助言と菫苑出版のその後
初めてザスキア公爵邸を訪れてから、凡そ1年。季節は一巡し、王都の街路樹には若葉が芽吹いていた。
ゲオルグは慣れた足取りで公爵邸の応接室へ向かっていた。慣れたとはいえ緊張しないわけではない。
王家に次ぐ筆頭公爵家。未来の王太子妃と目されるアレクシア・ベアトリクス・ノイチュ。初めて会った日は余りの緊張に木製のコップを持つ手が震え、水を零しそうになった。
それが今では門番にも顔を覚えられ、侍女のスザナにも『いらっしゃいませ、ゲオルグ様』と微笑まれる程度には通うようになっていた。尤も、応接室へ入る直前には今でも深呼吸を3回する癖は直らない。因みに貴族令嬢のスザナに『様』という敬称を付けるのをやめてくれるよう何度も頼んだが、『お嬢様のお客様ですので』と結局未だに受け入れてもらえていない。
「失礼いたします」
扉を開けると、いつものようにアレクシアが紅茶を楽しんでいた。
「いらっしゃい、ゲオルグ」
「本日もよろしくお願いいたします」
「ええ」
自然に席に着く。最初のころならソファの端に浅く腰掛けていたが、今では勧められた位置へ素直に座れるようになっていた。勿論、背筋だけはピンと伸びている。尤も、それは緊張のためというよりも、礼儀として姿勢を意識するようになったからだ。講義が進めばどんどん前のめりになり、質問をしメモを取っている。
「随分と慣れたわね」
「これでも最初に比べれば、ですが」
「最初は立ったまま話そうとしていたものね」
「思い出させないでください……」
二人が笑う。これまでの1年で10冊以上の作品が校閲された。設定段階で止められた作品もあれば、無事出版された作品もある。そのたびにゲオルグは新しい貴族社会の常識を知り、作者へ伝え、修正を重ねてきた。
その結果──
「売れ行きはどう?」
アレクシアが尋ねる。ゲオルグの顔が自然と綻んだ。
「好調です」
「そう」
「はい。以前より派手な展開は減りましたが、その分、世界観に説得力があって安心して楽しめると言われるようになりました」
「それは良かったわ」
「特に貴族令嬢のお客様が増えました」
「まぁ」
アレクシアは少し驚いたようだった。
「漸く貴族街の書店から、定期的な注文が入るようになりまして」
「読まれているのね」
「はい」
ゲオルグは胸を張る。貴族向けの恋愛小説なのだから、これまでの平民の居住区域にある書店で取り扱っても意味がない。だから、ゲオルグは貴族街の書店にも営業を掛けた。当初の反応は芳しくなかった。書店側も平民の間での流行は把握している。そのうえで、貴族が楽しめるものではないと感じていたらしい。そこで実際の作品を読んでもらい、ザスキア公爵令嬢アレクシアが『貴族の読み物として違和感がないか』を校閲して下さっているのだと説得し、漸く少部数から置いてもらえることになった。そして、現在は出荷している店舗数も各店舗への出荷数も増えてきている。
「勿論、大ヒットとは言えません。ですが、確実に固定客がついています」
「荒唐無稽な夢ではなく、世界そのものを楽しみつつ夢も見られる作品として認知されたのでしょうね」
「ありがとうございます」
この1年で最も変わったのは作者たちだった。以前は『どうせお貴族様の生活なんて平民には判りっこねぇんだから、面白ければいいんだよ』と言っていた者たちが、『この部分は本当にこれでいいのか?』『高位貴族ならどう考える?』と尋ねるようになった。調べる習慣が出来たのである。
「それで今日は?」
アレクシアが微笑む。
「今日は新作ではありません」」
「まぁ」
「これまで1年、ご指導いただいたお礼を申し上げたく」
ゲオルグは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
出会って1年。アレクシアは18歳になり、学院の卒業まで1年を切った。つまり、婚姻まで1年を切ったことになる。これから婚礼に向けて忙しくなるであろうアレクシアに、これまでのような頻度で校閲を依頼するわけにはいかない。アレクシアも流石に王宮にいらっしゃいとは言わず、妹のアルビーナを後任として紹介してくれた。
深々と頭を下げるゲオルグに、アレクシアは困ったように笑う。
「大袈裟ね」
「いえ」
ゲオルグは首を振った。
「本当に人生が変わりました」
「そんなに?」
「はい」
以前は売れればいいと思っていた。読者が喜べばいいと思っていた。だが、今は違う。夢を描くにも責任がある。現実と夢を線引きして混同させず、誰か──貴族社会を貶めたり傷つける夢では駄目なのだ。
「……貴方は成長したのね」
「アレクシア様のおかげです」
「いいえ」
彼女は静かに首を横に振る。
「学んだのは貴方自身」
その言葉が妙に嬉しかった。ゲオルグは照れ臭そうに笑う。そして、照れを誤魔化すかのように話題を変えた。
「実は今日はもう一つ、ご相談があります」
鞄から1冊の本を取り出す。表紙には美しい王城と王子、そして少女が描かれている。
アレクシアは一目見て苦笑した。表紙の描かれた男女はどことなく自分とその婚約者に似ている。
「また、王子なのね」
「恋愛小説ですから」
「人気なのは判るけど……」
「ですが、今回は少々違います。恋愛ですが、幼馴染の婚約者たちが緩やかに穏やかに信頼関係を築き、横恋慕してきた他国の貴族のせいで恋情に気付き、なんやかんやあって大団円という物語です。横恋慕してきた相手は悪役ではなく好敵手であり、後に友情を築く相手です」
アレクシアはページを捲る。ところどころに描かれている挿絵はやはりどう見ても自分たちをモデルにしているとしか思えない。名前も微妙に似ている。これは余りよろしくない。だが、ゲオルグは敢えてそうしているのだと、最後のページを開いて理解した。だから、特に悪役のない、恋愛小説としては穏やかな関係の話を作ったのかもしれない。
「主人公も王子も、フローリィ王国とは全く関係ない、架空の国家の貴族と王子という設定です」
「ええ、そうでしょうね」
「もう、ご覧いただいたからお解りかと思いますが、わざとお二人に寄せています」
現実と似た人物を描き出すことで、区別をつけさせる。中々の荒業に出たものだとアレクシアは苦笑した。
最後のページには、本文よりも大きな文字ではっきりと記されていた。
『この物語はフローリィ王国とは一切関係のない、架空世界を舞台としております。登場する制度・文化・歴史・政治・風俗は全て創作であり、現実の王侯貴族とは無関係です。恋愛小説としてお楽しみください』
アレクシアは読み終え、静かに本を閉じた。
「これだけでは足りないわね」
「え?」
「もっと書きなさい」
「もっとですか?」
「ええ」
アレクシアの口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「もっと徹底的に」
ゲオルグは思わず身を乗り出した。
「どのようにでしょう?」
「例えば──」
アレクシアは指を折りながら数える。
「表紙の裏、目次の後、本文の最後、あとがき、裏表紙」
「5か所ですか」
「それ以上入れるのは難しいでしょう? だから最大限入れておくこと」
ゲオルグは苦笑した。
「随分と念入りですね」
「当然でしょう」
アレクシアは楽しそうに笑う。
「もし誰かが、『これはジークヴァルト殿下ではないか』と言ってきても──」
彼女は涼しい顔で言った。
「『架空世界の話と明言しております。現実にいらっしゃる方とどれほど似ていようが、一切無関係です』と言い張れるようにしておかないと」
ゲオルグは、その意味を理解した瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。これまで自分たちは『王子』『公爵令嬢』『婚約破棄』といった言葉を軽々しく使ってきた。もし、現実の王族や高位貴族を想起させる内容を書けば、それは単なる創作では済まない。名誉を傷つけられたと受け取られる可能性もある。出版社として、その危険性を軽く見てはならないのだ。
今回付けたあとがきの注意文は飽くまでも読者が現実と混同して愚かな夢を見ないためのものだった。けれど、それが実は自分たちを守るおまじないでもあったのか。
アレクシアはそんなゲオルグの表情を見て、穏やかに微笑んだ。
「だから最後に、一番大切な助言を差し上げるわ」
ゲオルグは居住まいを正し、万年筆を握りしめた。
未来の王妃候補が1年の締め括りとして口にする、その言葉を一言一句漏らすまいと。
応接室に静かな空気が流れる。ゲオルグは万年筆を構えたまま、アレクシアの次の言葉を待っていた。この1年、数えきれないほどの『貴族の常識や考え方』を教えられてきた。学院、婚約、王家、悪役令嬢、婚約破棄、愛人、政略結婚。どれも平民が想像していたものとは全く違っていた。
そして今、最後の助言が語られようとしていた。アレクシアは真っ直ぐにゲオルグを見つめる。
「ゲオルグ」
「はい」
「決して、我が国の王侯貴族をモデルにはしないこと。いいえ、モデルではないと常に断言しておくこと」
その声音には、これまでにはない重みがあった。
「……はい」
「王子と書くことは構わないわ。公爵令嬢を書くことも構わない」
「はい」
「けれど、それを読んだ者が『これはフローリィ王国の第一王子ではないか』『婚約者はザスキア公爵令嬢ではないか』と思わせては駄目」
ゲオルグは思わず息を呑む。
「もし、そのような作品を出版すれば──」
淡々とアレクシアは告げた。
「断罪される悪役令嬢は、わたくしということになる」
静かな一言だった。だが、その重さは計り知れない。
「そうなれば、我が家は出版社と作家に対し、名誉棄損と不敬罪で告訴するでしょう」
ゲオルグの顔から血の気が引いた。今迄『創作だから』という一言で済ませられると思っていた。だが違う。現実の人物を連想させれば、それは創作ではなくなる。
「だから」
アレクシアは優しく微笑む。
「何度でも書きなさい」
「……何度でも」
「ええ。現実の誰かに似た登場人物がいてもいなくても、必ず、何度も、しつこいほどに。どの作品にも欠かさず提示するの。菫苑出版の作品には必ずこの文言が入っていると認識されるほどに」
「……!」
「この物語は現実の如何なる国家とも一切関係ありません」
「はい」
「完全なる架空世界です」
「はい」
「現実には絶対に起こりえません」
「はい」
「夢物語です」
「はい」
「創作です」
「はい」
「それくらい書けば、少なくとも『現実を描いた』とは言い出せなくなる。どれだけ似ていても、現実ではないと何度も提示されているのだから」
ゲオルグは夢中で書き留める。
「それからもう一つ」
「はい」
「下位貴族令嬢を傍若無人な恋愛至上主義者として描く場合も注意が必要よ」
「……え?」
「男爵家や子爵家の令嬢は、自分の立場を理解しているもの」
アレクシアは静かに続ける。
「彼女たちは高位貴族を敵に回せば家が潰れることを知っている」
「はい」
「だから、現実の下位貴族令嬢ほど慎ましく礼儀正しく振舞うわ。決して悪目立ちするような行動はとらない」
「成程……」
「だから、彼女たちが読めば思うでしょうね」
アレクシアはくすりと笑った。
「こんな愚かな令嬢がいるわけないじゃない、と」
二人は笑った。その笑いは、この1年で積み重ねてきた信頼の証でもあった。やがてゲオルグは深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「私は貴族を知りませんでした」
「当然よ」
「でも、知らないことを恥じる必要はないと教えていただきました」
「ええ」
「調べることを覚えました」
アレクシアは満足そうに頷く。
「それが一番大切なの」
「これからも作者たちに伝えていきます」
「お願いするわ」
1年に及ぶ初代貴族校閲が終わろうとしていた。定期的な貴族校閲はこれで終わり、今後は随時アレクシアの妹アルビーナの助言を仰ぐことになる。
応接室を辞そうとしたゲオルグは、扉の前で振り返った。
「最後に一つだけ」
「ええ?」
「1年間で一番印象に残った教えがあります」
「何かしら」
「夢を描くことは自由。しかし、夢と現実を混同させてはいけない」
アレクシアは穏やかに微笑んだ。
「ええ。それが、物書きの責任ですもの」
その後、菫苑出版は、徹底した対策をとった。新刊の帯、表紙裏、目次の後、本文末、あとがき、裏表紙。そこには、少々しつこいほどに同じ注意書きが並ぶようになった。
『この物語はフローリィ王国はじめ近隣諸国とは一切関係のない架空世界を舞台としております。登場する人物・制度・歴史・文化・政治・風俗は全て創作です。実在する王侯貴族・団体・国家との関係は一切ありません。現実には起こりえない夢物語としてお楽しみください』
読者は最初こそ首を傾げた。
「ここまで書く必要があるの?」
そう笑う者もいた。だが、出版社は頑として掲載を続けた。やがて、その注意書きは逆の意味を持ち始める。
貴族社会の内幕を知る令嬢や夫人たちが、その文言を『免罪符』として利用し始めたのである。
夫の浮気に苦しむ伯爵夫人。長年白い結婚を強いられてきた侯爵夫人。義母や親族に虐げられていながらも耐えてきた子爵令嬢。彼女たちは筆名を用い、登場人物の名前だけを変えて原稿を持ち込んだ。知る者からすれば『あの家』だと判る。
ゲオルグはそれらの出版には慎重だった。菫苑出版は娯楽小説の出版社であり、ゴシップを取り扱う出版社ではない。なので、そのままでは出版できない。いくら注意書きがあったとしても露骨なものはトラブルの元。その場合矢面に立たされ責任を負わされるのは出版社だ。面白くてもリスクが高すぎる。
ゆえに徹底的に改稿して、読者がどの家かは断定できない程度に特色を薄めた。夫人や令嬢たちは告発するつもりで書いた物語を否定され不満だったようだが、ゲオルグが人脈を辿り、役人や教会、弁護士など現実世界での状況改善の手段を提示したことで納得してくれた。また、これまでの苦悩を書き出し、断罪劇を描くことで当人たちの間でもある程度の昇華は出来たことも大きかった。
夢は夢、現実とは明確に一線を画さなければならない。アレクシアの教えは、予想もしない問題でも役に立った。
「まさか、こんなことになるなんてねぇ……」
数年ぶりに面会した王太子妃アレクシアは感慨深げに溜息をついていた。
「今月は例の訴訟が3件ですってね」
「はい。まぁ、注意書きをせず、寧ろ現実と結び付けて煽って宣伝していたような会社ですから。敗訴するでしょうね」
アレクシアの危惧した通り、現実の王侯貴族を思わせる恋愛小説を売り出した出版社が、名誉棄損と不敬罪で相次いで訴えられた。『これは創作です』と小さな文字で1行だけ書かれた本は、裁判では創作とは認められず、多額の賠償金を命じられている。倒産した出版社は一つではない。
また、平民向け恋愛小説の流行と共に問題になっていた学院内トラブルについても改善された。王立学修院をはじめとする優秀な平民特待生を受け入れていた学校がその制度を見直したのだ。身分差を理解しない一部の生徒が王族や高位貴族に恋愛感情を抱き、様々な問題を引き起こしたためである。それは優秀な人材が潰されてしまうことでもあり、最終的に高等教育は貴族用と平民用に完全に分離され、王家と高位貴族の出資により、平民のための新たな高等教育機関がいくつか設立された。学ぶ機会は守る。だが、互いの社会を私欲で混同させ混乱させる元は断つ。
『菫苑出版以前』『菫苑出版以後』
そういわれるほどに、一人の平民編集者と一人の未来の王妃との1年間の対話は、王国の恋愛小説において革命的なものだったのである。




