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第1章:丑三つ時の迷い客 第3話:猫又姉さんの気まぐれ酒場

第3話です!ゆっくりしていってください!

チーン、コーン、カーン……。

午前二時。もうすっかり耳に馴染んだ柱時計の音が、丑三つ時の訪れを告げる。

今夜は誰が来るだろう。からす天狗の疾風のときみたいに、お腹を壊した子が来ても大丈夫なように、仕込みは万全だ。

そう思いながら裏口の引き戸に手をかけようとした、その時だった。

「あら、自分から開けてくれるなんて、気の利く坊やじゃない?」

不意に、すぐ目の前のすりガラス越しに艶っぽい女の声が響いた。

驚いて戸を引くと、そこに立っていたのは、目の覚めるような鮮やかな紅色の着物を着崩した、とびきり美しい大人の女性だった。

切れ上がった大きな瞳が、夜闇の中でらんらんと怪しく輝いている。

「あ、あの……いらっしゃいませ?」

私がまごついていると、彼女は「お邪魔するわね」と、ふわりと上等な伽羅(きゃら)の香りを漂わせながら厨房へ滑り込んできた。

そして、その着物の裾から、ふさふさとした長い尾が二本、意思を持つように優雅に揺れているのが見えた。

「やっぱり猫又……」

「あら、物分かりが良くて助かるわ。私は緋牡丹(ひぼたん)。近所の山でちょっとした身内のまとめ役をやってるの。この間うちの若い衆――からす天狗の疾風(はやて)がお世話になったみたいじゃない?」

緋牡丹はカウンターの椅子に、片膝を立てるような崩した姿勢で、色っぽく腰掛けた。

「疾風のやつ、山に戻ってくるなり『人間のお兄ちゃんのご飯で、お腹の痛いのが一瞬で治ったんだ!』って大はしゃぎでさ。それを聞いたあたしもお腹がすいちゃって。……ねえ、ここはお酒も飲めるのかしら?」

「お酒、ですか? おじいちゃんが遺した日本酒なら、奥の棚にいくつかありますけど……」

「最高じゃない! じゃあ、そのお酒に合う『最高につまめる美味いもの』をちょうだい。今夜はとことん、夜更かしを決め込むつもりだからさ」

緋牡丹はそう言って、悪戯っぽくウィンクした。

お酒に合う、最高のおつまみ。

私は一瞬考え、今日仕込んでおいた大根のことを思い出した。疾風のために仕入れた大根の残りを、昼間のうちにじっくりと出汁で煮込んでおいたのだ。

「ちょうど、良いおでんがあります。少し待っていてくださいね」

私は小鍋におでんの出汁を張り、味がしみしみになった大根、こんにゃく、そして猫の好物である厚揚げとつみれを並べた。それを火にかけ、湯気が立ち上るまで温める。

その間に、もう一品。油揚げを真ん中から開き、中に刻んだネギと特製の甘味噌をたっぷりと詰め込む。それを魚焼きグリルで、表面がキツネ色に、カリカリになるまでじっくりと炙った。

香ばしい味噌とネギの香りが、厨房いっぱいに広がっていく。

「ん〜〜! 良い匂い! 狐の琥珀(こはく)が、人間の『火』の料理に狂う理由が分かったわ……これだけでお酒が飲めそう!」

緋牡丹は目を輝かせ、喉をゴロゴロと鳴らしながら、私がおちょこに注いだ日本酒を美味しそうに煽った。

「はい、お待たせしました。『味がしみ込んだ特製おでん』と、『ネギ味噌の焼き油揚げ』です」

カウンターに並べられた熱々の料理を前に、猫又の姉さんの瞳が、嬉しそうにらんらんと輝き出した。

「それじゃ、遠慮なくいただくわね」

緋牡丹は箸を器用に使うと、まずは味が芯まで染み込んだ大根を小さく割って口に運んだ。

ハフ、ハフ、と熱そうに息を吐きながら咀嚼する。その瞬間、彼女の美しい顔が、とろけるような笑顔に変わった。

「あぁ……美味しい……! 噛むたびに出汁がじゅわっと溢れて、身体の中に温かい火が灯っていくみたい。山で食べる冷たい川魚じゃ、こうはいかないわね」

彼女はそのまま、おちょこの日本酒をグッと煽った。くうっと喉を鳴らし、今度はカリカリに炙られた「ネギ味噌の焼き油揚げ」に手を伸ばす。

サクッ。

静かな厨房に、小気味よい音が響いた。

「んん〜っ! この歯ごたえ、最高じゃない! 香ばしいネギと甘辛い味噌のバランスが絶妙で、お酒がいくらでも進んじゃうわ。ちょっと、坊や、お代わりちょうだい!」

「はい、ただいま!」

私は嬉しくなって、すぐに二杯目の日本酒を注いだ。緋牡丹は満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしながら、おでんの厚揚げやつみれを次々と平らげていく。そのたびに、着物の裾から覗く二本のしっぽが、嬉しそうに激しく左右に揺れていた。

気づけば、小鍋のおでんも皿の油揚げも、一滴の出汁すら残さず綺麗に空っぽになっていた。

「ふぅ……ごちそうさま。人間の作るご飯とお酒が、こんなに五臓六腑に染み渡るものだなんてね。疾風が大騒ぎするわけだわ」

緋牡丹はふぃー、と色っぽい溜め息をつき、妖艶な笑みを私に向けた。

「すっかり気に入っちゃった。これはあたしからの、最高のお礼よ」

彼女が懐からそっと取り出し、カウンターにコトッと置いたもの。

それは、高級なブランデーをそのまま固めたような、深い琥珀(こはく)色の結晶だった。

驚いたのは、その結晶の美しさだけではない。

結晶の中に目を凝らすと、夜の月明かりの下、緋牡丹がたくさんの猫たちに囲まれながら、楽しそうに歌い踊っている「賑やかで温かい宴の記憶」が、まるで万華鏡のようにキラキラと回っていたのだ。

「それはあたしの楽しい記憶と、お酒の酔いが混ざり合った結晶。クロに持っていけば、なかなかの宝石に変えてくれるはずよ」

緋牡丹は立ち上がり、着物の乱れをトントンと整えると、裏口の戸に手をかけた。

「これからは、あたしも常連の仲間入りね。今度は山のみんなも連れてきちゃうかも?……ふふ、またね」

彼女はそう言い残すと、夜の闇に溶けるように、軽やかな足取りで去っていった。

手元に残された、温かい琥珀色の結晶。

狐の琥珀、天狗の疾風、そして猫又の緋牡丹。

少しずつ、でも確実に、私の店にあやかしたちの輪が広がっている。

「山のみんな、か。もっとたくさん仕込めるように、大きなお鍋を買っておかないとね」

私は引き出しに新しい結晶をそっと仕舞い、次の丑三つ時に思いを馳せながら、静かに店の鍵を閉めた。

(第1章・第3話 完)

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