第二章 学院を取り巻く事情➂
第二章 学院を取り巻く事情③
俺は二度と変な店に近づかないように気を付けながら歩を進める。
朝という時間帯のせいか、開いている店もほとんどなかったので、もう客引きに捕まることもなかった。
そして、辿り着いた三階にはほとんど看板はなく、ネームプレートには普通のギルドのものと思われる名前が記されていた。
ただ、ギルド名もどこかダークなものを感じさせる。普通のギルドにもゼラムナートの息がかかっているのだろうか。
そのまま歩き続けると、悪神の間というネームプレートが貼り出された教室の前までやって来る。
客引きをしていた女の子の言葉が確かなら、この中に悪神ゼラムナートがいるのだろう。
留守でないことを祈りたいけど。
俺は今までで一番、緊張しながら入り口の扉を開ける。
すると、教室の中の床には巨大な魔方陣が描かれていた。ラムセスに見せられた魔方陣よりも更に複雑な模様をしている。
何か大きな存在を呼び出すために作られた魔方陣にも見えたし。
そんな魔方陣の前にはまるで儀式でもしているような銀色の燭台と、祭壇のようなものがあった。
何ともオカルト的な雰囲気を感じさせるな。
ただ、そこには誰もいなかったので、俺は拍子抜けしたように教室の中に入った。
やっぱり、ゼラムナートも常にここにいるわけじゃないか。こんな教室の中でじっとしているほど悪神も暇じゃないだろうし。
そんなことを考えていると、いきなり魔方陣の上で目も眩むような稲妻のような光りが迸る。その光りの鮮烈さには、俺も身震いしたし。
しかも、いきなり教室の中の空気が変質したので、俺の肌も粟立った。
「ようこそ、地上からやって来た冒険者よ。自己紹介は不要だとは思うが、我は悪神ゼラムナートだ」
呆気にとられる俺の前に突如として体長が十メートルを超える漆黒の蛇が現れた。
蛇の背中からはコウモリのような六枚の羽が生えていて、額には二つの目とは別に水晶のような大きな瞳があった。
ただのモンスターとは一線を画す雰囲気が蛇からは発せられている。禍々しさの中にも神々しさがあるというか。
なので、俺も押し寄せてくる凄まじいプレッシャーに膝が笑い出しそうになる。
蛇に睨まれた蛙とは今の俺のことだろう。
「あなたが悪神ゼラムナートですか。俺もあなたのことは色々と聞いていますよ。さっきは、あなたの僕のジャハナッグに助けられましたし」
俺は何とかして平静さを取り戻すと、毅然とした態度で言った。もちろん、ジャハナッグに助けられたというのは皮肉だけど。
でも、よく俺が地上から来た冒険者だと知っていたな。
神は耳も早いのか。
「それは良かった。もう、知っているとは思うが、我はあらゆる形での自由を許している。それは人間たちにとっても悪い話ではあるまい」
ゼラムナートは口の端を吊り上げた。それはまさに悪魔の笑みだった。
「だけど、あなたがやっていることは自由と言うより、ただ学院にいる生徒たちの欲望を掻き立てているだけでは?」
俺は恐れずに疑問を投げかける。
まだ学生の女の子たちに、いやらしそうな商売をすることを許しているなんて、不健全だと思う。
「欲望こそ、人間の本質。欲望があるからこそ、人間は進歩することができるのだ。それを抑圧せんとする一方的な秩序は人間の進歩を妨げるだけだ」
ゼラムナートは淀みなく言った。
「かもしれませんけど」
ゼラムナートの言うことは簡単には否定できない。
「自由と欲望は切っても切り離せぬ関係。であれば、あらゆる形の欲望が、自由に提供される世界こそ素晴らしいとは思わんか?」
ゼラムナートの言葉には抗いがたい誘惑があった。
でも、その言葉を肯定することは勇者を目指す俺にはできそうになかった。
爺さんも俺には自分の欲望をコントロールできる人間にならなければならないと言っていたからな。
欲望との付き合い方は人間なら誰しも考えなければならないことだ。
「それは極端ですよ。そういう世界では人々の安全が損なわれる」
俺はそう切り返す。
秩序なき自由は人間の心を腐敗させるだけだ。そして、その腐敗は犯罪などを生み、人間の安全を脅かしかねない。
「多少の犠牲はやむを得まい。だが、忘れるなよ。人間たちが起こしてきた戦争の多くに、平和だの秩序だのというお題目が掲げられていことを」
みんな大義を掲げて戦争を引き起こす。個人の欲望を満たすためだけの戦争に、多くの人間が参加してくれるはずがないし。
でも、その綺麗事にも等しい大義がみんなの心を惑わしているんだ。
悪い心で人を殺す人間よりも、良い心で人を殺す人間の方が多いのかもしれないな。
「それは…」
俺は言葉に詰まった。
「我とて、お前にすぐに考え方を変えろとは言わん。ただ、我はこの場所で、人間たちの自由を尊重したいだけなのだ。無益な争いは望むところではない」
ゼラムナートは思慮深さを感じさせるような声で言った。
「そうですか」
やっぱり、ゼラムナートは単なる悪い奴ではない。
確固たる信念や価値観を持っているのだ。ただ、それは人間にとって危ういものになる気がするだけで。
綺麗事かもしれないが、大切なのは自由と秩序のバランスだと思う。そして、そのバランスは人間、自らが上手く取らなければならない。
神や悪魔の力を安易に借りて、世界のバランスを取ろうとするのはやはり危ういものがあるだろう。
「だが、行きすぎた秩序を掲げるサンクナートの出方しだいでは争いも起きるかもしれんな。その時はお前も我が陣営に加わってくれることを信じているぞ」
そう言って、悪神ゼラムナートは六枚の羽を大きく広げると、こちらの身が竦むような蛇の顔で笑った。
《第二章③ 終了》




