設定駄目出し②:現実的な男爵家
アレクシアとの最初の校閲を終え、ゲオルグが公爵邸を辞したころにはすっかり日が傾いていた。ほんの2、3時間の打ち合わせだったはずだ。しかし、体感では丸1日働き詰めだったような疲労感がある。精神を張り詰め続けたせいだろう。それでも不思議と足取りは軽かった。
頭の中には今日聞いた話が次々と浮かんでは消えていく。──学院は勉強をする場所ではない。高位貴族は入学前に学業を終えている。王族と男爵令嬢が同じ教室にいることはない。
平民である自分にはどれも常識の外側にある話だった。だが、考えてみれば当然なのかもしれない。自分たちだって、本職の職人や商人の仕事を素人が勝手に語れば『違う』と感じるだろう。ならば、貴族が貴族社会について同じ感想を抱くのも当たり前だ。
出版社へ戻るなり、ゲオルグは作者を呼び出した。そして、持ち帰ったメモを広げる。作者は最初こそ『そんな細かいことまで気にするんですか』と苦笑していたが、ゲオルグが公爵令嬢から聞いた話を一つ一つ説明するうち、その表情は真剣なものへ変わっていった。
「つまり……男爵令嬢が王太子と同じ教室にいるだけで、貴族の読者は違和感を覚える、と」
「そういうことらしい」
「それは……全く知りませんでした」
作者もまた平民だ。知らなくて当然なのだろう。だからこそ、この『貴族校閲』は大きな価値がある。平民だけでは決してたどり着けない知識が、そこにはあった。
そして数日後、修正された設定資料を携え、ゲオルグは再びザスキア公爵邸を訪れていた。そういえば、アレクシアの姓はノイチュなのに、何故ザスキア公爵家なのだろう。これも平民が知らない貴族の常識なのだろうか。因みに後から尋ねたところ、爵位名は領地の名であり、姓とは別なのだとアレクシアは笑って疑問に答えてくれた。
大きな屋敷や威厳のある使用人に緊張するものの前回ほどではない。そう自分に言い聞かせる。応接室へ通されても、ソファに腰かけるまでに30分も躊躇しなかった。3分ほどで済んだ。自分では大きな進歩である。
スザナも小さく笑みを浮かべ、『お慣れになりましたね』と声をかけてくれた。いや、慣れたわけではない。胃が痛いことに変わりはない。だた、アレクシアがこちらを見下すような人ではないと知った分だけ、幾分か肩の力が抜けていた。
なお、貴族のスザナに自分への敬語は止めてほしいと頼んだものの、『お嬢様のお客様ですので』と拒否されてしまった。一応高位貴族に分類されるらしい伯爵家の令嬢に敬語を使われる平民って……と思ったものの、幾分砕けた敬語であることに無理やり納得することにした。
やがて、アレクシアが姿を見せる。今日も優雅な所作で席へ着くと、修正された設定資料へと目を通し始めた。紙を捲る音だけが静かな部屋に響く。
ゲオルグは前回同様落ち着かなかった。修正した箇所が逆におかしくなってはいないか。余計なことを書き足して怒られないか。
編集者という仕事柄、人に原稿を読まれることには慣れている。だが、相手が未来の王妃候補ともなれば話は別だった。やがて資料を読み終えたアレクシアは満足そうに頷いた。
「前回お話ししたところは修正されていますね」
その一言だけで、ゲオルグは胸を撫で下ろした。少なくとも落第点ではなかったらしい。しかし、安心したのも束の間だった。
アレクシアは新たなページを開き、さらりと言う。
「では、続きを拝見しましょう」
つまり、ここからが今日の本番である。ゲオルグは自然と背筋を伸ばした。
前回は『男爵令嬢がどうやって王太子と出会うのか』という入口だった。今回はその男爵家そのものが主題らしい。
アレクシアは設定資料をテーブルに戻しながら口を開いた。
「前回、男爵家の両親はヒロインが王太子の寵を受けることを喜ばない理由まではお話ししなかったわね」
「えっ、喜ばないんですか」
ゲオルグは驚いて尋ねる。前回は確かに『領地に連れ帰り閉じ込める』とは言われていたが、喜ばないとまでは聞いていない。作者も自分もそこは疑問に思わなかったところだ。
地方領主とはいえ男爵家の娘が王太子に見初められる。平民からすれば、これ以上ない玉の輿である。家中が万歳して喜ぶ場面しか思い浮かばない。だから、意味が解らなかった。ゲオルグや作者にしてみれば、大店の店員の娘が店主の息子に見初められた程度の意識でしかなかった。
アレクシアは静かに説明を始める。
「まず、普通の親ならば、学生時代のお遊びの相手と思うわね。結婚なんて未来は想像もしないわ。それに、王太子の傍に明らかに恋人として侍るとなれば、婚約者や婚約者候補の生家の怒りを買うもの。地方領主の男爵家なんて数か月で潰れるわ。取引のある商家に圧力をかけて領地の産物を買わないようにしたり、物を売らなかったり。周囲の領地の貴族も忖度して付き合いを切るでしょうね」
ゲオルグは思わず筆を止めた。潰れる。その一言が重かった。平民の世界にも恋人のいる相手との恋愛もある。だが、それが家同士のいざこざへと繋がることは殆どない。飽くまでも当人たちの恋愛上の問題というだけだ。
しかし、貴族の場合は違う。直ぐに家の問題になる。そして、領地そのものが被害を受ける。物流を止められ、人付き合いを断たれ、周囲から孤立させられる。戦争をするまでもない。経済だけで相手を潰せるのだ。これが権力というものなのかと、ゲオルグは初めて実感した。
「ああ……怖いですね。でも、王太子の寵愛があれば貴族なんですし、妃になれるのでは?」
それは編集者としてではなく、一人の平民としての率直な疑問だった。恋愛小説では、愛されれば身分差など乗り越えられる。王太子が『君を妃にする』と宣言すれば、それで物語は大団円だ。ゲオルグも疑ったことはなかった。
しかし、アレクシアはあっさり首を横に振る。
「王族の妃になれるのは伯爵家までと決まっているの。子爵家と男爵家は愛妾よ。娘を愛妾にしたい親がいる? それに愛妾は公費から生活費も服飾費も出ないの。全て実家からの援助よ。まぁ、寵愛が深ければ王太子が私費で養うでしょうけれど」
ゲオルグは絶句した。妃ではなく愛妾。妻ではなく愛人。その違いすら知らなかった。いや、愛妾という存在は知っている。だが、そこにここまで厳格な身分制度があるとは思ってもいなかった。
恋愛小説では『王太子に選ばれる』ことが幸せだった。しかし、この国の貴族社会では違う。正妻になれないのであればそれは家の名誉にもならず、娘の人生を不安定にするだけなのだ。
恋ではなく制度。感情ではなく家。今日もまた、自分の常識が音を立てて崩れていく。
「ふむ……男爵家が裕福な商家を営んでいるという設定ではどうでしょう。王都でも一二を争うような、大商会」
ゲオルグは慌てて代案を口にした。編集者として問題があるなら解決策を考えるのも仕事である。裕福なら王都に屋敷も持てる。生活費を実家が賄えるのであれば、王太子の妃になることも可能ではないか。なんだかんだといって金の力は大きい。
だが、アレクシアは苦笑し否定した。
「それならばタウンハウスを持つことも出来るけれど、妬みが凄いでしょうね。ああ、でも妃にはなれないわよ。血筋の問題なのだから」
金では超えられない壁。それが血筋。平民の商人なら、金さえあれば店は大きくなる。だが、貴族社会では富よりも家格が優先される。これもまた、平民にはない価値観だった。
ゲオルグは修正案の余白に何本もの線を引き、新たな案を考え始める。今度こそ、貴族にも違和感なく読める物語にするために。余白がみるみる文字で埋まっていく。ゲオルグは紙面に走らせる万年筆を止める暇もなかった。
平民向けの恋愛小説であれば『裕福な男爵家』という一文を書き添えるだけで済んでいた設定が、貴族向けとなると一つ修正するたびに新たな疑問が生まれる。まるで糸玉を解いているようだった。一本引けば、その先にまた一本絡まっている。
だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。寧ろ編集者としての好奇心が刺激されていた。物語に説得力を持たせるとは、こういうことなのだろう。
アレクシアは資料へ目を落としたまま、次の設定を指先で示す。
「建国から続く由緒ある男爵家というのは?」
その一文は、作者が苦心して考えた『格式ある男爵家』を表す設定だった。男爵家ではあるが歴史があり、だからこそ王太子の婚約者候補にも選ばれる余地がある──そういう理屈である。ゲオルグ自身も悪くない着想だと思っていた。しかし、アレクシアは少しだけ目を丸くした。
「男爵家でそれはないわ。そもそも独立した領地を持つ男爵家というのが我が国では殆どないのよ。男爵家であれば高位貴族の陪臣である男爵家か、直臣である法衣貴族の男爵家。陪臣男爵家が持つ領地は飽くまでも主家の領地の代官として治めているだけよ」
さらりと言われた内容は、ゲオルグには衝撃だった。設定そのものが有り得ないらしい。平民にとって『由緒ある男爵家』と聞けば、古くから続く名家という程度の認識だった。爵位が低くても歴史は長い。そういう家もあるだろうと。
だが、貴族社会では爵位そのものが家の立場を意味している。だから『歴史だけはある独立した領地持ちの男爵家』という設定自体が不自然になるらしい。
「そういうものですか?」
思わず漏れた問いは、編集者というよりも学生のようだった。
「ええ。現在の我が国に独立した領地を持つ子爵家は3家、男爵家は2家ね。どちらも数代前に降爵しているの。あと2、3代のうちに何処かの高位貴族の代官として組み込まれる予定よ」
どの家もかなりの失態を犯し、侯爵から降爵されている。降爵された家は大体5~6代で領地を他の高位貴族の領地に組み込まれ代官となり、高位貴族の保護を受けることになる。
ゲオルグは全く知らなかった事実にメモにペンを走らせる。自分たちが想定していたのとは真逆だ。独立した領地を持つ子爵家や男爵家は栄誉ある貴族ではなく、失態を犯した阿呆な貴族ということになってしまう。
「陪臣の男爵家が陞爵することはないし、法衣男爵家が陞爵することもほぼないわね。法衣貴族で陞爵するほどの功績をあげることは難しいもの。戦争でも起きなければまず無理ね」
ゲオルグは『陞爵』という文字を大きく書き留める。平民向け小説では、功績を挙げれば爵位が上がる。努力は報われる。それが読者に好まれる筋書きだった。
しかし現実の貴族社会は功績だけで動いてはいない。制度があり、家格があり、立場がある。それらを無視した出世物語は、貴族から見れば絵空事なのだ。そのことを改めて思い知る。
それでも物語というものは『例外』を描くことがある。だから、ゲオルグは最後の望みを口にした。
「男爵がとても有能で宰相になって……とかは?」
痛快な立身出世。平民の読者なら胸を躍らせる展開だ。アレクシアは即座に否定はしなかった。
「国王陛下の任命によって宰相位に就くことは可能ね。でも、数年で潰れるわ。子爵以上の貴族が、最下位の男爵の命令を聞くと思う?」
その瞬間、ゲオルグの頭に一人の人物が浮かんだ。以前取材した大きな商会の番頭である。勤め始めて1年で番頭まで成り上がった実力者だったが、古参に妬まれ従う者もなく、直ぐに潰れてしまった。実力主義の平民の商会でもそういうことがある。貴族社会であればより顕著だろう。
「聞かないですね」
思わず口をついた返事に、アレクシアは小さく頷いた。
「下位の法衣貴族は大抵が補佐官や秘書官よ。命令する立場ではなく、命令を伝えて実務を調節する役目。高給取りの官僚ではあるけれど、命令を下す立場にはしないの。それが彼らの能力を生かすのに最も適した配置だから」
成程とゲオルグは納得した。身分と能力を上手く組み合わせて最も力が発揮できる配置をする。より上位の貴族の自尊心を傷つけず、妬まれることなく、力を発揮させる。ついでに補佐官や秘書官として仕える高位貴族の庇護も得られるということだ。
アレクシアは少し考えるように視線を宙に向けた。
「仮にAという男爵がとても有能で、陞爵の話があったとするでしょう。けれど、大抵はそれを面白く思わない者がいるわ。だから何かと邪魔をする。Aに瑕疵をつけるの。そして、身分で劣る、つまり権力や財力を持たず人脈も乏しい男爵家ではその瑕疵を防げずに陞爵の話はご破算になって、Aは男爵のまま。そういうことが繰り返される。法衣貴族の場合、寄り親を持たないから庇護してくれる家もないわ。宰相や大臣は領地持ちの高位貴族の次男以下だから務まるの。つまり、法衣貴族の男爵家というのは、他人の妨害を排除できない程度の、社交的に無力な家ということになるわ。だから、由緒正しい男爵家イコール歴史しか誇ることのない、時々男爵にしては有能な人物が出ることもある家、ということね」
話が終わるころには、ゲオルグは言葉を失っていた。権力、財力、人脈。それらが複雑に絡み合って貴族社会を形作っている。物語のように『有能だから出世しました』で終わる世界ではない。だからこそ、今迄の恋愛小説は貴族から見ると子供の空想に映っていたのだろう。
ゲオルグは万年筆を置き、深く息を吐いた。今日もまた自分の常識が置き換えられた。いや、『平民の常識』と『貴族の常識』はそもそも土台から違うのだ。
同じ国に住み、同じ言葉を話していても、見ている世界はまるで別ものだった。
「アレクシア様」
自然と口を開いていた。
「今日も大変勉強になりました」
アレクシアは目を細め、柔らかく微笑んだ。
「それは良かったわ。でも、わたくしがお伝えしているのは、飽くまでもフローリィ王国の常識。他国では多少違うところもあるでしょう」
「それでも充分です」
ゲオルグは力強く頷いた。
「少なくとも、平民が勝手に想像した貴族を書くより、ずっと面白い物語になります」
その言葉にアレクシアはゲオルグの覇気を感じ、この校閲を引き受けて良かったと微笑んだ。
「そう思ってくれるのならば、校閲者冥利に尽きるわ」
応接室に穏やかな笑いが広がる。初めてここへ来た日には緊張で水すら真面に飲めなかったゲオルグ。それが今では未来の王妃と物語について語り合っている。何とも不思議な縁である。
帰り際、ゲオルグは胸の内で密かに決意した。この『貴族校閲』は、単なる新作のためだけでは終わらせない。いつか、自分たちの出版社の看板になる。貴族も平民も納得できる物語を作る出版社。
その第一歩が、今まさに始まったのだった。




