15-47 悔恨と和解
床には子供用の玩具が転がり、壁には、稚拙なクレヨンの落書きがされていた。
いつか、どこかで見た。記憶の奥底に残る、幼い日の景色。
窓の外に臨めるのは、終わらない夜の闇に閉ざされた空。
そして眼下に広がる、銀氷の首都ローベリアの、寒々しい夜景の輝きだ。
「……ほとんど記憶なんて残っていないのに、懐かしさを感じる。昔、たしかに、ここにいたんだな」
十数年ぶりに訪れた私室で、イリアは呟いた。
ホコリをかぶった、ベビーベッドを覗き込む。
かつてそこで横たわり、天井を見つめていた。
今の自分と同じように、イリアの様子を覗き込んでくる母親の、優しい笑顔が思い出される。
何もかも過ぎ去り、失われてしまった平穏な日々だ。
その穏やかな記憶に、ここでいつまでも縋っているわけにはいかないだろう。
かつて母親が、自らの身を呈して、父親の魔手からイリアを救ってくれたように。
今度は自分が母親として、これから生まれる子供の未来を守らなければならない。
膨らんだ自らの腹部をさすりながら、気を緩めてはならないのだと内心で言い聞かせ、イリアは表情を険しくした。
「……!」
背後で、部屋の扉を開ける音が聞こえた。
振り返ってみれば、そこに立っていたのは――――”長兄”だ。
「エルガー……?」
金色の長髪に、碧眼。スーツの上からケープコートを羽織った、理知的な雰囲気の青年だ。金のモノクルをかけており、腕輪などの装飾品を身につけている。いかにも貴族らしい出で立ちだ。他と見紛うことなどありえない、美男子だ。
「お前がここにいたのは、まだ年端もいかない子供の頃だ。生活していた記憶など、ほとんど残っていないだろう。望んでいなかったかもしれないが……それでも久しぶりの帰郷だ。ここへ立ち寄るのではないかと、予想していた」
「……意外なことだね。ボクのことなど、兄上方にとっては眼中にない存在だと思っていたよ。汚らわしい妾の女が産み落とした、男児ですらない、忌々しい血のつながり。そうだろう?」
イリアは肩をすくめて、皮肉する。
「父親に命じられたわけでもないのに、わざわざボクへ会いに来る理由なんて皆目、見当もつかないな。しかもクソ親父のお気に入りの魔帝、エルガーがさ」
「これまではそうだった。だがもう、父上はいないだろう。命ぜられなくても、自分の意思でお前に会って問題ないはずだ」
「……?」
怪訝な顔で返す、イリア。
するとエルガーは、これまで見せたことのない苦笑を浮かべ、近くの壁に寄りかかって腕組みをする。
そうして、静かに語り始めた。
「私たち兄弟にとって、父上、ゼウス・フォン・エレンディアの存在は、太陽と同じくらいに絶対だった。それなしでは生きていけない。それなしでは、自分の姿も、自分の立場も、視認できずに見失ってしまう。父上の言うことは真理であり、父上の成すことは正義である。そこに疑念を抱く余地はない。自分の意思や感情など無意味だった。そうであると信じなければ、社会的地位も、生活する家も、財産も、全てを失うことになるのだから」
「何の話を始めているんだ……?」
「聞け。何もかもを持って生まれついた、何も不自由のない生活を送っているエレンディア家の子供たち。世間は私たちを、そう見ているだろう。だが実態は、それと真逆。皮肉なものだな。私たちは、単独では生きていけないほど何も持たず、父上に命ぜられるままに生きる、不自由な存在だった。いったい、私たちが尊重する血のつながりとは、何なのだろうな。それによって死なずにいられるだけで、生かされてはいなかった」
「ハハ。あの冷徹なエルガー・フォン・エレンディアが、まさか自らを憐れんでいるのかい?」
「そうだな。父上が死んで、エレンディア家を今まで支えてきた道理は、消えてなくなったんだ。それを信奉していた者の1人として、自らを憐れみたくもなる」
「……」
拍子抜けするほど、素直にイリアの皮肉を受け止めている。
そんな見たことのない兄の姿に、イリアは逆に戸惑ってしまう。
「父上は言った。女など、子を孕ませ、次代を生み出すための道具でしかないのだと。ならば、それこそがエレンディア家にとっての道理。家族の中で唯一、女として生まれついたお前を、私を含めた兄弟は、人間ではなく道具として扱わなければならなかった。父上が、まだ幼いお前を、慰み者にしていた時だって、黙って見過ごしてきた。反吐が出るような思いであっても、それが処世術だったのだから。私は最後まで、父上に逆らうことはできなかった。お前に望まぬ政略結婚を強いて、お前の人生を踏みにじりながら、自分の人生を優先させていた。高貴なる貴族が、聞いて呆れる醜態とは思わないか」
エルガーは、正面からイリアを見据えて断言した。
「子供の頃から。お前だけがずっと、正しかったよ」
「……」
「父上の押しつける不条理に逆らい、情けない兄たちにも反発し、金も地位も、住む家さえ奪われ、白石塔の内世界へ追放された。それでも心が折れることはなく、たった1人であっても、自分の力だけで生きていく覚悟を持っていた。……私たち兄弟にはなかった、途方もない勇気だ。お前のような女が道具にすぎないのなら、男である私たちは、それ以下だろう」
エルガーは再び、苦笑して見せる。
「思えば……我々、兄弟は皆、エレンディアの血筋とは、こうあるべきだと押しつけられた価値観に縛られ続けていた。自らの思考を捨てて、父上に望まれるように生きてきた。生まれてから死ぬまでの間、ずっとエルガ-・フォン・エレンディアを演じ続ける、実にくだらない人生になるところだった。帝国にも、企業国王にも屈せず、自らの生き方を、自らで決めている。お前や、雨宮ケイたちのような存在を、どこかでうらやましいと思っていた。今になって、そう気付かされている」
「……らしくないぞ、エルガー。話が長い。いったい、何が言いたいんだい?」
「今まで――――すまなかった」
「……!?」
本当に、兄の口から出たとは信じられない言葉。
あまりにも驚いたイリアは、唖然とした表情で、思わず後じさってしまう。
許されるとは思っていない。
口には出さずとも、そう思っているのだろう。
エルガーは背を向け、イリアの私室を出て行こうとする。
「……ガラにもなく、お喋りがすぎた。伝えたかったのは、こんな個人的な話じゃない。これから始まる決戦。エレンディア騎士団の副指揮官として、イリアクラウスを任命するつもりでいる」
「……は?」
「私は長兄として。エレンディア騎士団の団長として。設計者たちと一戦を交えるために、最前線へ出る。……戦いの後、指揮が継続できる状態であるかは、わからない。代わりを務める者を用意しておく必要がある」
「ど、どうしてそれが、ボクになるんだよ?!」
「お前になら”託せる”と思ったからだ」
「……!」
エルガーは背を向けたまま、いつもの冷徹な口調で応える。
それ以上は何も言わず、静かに部屋を後にして去った。
1人残されたイリアは、半ば呆然とした気持ちだった。
だがやがて、拳を固めて俯き、歯噛みした。
「いつだって、勝手なヤツだよ、エルガー! 今さら謝られたって、何の意味がある……!」
そして静かに、涙が流れた。
「なのにどうして……ボクは……!」
積年の憎しみは、決して晴れていない。
母親と共に追放され、蔑ろにされ、人生をメチャクチャにされてきた。
エレンディア家の呪いの血筋を、燃やし尽くしたいと思ったことだってある。
怒りと絶望で、眠れなかった夜だってある。
それでも心は、謝罪を受けて救われた気持ちを得ていた。
今は、兄に対してどう向き合えば良いのか、わからなくなっている。
「どうしてボクは……許したいだなんて、思っているんだ……!」
気持ちが、メチャクチャになっていた。




