第1章:丑三つ時の迷い客 第4話:黒猫のそろばん、狐の約束
第4話です!楽しんでいってください!
「はいよ、これが昨晩の緋牡丹姉さんの分の『お代』さ。色が良いから、宝石商の旦那が色めき立っちゃってねえ」
からんころん、と昼の営業前の静かな店内に、軽快な鈴の音が響く。
入ってきたのは、仕立てのいい黒スーツをまとったクロだった。彼はカウンターに腰掛けると、ジャケットの内ポケットから、ずっしりと重みのある茶封筒をコトッと置いた。
中を覗くと、見たこともないような厚みの札束が入っている。
「うわ……! こんなに大金に変えてもらえるの!?」
「当たり前さ。猫又の、それもあの界隈を取り仕切る大姐さんの『極上の歓喜』が詰まった結晶だよ? 人間の世界じゃ、どんな大富豪が逆立ちしたって手に入らない最高級のルビーに見えるのさ」
クロは細長い指先でパチンと指を鳴らし、猫のように目を細めて笑った。
「それにしても驚いたね。新米の君が、琥珀様に続いて疾風、さらにはあの緋牡丹姉さんまで一気に手懐けてしまうなんて。今やあやかしたちの隠れ里じゃ、『丑三つ時に、異界にはない極上の火を喰わせる店がある』って、かなりの噂話になってるよ」
「噂に……? なんだか少し照れくさいな」
私がポリポリと頬を掻くと、クロはフンと鼻を鳴らした。
「感心してる場合じゃないよ。客が増えるってことは、それだけ君の腕と食材の仕込みが試されるんだから。……おや、なんだか厨房から、僕の鼻を狂わせるいい匂いがするね?」
「あ、気づいた? クロ、いつも結晶を換金してきてくれてありがとう。これ、お礼のまかないだよ」
私は笑顔で、厨房から一皿の料理を運んできた。
今日仕入れたばかりの新鮮な真鯖を、醤油、みりん、そして生姜の薄切りと一緒にじっくりと煮詰めた『鯖の味噌煮』だ。
「ほう、鯖かい。僕が猫だからって、安易なチョイスだねぇ……」
クロは文句を言いながらも、手渡された箸を受け取り、ツヤツヤと輝く鯖の身をそっと崩して口に運んだ。
モグ、モグ……。
「っ……!!」
その瞬間、クロの背筋がピンと伸び、頭の上の髪が猫の耳のように一瞬だけピクッと動いた気がした。
「な、何だいこれは……! 身が驚くほどふっくらしていて、味噌のコクが骨の髄まで染み渡っている。それに、この生姜のピリッとしたアクセントが絶妙だ。……くそ、人間の『火』の力、恐るべしだね」
クロはそこからは無言になり、凄まじいスピードで鯖の味噌煮をご飯と一緒に平らげていった。お皿が鏡のようにピカピカになるまで綺麗に食べ終えると、彼は満足そうにふぅ、と息を吐いた。
「ごちそうさま。君のおじいさんも料理が上手かったけれど、君の料理にはまた違う『優しさ』がある。あやかしたちが惹きつけられる理由が、少し分かった気がするよ」
クロは席を立ち、ハットを軽く直しながら裏口へ向かう。
「さて、僕はこれで失礼するよ。今夜の丑三つ時も、きっと大物がお腹をすかせてやってくる。しっかり準備しておきなよ、若き店主殿」
そう言い残すと、クロは足音もなく店の外へと消えていった。
私はクロの言葉を胸に、夜に向けて特別な引き出しを開ける。
そこには、今日のために用意した、新鮮な地鶏の卵が綺麗に並んでいた。
「よし……琥珀との約束、絶対に美味しい卵焼きを作ろう」
私はエプロンをきゅっと結び直し、夜の仕込みへと取りかかった。
チーン、コーン、カーン……。
午前二時。丑三つ時の静寂を切り裂くように、柱時計が鳴り響く。
私はすぐさま裏口の引き戸の鍵を開け、戸を引いた。
「待たせたな、人間」
夜闇の中からぬうっと現れたのは、あの燃えるような黄金色の毛並みを持つ、二尾の大きな狐――琥珀だった。その切れ上がった琥珀色の瞳は、どこか楽しげに細められている。
「いらっしゃい、琥珀。約束通り、来てくれたんだね」
「当然だ。あやかしは約束を違えない。それより人間、前回のうどんは実に見事だった。異界の冷え切った飯に飽き飽きしていた我が身体に、あの出汁は最高の滋養となったぞ」
琥珀はドサリと丸椅子に腰掛け、ふさふさの尻尾をパタパタと揺らした。
「さあ、約束の『黄色くて丸い、甘い卵の焼き物』を貰おうか。疾風や緋牡丹のやつらがこの店を嗅ぎつけたと聞いてな、我もウズウズしていたのだ」
「ふふ、もう準備はできているよ」
私は微笑み、昼間から用意していた銅製の卵焼き器を火にかけた。
ボウルに新鮮な地鶏の卵を三個割り入れ、おじいさん秘伝の鰹出汁、薄口醤油、そして少し多めの砂糖を加える。琥珀は甘党のようだから、出汁の旨味の中にしっかりとした甘さを効かせた味付けだ。
トントン、と小気味よい音を立てて卵液を混ぜ合わせる。
熱した卵焼き器に油を馴染ませ、ジュワッと卵液を流し込んだ。厨房に甘く香ばしい香りが立ち上る。
琥珀は身を乗り出し、ふんふんと鼻を鳴らしながら、私が手際よく卵を巻き上げていく様子をじっと見つめていた。層を重ねるたびに、卵焼きはふっくらと厚みを増していく。
「ほう……見事な手際だ。まるで魔法のようだな」
「あやかしの魔法には敵わないよ。はい、お待たせ。できたて熱々の『自家製だし巻き卵』だよ」
器に盛られたのは、湯気をたっぷりと纏った、黄金色の美しい卵焼き。大根おろしを少し添えて、琥珀の前に差し出した。
「うむ、いただくぞ」
琥珀は前足の肉球で器用に箸を挟むと、大きな一切れをごろりと口に運んだ。
ハフッ、モグ……。
「っ……おおお……!」
琥珀の九本の尻尾が、ピンと垂直に跳ね上がった。琥珀色の瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれ、じわりと涙が浮かんでいる。
「何という優しく、深い甘さだ……! 口に入れた瞬間、ジュワリと温かい出汁が溢れ出して、舌の上でフワリと解けていく。これは……我らあやかしには逆立ちしても作れぬ、人間の『温もり』そのものの味ではないか!」
琥珀はハフハフと息を吐きながら、猛烈な勢いで卵焼きを口へ放り込んでいく。最後の切れを惜しそうに味わい、大根おろしまで綺麗に舐めとると、彼はふぅ、と極上のため息をついた。
「見事だ。やはりお前の料理は、我らの魂を芯から震わせる」
琥珀は満足げに目を細めると、前足をすっと差し出した。
コトッ。
カウンターに置かれたのは、あの第1話と同じ群青色、いや、今回はさらに深くきらめく特大の結晶だった。中を覗き込むと、一面のひまわり畑のような黄金色の光の中で、琥珀が嬉しそうに空を駆けるまばゆい記憶が、キラキラと渦巻いていた。
「それは我が最高の『歓喜』が宿った結晶だ。大事にするが良い」
琥珀は椅子から飛び降りると、裏口の戸に手をかけ、ニヤリと牙を覗かせて笑った。
「すっかりこの店が気に入った。人間、次はあの、米の上に黄金の卵を載せて包んだ『おむらいす』というものを食うてみたい。……ではな」
黄金の狐は、満足げに夜の闇へと消えていった。
残された結晶は、私の手のひらで驚くほど熱く、そして優しく輝いていた。
クロ、疾風、緋牡丹、そして再び来てくれた琥珀。
真夜中の食堂は、今夜もまた、あやかしたちの温かい記憶で満たされていく。
(第1章・第4話 完)
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