貴族知識を補うためでもある。『何処がどう駄目なのか』を教えてもらえることへの期待が勝っていた。
「学ぶ姿勢に身分の差はない、これは良いでしょう。身分によって忖度することも蔑むこともしない。純粋に実力で測る。ただね、ゲオルグ。高位貴族は学院入学前に学院で学ぶ程度の内容は既に学び終えています。高位貴族は本来授業を受ける必要はないの」
ゲオルグは思わず目を瞬いた。学院へ通う前に学院の履修内容は終わっている。そんな発想はなかった。平民にとって学校とは『知らないことを学ぶ場所』だ。だから、全員が同じ教室で学ぶことに疑問は抱かない。
しかし、高位貴族は違う。家庭教師が何人もつき、幼いころから教育を受け続けるのだと聞いたことはあった。だが、それほどまでに差があるとは思っていなかった。
アレクシアは穏やかな口調のまま続ける。学院とは貴族が一律の教養と礼儀作法と常識を学ぶ場であること。下位貴族には経済的な理由から家庭教育が不十分なことがある。ゆえに一律の貴族としてのそれらを学ぶために義務教育とされている。高位貴族にとっては勉学よりも、将来の家を担う者同士の社交訓練の場であること。派閥の結束を深め、対立派閥との距離感を学ぶ場でもあること。だからこそ、クラスは爵位ごとに分けられること。王族と公爵・侯爵家、伯爵家、子爵家と男爵家。それぞれに身に着けている礼法も常識も違う以上、混在させる意味がないこと。
元々フローリィ王国の貴族は人口の5%にも満たないため、学院で高位クラスの生徒は10人に満たないこともある。時期によっては王族・公爵・侯爵家が不在であることも珍しくない。王族や高位貴族というのはそれほどに稀な存在であること。貴族子女であっても王族はもとより高位貴族と直接の面識を持たぬまま生涯を終える下位貴族は少なくないのだ。
一つ一つの説明がゲオルグには新鮮だった。いや、衝撃と言っていい。自分たちは平民だから知らなかった。そういえば済む話ではある。しかし、それを知らないまま貴族向けの本を出そうとしていたのだ。冷汗が背筋を伝う。
「まぁ、小説内に『様々な階級と接することも社交訓練と考える学院の方針で』などと注釈をつけておけば、貴族の読者も一応納得はするでしょう。高位貴族の子女が寄子の下位貴族子女を侍従や侍女としてともに学院に通うという事例もあるから」
救い船だった。全否定ではない。物語として成立させるための理屈を一緒に考えてくれている。
ゲオルグは慌ててペンを走らせた。注釈。学院の理念。社交訓練。寄子。侍従。侍女。聞きなれない言葉が次々と紙へ並ぶ。これだけでも今日ここへ来た価値があった。
「この男爵家の娘は王都に住んでいるということでよいのかしら」
新たな質問が飛ぶ。
「はい、王都住まいの男爵家です」
答えた瞬間、アレクシアは『そうでしょうね』とでもいうように微笑んだ。その笑みは責めるものではなく『平民ならそう考えるでしょう』という理解を含んでいた。彼女はこれまでの経験とゲオルグの言葉から平民にとって公爵も男爵も領主も法衣貴族も一代貴族も全て『貴族』という一括りの存在だと理解しているのだ。
「であれば、領地を持たない法衣貴族ということになるわ。法衣貴族は同じクラスにはならないの。王族と同じクラスになるのは領地を持つ貴族だけ」
また知らない言葉が出てきた。法衣貴族。ゲオルグは慌てて書き留める。領地を持つ貴族、王都勤めの貴族。同じ男爵でも立場が違う。そんなことすら知らなかった。平民にとって男爵は男爵だ。公爵ほど偉くない。それくらいの認識しかない。
だが、貴族の世界ではその区別が何よりも重要なのだ。
「……小さいながらも地方に領地を持つ男爵家に変更します」
「そのほうが貴族の違和感は減るわね」
あっさりと修正が決まる。作者は驚くだろう。だが、この一言だけでも作品の説得力は格段に増すはずだ。ゲオルグはそう確信した。
書き込まれた修正点を眺めながら、頭の中で次々と新しい疑問が浮かぶ。成程、だから今まで貴族を描いた小説は貴族から読まれなかったのか。平民には充分面白くても、当事者から見れば最初の数ページで違和感だらけだったのだ。その事実を思い知り、編集者として恥ずかしさを覚える。
「王都の屋敷に……えーと、タウンハウスに住まう令嬢ということで」
「あら、随分裕福な男爵家ね。男爵家だと王都にタウンハウスは持たなくてよ。うちの寄子の男爵家や子爵家はタウンハウスがないから、学院に入るときは寄宿舎に入っているわ」
寄宿舎。その一言でゲオルグの頭に稲妻が走った。その手があったか。親元を離れた令嬢。学院生活。寮で暮らす少女。寧ろ物語としてはこちらのほうが自由度は高い。
「では、寄宿舎に」
「ええ。両親は地方にいるほうが干渉できないし、情報の時間差もあるから都合がいいのではなくて? 普通の貴族の親ならば男爵家の娘が王族に気に入られたなんて知ったら、直ぐに領地に連れ戻して閉じ込めるわ」
ゲオルグは筆を止めた。閉じ込める。その発想がなかった。平民向けの恋愛小説では、親は娘の恋を応援するか、身分差を理由に反対するだけだ。
だが、現実の貴族の親は違う。恋愛ではなく家を守る。娘一人の感情より一族全体の存続を優先する。それが貴族なのだ。
アレクシアはそれを当然のこととして話している。脅しでも何でもない。ごく当たり前の日常として。
ゲオルグは静かにペンを置いた。今日だけで、自分は何度『知らなかった』と思っただろう。平民向けの恋愛小説は、平民の夢を描くものだ。それでいい。だが、貴族向けに出版するなら、夢の土台くらいは現実に即していなくてはならない。そうでなければ、物語が始まる前に読者は本を閉じてしまう。編集者として、その当たり前のことを漸く理解したのだった。




