第1章:丑三つ時の迷い客 第2話:きらめく結晶と、闇市の黒猫
第2話です!ゆっくりしていってください!
翌朝。カーテンの隙間から差し込む秋の太陽光の中で、私は昨夜の出来事が夢ではなかったことを知った。
キッチンテーブルの上で、あの群青色の結晶が静かに転がっている。
「本当に……夢じゃなかったんだ」
指先で拾い上げてみると、驚いたことに、夜に触れた時と同じ「じんわりとした温かさ」がまだ残っていた。
太陽の光に透かしてみる。すると、結晶の奥深く、星屑のような輝きの中に、信じられないものが視えた。
ゆらゆらと揺れる湯気。大ぶりの油揚げ。そして、それをハフハフと嬉しそうに頬張る、黄金色の二尾の狐――。
「これ……琥珀の記憶?」
まるで小さなスノードームだ。結晶の中に、昨夜の琥珀の「美味しい」「温かい」という感情が、そのまま景色になって閉じ込められている。見つめているだけで、私の胸の奥までぽかぽかと温かくなってくるようだった。
「おやおや。先代が亡くなってどうなることかと思ったが、ちゃんと『お代』を受け取れたようだね」
「うわっ!?」
突然、背後から声をかけられ、私は飛び上がった。
いつの間にか、店の入り口の鍵が開いていたらしい。そこに立っていたのは、仕立てのいい黒い三つ揃えのスーツを着た、細身の男だった。
年齢は二十代後半ほどに見える。髪はツヤのある漆黒で、何よりその瞳が、昼間だというのに縦長の細いスリットになっていた。
「だ、誰ですか……? まだ開店前ですが」
「冷たいねぇ。君が赤ん坊の頃、よく揺り籠を揺らしてあげたっていうのに。……まぁ、人間の姿で会うのは初めてか」
男はフッと不敵に笑うと、私の手元にある結晶をじっと見つめた。
「私はクロ。先代――君のおじいさんの頃から、この店で手に入った『結晶』を人間の金に換金して、店を存続させる手伝い(マネジメント)をしている者さ。本性を言えば、まぁ、ただの黒猫だよ」
クロと名乗った男は、慣れた手つきでカウンターの椅子に腰掛け、結晶をひょいと奪い取って光にかざした。
「ふむ……最上級の『妖結晶』だ。新米のくせに、野良の狐じゃなく、あの大物の『琥珀様』を満足させるとはね。これなら、人間の世界の一流宝石商に持っていけば、今月の店の家賃と食材費、それに君の小遣いのお釣りがくるくらいの『ダイヤ』と交換できるよ」
「えっ……これが、そんな価値のあるものなんですか?」
「当たり前さ」
クロは結晶を机にコト、と戻し、猫のように目を細めた。
「あやかしの純粋な『歓喜』や『感謝』は、異界では最高級のエネルギーだ。それが人間の料理という、彼らにとっての『奇跡』に触れることで、こうして美しい鉱物になる。……ただし、あやかしたちが置いていくのは、良い感情の結晶だけとは限らないけれどね」
クロの言葉に、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「さて、今夜の丑三つ時も、お腹をすかせた迷い客が来るはずだ。次はもう少し、お腹に優しいものを用意しておいた方がいいかもしれないね。……じゃあ、これは私が預かって、夜までに現ナマに換えてきてあげるよ」
クロは結晶をポケットに滑り込ませると、足音ひとつ立てずに、また風のように去っていった。
残された私は、キッチンの時計を見上げる。
午前十時。次の丑三つ時まで、あと十四時間。
「お腹に優しいもの」……私は今夜のメニューの仕込みを求めて、買い物へ出かける準備を始めた。
日が落ちるのは早い。クロが去った後、私は商店街の八百屋へ走り、新鮮な大根とカブ、そして生姜を買い込んできた。
「お腹に優しいもの」という言葉が、どうにも引っかかっていたからだ。
私は厨房に立ち、出汁をじっくりと引いた。今回は琥珀の時よりもさらに薄味で、昆布の旨味を前面に出す。そこにすりおろした生姜をたっぷりと加え、吉野葛でとろみをつけた。淡い琥珀色の、とろりとしたスープ。これならどれだけ胃が弱っていても、するりと入るはずだ。
チーン、コーン、カーン……。
午前二時。丑三つ時の鐘が鳴る。
私はエプロンを締め直し、裏口の引き戸に手をかけた。
ガラリ。
「……あの、ごめんください」
聞こえてきたのは、消え入りそうなほど細く、小さな子供の声だった。
足元を見つめると、そこにいたのは人間の五歳児ほどの大きさの、奇妙な男の子だった。頭には小さな一枚の葉っぱを載せ、背中には、まだ雀の羽が生え揃ったばかりのような、小さな小さな黒い翼がある。
「天狗……の子ども?」
「ボク、からす天狗の『疾風』……。お腹が痛くて、山から動けなくなっちゃって。そしたら黒猫のおじさんが、ここに行けば温かいものがあるって……」
疾風は小さな手でお腹を押さえ、涙目で私を見上げていた。どうやらクロが道案内をしたらしい。山の上は夜になると急激に冷え込む。冷たい木の実でも食べすぎて、胃を壊してしまったのだろう。
「よく頑張ってここまで来たね。寒かったでしょう。さあ、中に入って」
私は疾風を抱き上げるようにして店に入れ、特等席の丸椅子に座らせた。冷え切った小さな身体が、可哀想になるくらいに震えている。
「今、お腹が温まるものを作るからね」
温めておいた特製の出汁スープに、柔らかく煮たうどんの端切れと、溶き卵をふわりと回し入れる。仕上げに、生姜の搾り汁をひと垂らし。
「はい、どうぞ。『生姜と卵のあんかけうどん』だよ。熱いから気をつけてね」
疾風の前に器を置くと、とろみのついた湯気が、生姜の爽やかな香りと共にふわりと広がった。疾風はふんふんと鼻を鳴らし、小さなレンゲを両手で握りしめて、スープを恐る恐る口に運んだ。
「あ、ちち……。でも、おいしい……!」
ハフハフと小さなお口を動かしながら、疾風はうどんをすすり始めた。
とろみのあるあんかけは冷めにくく、一口食べるごとに、疾風の青白かった頬にぽっと赤みが差していく。背中の小さな黒い翼が、嬉しそうにパタパタと小刻みに揺れた。
「あったかい……。お腹の痛いの、どこかに行っちゃったみたい」
器が空っぽになる頃には、疾風はすっかり元気になり、満面の笑みを浮かべていた。人間の「火」と「優しさ」が詰まった料理は、幼いあやかしの冷えた胃腸を瞬時に癒やしたのだ。
「ごちそうさまでした! これ、お代です!」
疾風は満足げに胸を張ると、小さなポケットから何かを取り出し、カウンターにコトッと置いた。
それは、新緑の葉っぱをそのまま凍らせたような、鮮やかな若草色の結晶だった。中を覗き込むと、小さな疾風が、山を元気に飛び回る爽快な風の記憶が、キラキラと輝きながら渦巻いていた。
「ありがとう、お兄ちゃん! またね!」
疾風は窓を開けると、小さな翼を力強く羽ばたかせ、夜風に乗ってあっという間に夜空へ飛び去っていった。
手元に残された、若草色の結晶。
その心地よい温かさを感じながら、私は思った。私の料理は、彼らにとっての薬にも、救いにもなれるのかもしれない、と。
「さて、明日も美味しい出汁を引かなくちゃね」
私は結晶をそっと引き出しに収め、少しだけ誇らしい気持ちで、店の明かりを消したのだった。
(第1章・第2話 完)
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