設定駄目出し⑩:誓約結婚は悲劇
ゲオルグはここ最近、自分でも驚くほど勉強するようになっていた。これまでは売れている作品を読み、市場の流行を分析し、作家へ助言する。それが編集者としての仕事だった。
しかし今は違う。王国史、貴族制度、爵位、宮廷組織、教会法、礼法、果ては周辺国の歴史書まで読むようになっていた。
それでも──。
(まだ足りない)
アレクシアの一言一言には、自分が何十冊読んでも届かない『貴族として生きている者の実感』が詰まっている。
だから今日も彼は、大量の企画書を抱えてザスキア公爵家を訪れていた。最早校閲というより講義である。
公爵邸から出版社へ戻るたび作家たちからは『で、公爵令嬢様は何と?』と聞かれるようになっていた。最初こそ驚いていた作家たちも、今ではゲオルグの持ち帰る助言を楽しみにしている。
そして何より、修正した作品は以前よりも面白くなっていた。恋愛だけではない。政治があり、家があり、責任がある。人物が立体的になり、物語に厚みが出る。
売り上げも少しずつ伸び始めていた。ゲオルグは密かに手ごたえを感じていた。そんな彼を見て、アレクシアも少しだけ表情を和らげるようになっていた。
今日もいつもの応接室。スザナが淹れた紅茶の香りが部屋に漂う。
「今日は何かしら?」
アレクシアが企画書を受け取る。ゲオルグは少し苦笑した。
「今回は……過去最大のツッコミまくり状態になるかもしれません」
「あら?」
「今、一番売れている題材です」
「まぁ」
アレクシアは興味深そうに読み始めた。暫く静かにページを捲る音だけが響く。やがて。
「ああ」
納得したように頷いた。
「政略結婚は悲劇、というお話ね」
「はい」
ゲオルグも頷く。これまでの校閲でそうではないことは理解している。だが、今回はこのテーマについてもっと掘り下げたかった。
「恋人同士なのに親に引き裂かれる。好きでもない相手と結婚させられる。結婚式で泣き崩れる花嫁。読者には非常に人気があります」
アレクシアは苦笑した。
「でしょうね」
「否定なさらないのですね」
「恋愛小説としては王道だもの」
そう言ってから、彼女は静かに続ける。
「でも、貴族はその前提が違うの」
ゲオルグは万年筆を構える。
「まず」
アレクシアはゆっくりと話し始めた。
「貴族は結婚といえば政略結婚を指すわ」
「恋愛結婚ではなく?」
「ええ。恋愛結婚のほうが珍しい」
「……」
ゲオルグは思わず書く手を止めた。政略結婚が主流とはいえ、半々くらいの割合だと思っていた。だが、アレクシアは違うと言う。
「貴族にとって、恋愛って、必ずしも必要なものではないの。余暇、余剰、趣味、娯楽……適切な言葉が思い浮かばないわね。でも、義務を果たしたうえで、与えられるものなのよ。恋って自身でも制御が難しいでしょう? そんな不確かなものを貴族は選べないし、選ばないの」
確かに自分たちが出版している恋愛小説でもよく使われる設定ではある。恋は突然訪れるもの、自分で制御できないもの。
「東のとある国の古典にあるそうよ。『恋とは我が許へ来いと乞い願うもの』。究極の利己主義で、不確かで、儚くて、強欲で、美しくて、醜いもの。そんなものを貴族家の契約の根幹に置くことは出来ないわ」
美しくて、醜くて、儚くて、切なくて。だから、恋愛小説は好まれる。どうなるか判らない不安感がスパイスになり、読者は心をときめかせ物語に引き込まれる。しかし、そんな不安定なもの、不確かなものは確かに貴族の『契約』には不要なものだ。
「平民なら恋愛結婚が普通でしょう」
「はい」
「でも、貴族は違う。家と家が結び付くための契約。それが結婚。だから、不安定であってはならない」
その言葉はこれまで何度も聞いてきた。しかし今回は更に踏み込む。
「だから、幼いころから教えられるの。結婚相手は恋人ではない。家族になる人、共に家を支える人。恋愛とは別」
ゲオルグは尋ねる。
「では、恋愛を知らないまま結婚する方も?」
「大勢いるわ」
「不安では?」
「何故? 貴族の結婚と恋愛は無関係よ。だから、恋愛経験がなくとも結婚は出来るわ」
ゲオルグは少し考えてから口を開く。
「ですが、好きでもない人と一生を暮らすのは苦しくありませんか?」
アレクシアは少しだけ驚いたように瞬きをした。
「ゲオルグ、平民でも親が決める結婚はあるでしょう?」
「あります。商家、特に老舗なら多いと聞きます」
「つまり、利益を考えて、親が決めた相手と結婚する人は平民にもいる」
「確かに」
「違うのは割合だけよ」
アレクシアは穏やかに説明する。
「平民の結婚は個人の問題だから、恋愛結婚が多い。貴族の結婚は家の事業の一環だから政略結婚が多い。それだけ」
ゲオルグは納得する。確かに商家では取引のため事業のために親が結婚相手を決めることも珍しくない。それは商家に限らず、農家でも職人でもあることだ。つまり全く異質な文化ではない。規模が違うだけなのだ。
「それにね」
アレクシアは微笑む。
「政略結婚だから不幸とは限らない」
「え?」
「恋愛結婚だから幸せとも限らないでしょう?」
その一言にゲオルグは黙る。
「結婚生活は結婚してから築くもの。最初から好きな者同士でも壊れる夫婦はある。最初は他人でも仲の良い夫婦もいる。大切なのはお互いの努力」
その考え方はゲオルグには新鮮だった。平民向け恋愛小説では恋人になれば終わり、結婚すれば大団円。その先は描かれない。だが、現実では結婚とは始まりなのである。
アレクシアは続ける。
「勿論、好きな人と結婚できたら幸せでしょう。でも幸せなのは個人だけ。それだけでは家は続かない。家臣、領民、寄子、分家、使用人、子供。皆の人生を背負う。それが貴族の結婚」
ゲオルグは静かに息を吐く。恋人同士の物語ではない。人生の共同経営者を選ぶ物語。そんな印象を受けた。
アレクシアは少し遠くを見るように微笑んだ。
「わたくしも、ジークヴァルト第一王子殿下とは政略の婚約よ」
その言葉にゲオルグは顔を上げる。
「幼いころから決まっていたもの」
「始まりは、恋愛ではない……。そういえば、確か、悪役令嬢について話していただいたときに、伺いました」
物心つく前に結ばれた婚約。初めは遊び相手として共に過ごした。そして婚約者としてお互いを知り、理解し合い信頼を育み、やがて恋をした。今では将来の国王と王妃という共同統治者であり、恋人同士でもあると。ああ、あのときは護衛に扮した第一王子殿下に嫉妬の籠った視線を向けられたのだったなと思い出して身震いする。
「ええ、だから始まりは政略でも、それで終わらないこともあるの」
その穏やかな言葉と共に、この日の講義は更に貴族の心の内へと踏み込んでいくのだった。
アレクシアはティーカップをソーサーへ戻した。繊細な陶器が微かな音すらも立てないことに、これも貴族の所作かと改めて感心する。
ゲオルグは手元の紙に視線を落とした。ここまでの話だけでも、これまで出版してきた恋愛小説の根底がひっくり返されている。貴族は政略結婚だから、夫婦は愛し合っていない。だから、本来は不貞と謗られるはずのヒロインと恋人が純粋な愛として賛同を得られるのだ。平民向けの恋愛小説では恋愛こそが至上であり正義なのだから。けれど、アレクシアの話には一つの筋が通っている。平民の感覚では冷酷に思えることも、貴族社会では合理的であり、国家を維持するための仕組みなのだ。
「では……」
ゲオルグは恐る恐る口を開く。
「アレクシア様たちのように恋愛感情を抱き相思相愛となるのは幸運な例外で、やはり不幸な結婚というのも多いのでしょうか」
アレクシアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「どうしてそう思うの?」
「いえ、その……恋愛感情のない夫婦も多いんですよね?」
「ええ」
「でしたら、好きでもない相手と一生暮らすのは辛いのでは、と」
「恋愛感情がないイコール嫌い、ではないでしょうに。信頼関係はあるのよ」
きっぱりとアレクシアは断言する。
「恋愛が先にあり、その結果として結婚する。それが貴方たち平民の普通なのでしょう」
「はい」
「わたくしたちは違う。まず、家があり、責任がある。そして結婚する。その後で夫婦になる」
ゲオルグは首を傾げた。
「夫婦になってから、恋愛する?」
「そうね。実際には長い婚約期間を置くから、その間に関係を作るのだけど」
アレクシアは説明する。
「勿論、恋愛感情を抱かないこともあるわ。けれど、信頼関係は構築できているの。そうなるように互いに努力するから。だから、恋愛感情を持てないからといって離婚にはならない。たとえ、恋愛的な意味では嫌いであっても」
「何故ですか?」
「結婚と恋愛は別だからよ。貴族の結婚は契約だもの」
何度も聞いた言葉だった。契約、責任、義務。貴族とはそれで出来ている。
「夫婦は共同経営者なの」
アレクシアは続ける。
「家という組織を経営する共同代表。領地を守り、領民を守り、使用人を守り、子を育てて家名を未来へ残す。そのためのパートナーよ」
「会社みたいですね」
「そうね」
アレクシアは笑った。
「だから、仕事の出来る相手なら尊敬できる。尊敬すれば信頼できる。信頼できれば安心できる。安心できれば情も湧く。情が深くなれば愛情にもなる」
ゲオルグは思わず筆を止めた。
「恋愛から結婚する夫婦もあるでしょう。でも、結婚してから恋愛する夫婦もあるのよ」
「……」
「どちらが幸せかなんて誰にも決められないでしょう?」
その言葉は妙に胸に落ちた。ゲオルグは自分の父母を思い出す。彼らは恋愛結婚ではなかった。父の職場で紹介された見合いで知り合い結婚した。結婚を決める前に恋愛したわけではないという。けれど、仲は良かった。父が病に倒れたとき、母は我が身が磨り減るのではないかというほどに悲しんだ。あれは愛ではなかったのだろうか。違う、あれも立派な愛だった。恋愛だけが愛ではない。
そう考えると、これまで出版してきた小説は、余りにも恋だけを神聖視し過ぎていた。アレクシアはゲオルグの表情を見て、小さく頷いた。
「漸く伝わってきたようね」
「はい……」
「それともう一つ。政略結婚を不幸として描く作品が多いでしょう?」
「ええ」
「でもね、貴族からすると逆なの」
アレクシアは僅かに肩を竦めた。
「逆?」
「恋愛だけで結婚を決めることのほうが、将来の不幸を呼ぶように思えるもの」
「え?」
「恋をして思いが通じ合ったから結婚する。では、その恋が冷めたら?」
ゲオルグは言葉に詰まった。
「恋が冷めても夫婦愛、家族愛が生まれていれば問題ないでしょう。でも、その前に恋が冷めたら? 政略結婚は初めから感情に基かない結婚よ。感情が消えても契約は残っている。責任も義務も残る。だから、家庭は維持される」
「……」
「でも、恋愛だけで結婚したのなら? 気持ちが冷めたら、終わるでしょう」
アレクシアは穏やかに言った。
「感情ほど変わりやすいものはないもの」
ゲオルグは苦笑した。確かにそうだった。嘗ての同僚にも恋愛の末に結婚し1年も経たずに離婚した夫婦もいる。平民の離婚率は低くはないのだ。恋は永遠ではない。それだけを土台に家を築くのは危うい。
「だから政略結婚は家を守るための制度でもあるの。感情ではなく利益と責務を基盤とする契約だから、簡単には壊れない」
アレクシアは締め括るように言った。
「恋愛を否定しているわけではないの。ただ優先順位が違うだけ。家が先、恋は後」
「成程……」
「だから、貴族向け小説で『恋愛したいから婚約破棄します』などと言われても、読者は『は?』となるのよ」
ゲオルグは思わず噴き出した。
「確かに……」
アレクシアは悪戯っぽく笑う。
「だから、ドアマット物によくある、父が政略結婚させられた妻を憎んで、その娘を冷遇するなんてことは有り得ないの。そもそもそんな男は婿入り出来ないわ」
「そういうものですか」
「ええ」
王侯貴族は基本的に長子相続だ。ゆえに女王も女性当主も少なくない。第二子以降には嫁入り・婿入り教育が行われる。当然婿入り先もそれを踏まえて婿を選ぶ。結婚前から愛人のいる男なんて論外だ。
「妻が嫁入り前から愛人を持っているなんて、小説でもないでしょう?」
「確かに、見たことないですね」
「女性に貞節を求める物語は多いのに、男性には求めないのよね。でも現実ではどちらにも求められる」
以前に話を聞いた純潔についての際にも言われていたことだ。
「偶に権力者である妻が強引に恋人のいる男を婿にして恨まれるなんて物語もあるけれど、そんな女性は当主に相応しくないと廃嫡されるわ。あ、男性でも同様よ。家よりも私欲を優先するような者は当主に相応しくないもの」
「成程」
ゲオルグはメモを取り、ドアマットに追記と書き記す。
「結婚を受け入れたのに、その妻を恨んで愛人を作って、庶子を優遇して嫡出子を冷遇する。そうね、編集者として出版社に入ったのに、作家の顔が気に食わないから名作でも出版させませんとでもいう感じかしら」
「そんなヤツ、即解雇ですね」
「でしょう?」
二人は同時に笑った。ここへ来て初めてゲオルグは自然に笑えた。最初は恐怖しかなかった。王太子妃候補、公爵令嬢、雲の上の存在。
しかし、何度も話すうち、この令嬢は決して平民を見下しているわけではないと理解した。知らないことを責めない。知らないから教える。それだけなのだ。だから説明も丁寧だった。だから自分も理解できた。
「……有難うございます」
ゲオルグは深く頭を下げた。
「何が?」
「最初は正直、全部否定されるのではと思っていました」
「否定?」
「ええ」
「違うわ」
アレクシアは首を横に振る。
「物語は自由よ」
「え?」
「物語は現実ではない。夢を見るためのものだもの」
その言葉は意外だった。
「では……」
「でも」
アレクシアは人差し指を1本立てた。
「夢には夢だと明確に示さなければ駄目」
「……」
「現実でも同じだと思わせてはいけない」
「はい」
「貴族社会を描くなら、ちゃんと調べる。そのうえで、現実に即した物語を作るのか、現実とは別の世界を描くのか。そのどちらかね。そして必ず、これは現実ではないと明言する」
ゲオルグは力強く頷いた。
「判りました」
「そうすれば貴族も怒らないわ。怒れば寧ろ怒った貴族が恥をかくだけ」
「はい」
「平民も安心して夢だと割り切って楽しめる」
それが今日一番大切な教えだったのかもしれない。夢は夢、現実は現実。混同してはいけない。
ゲオルグはびっしりと文字で埋まった手帳を見つめる。何冊もの手帳が既に埋まり、作家たちに共有されている。それだけ多くを学んだ。そしてまだ学び足りない。
「今日はここまでにしましょう」
アレクシアが立ち上がる。
「はい、本日も有難うございました」
ゲオルグは深々と礼をした。帰り支度をしながら、彼は密かに決意する。平民向け恋愛小説はこれからも作る。そこに描かれる貴族は貴族から見れば有り得ない姿だろう。平民は貴族に夢を見る。夢を売る仕事だからこそ、夢と現実の境界だけは曖昧にしてはならない。小説と現実を混同させるような作品を作ってはならない。
それが今日、この未来の王妃候補から学んだ、出版社としての矜持なのだった。




