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胡蝶の夢  作者: Nameless
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ゴンチャでの出会い


美雪が使っていたシャーペンの芯が、パキッという鋭い音を立てて折れた。小さな黒い芯の破片が、模試のマス目用紙の上をすべっていく。


彼女は手の甲をズキズキと痛むこめかみに押し当て、顔にかかる柔らかい髪をかすかに揺らす程度の疲れた息を漏らした。


ここ3時間、図書館の外の世界は存在しないも同然だった。彼女の現実といえば、冷たいエアコンの風と、乾いたインクと紙の匂いだけ。学校の優等生として抱えるプレッシャーは、まさにマリアナ海溝並みの深さだ。ミスの一切許されない高水準を維持し続けなければならない。複雑な公式や歴史の年表を何行も追い続け、目は灼けるように痛み、全身の筋肉が硬く緊張していた。


「あと5ページ……」

消しゴムに手を伸ばしながら、彼女は自分に言い聞かせた。「今日が終わる前に、この最後の公式さえマスターできれば——」


何の前触れもなく、冷たく湿った感触が、彼女の右頬に柔らかく押し当てられた。


「きゃっ!」


思わず小さな悲鳴が漏れ、美雪の体が椅子の上で跳ね起きた。驚きのあまり反射的に冷たくなった頬を押さえ、胸の中で心臓がドラムのように激しく跳ねる。


「落ち着けって、優等生さん。そんな目で見つめてたら答案用紙が燃えちゃうぞ」


勢いよく右を向くと、そこには見慣れた優しい笑顔があった。


拓海が隣に立ち、木製の机の縁にひょいと腰を預けていた。その自然体でスマートな立ち振る舞いは、静まり返った図書館を何時間も暖かく感じさせるほどだった。彼の手には、汗をかいてうっすらと霜の降りたアルミ缶が2つ握られている。


美雪がまだ動揺から抜け出せずにいると、拓海は少し屈み、缶の1つを彼女に優しく差し出した。午後の光を受けて輝く、彼女が大好きなレモンアイスティーの黄色い缶だった。


「ノートの前でカチコチの化石になりそうだったからさ」周りの生徒たちに配慮し、拓海は声を潜めてくすくすと笑った。「集中しすぎて頭から煙が出そうだったから、緊急介入しに来たんだ」


差し出された缶を見つめ、それから彼の優しげな黒い瞳を見上げると、美雪の首元から耳の先まで一気に熱が駆け上がった。氷のショックは、瞬く間に深い羞恥心へと上書きされる。


「もうっ!」手指の震えを隠すように、美雪は冷えた缶を彼の手からひったくるように受け取った。手に伝わる冷たい金属の感触が、火照った顔には心地よかった。「ここ、図書館だよ拓海くん!」


「へへ、ごめん」拓海は自分のドリンクのプルタブをプチッと心地よい音を立てて開けた。ひとくち口に含み、呆れるほど愛おしそうな目で彼女を見つめる。「あんなに冷房が効いた部屋でよく平気な顔してられるな、美雪ちゃん。テストが大事なのは分かるけど、少しは息抜きもしなきゃ」


美雪はレモンアイスティーを見つめ、タブを開けてゆっくりと一口飲んだ。甘酸っぱい液体が喉の乾いた苦みを洗い流し、張り詰めていた神経をすっと解きほぐしていく。頬を赤く染めたまま、彼女は睫毛の隙間から彼を見上げた。「誰かが学園での評判を守らなきゃいけないんだから」缶の縁に唇を寄せながら小さく呟いたものの、口元には隠しきれない微笑みが浮かんでしまう。「だって私、前回のテストで学年順位が1つ落ちて2位になっただけで、先生たちに職員室に呼び出されて『どうして順位が落ちたんだ』って大事みたいに問い詰められたんだよ?」


拓海の表情が一気に柔らかくなり、その瞳は美雪の胸をときめかせるような温かさで揺れた。「そっか、災難だったね」ほんの少しだけ顔を近づけ、彼は囁く。「なるほど、うちの努力家で恐ろしいほど頭が良くて……そして可愛すぎる美雪ちゃんが、こんなに疲れ果ててるわけだ」


美雪は紅茶を吹き出しそうになり、頬を真っ赤に染めた。「た、拓海! まだ学校だよ!」照れくささを隠すように囁き声で抗議しながら、急いで冷えた缶を熱くなった頬に押し当てた。


拓海はくすくすと静かに笑った。その心地よい声の響きに、美雪の心臓は再び跳ね上がる。


自分たちの甘いやり取りが、5つ離れたテーブルの目線から見られていることなど、二人は知る由もなかった。


---


静かな図書室に、洞窟の中に響くかのような大きなチャイムの音が響き渡った。


部屋のあちこちで椅子を引く音が響き、残っていた生徒たちがバッグを片付け始め、テストの準備や放課後の予定についてひそひそ話しながら立ち上がり始める。


拓海は飲み干した空き缶を机の端に置き、急に良い案を思いついたかのように目を輝かせた。「よし、ここにはもういられないみたいだな。ねえ、これからうちの母さんのカフェで一緒に勉強しない?」


美雪は顔を上げ、一瞬で目を輝かせた。「カフェで?」


「うん」拓海はスクールバッグを片肩に担ぎ直し、微笑んだ。「母さん、今朝ベリータルトを焼き立てで作ったって言ってたし、奥の角のテーブルがちょうど空いてるんだ。あの時間なら客もあんまり来ないし……」


拓海は美雪を指さした。「それに、集中力が切れそうになったらいつでも温かい紅茶を淹れてあげられるよ。どう?」


学校の重苦しくプレッシャーに満ちた空気から抜け出し、拓海のお母さんが営む温かく甘い香りの漂うカフェで、彼と隣り合って穏やかで静かな時間を過ごせる——その魅力には抗えなかった。美雪の肩の緊張が、一気にほぐれていくのが分かった。


「ぜひ行きたい!」美雪は迷いを捨て、嬉しそうに頷いた。急いで文房具を筆箱に片付け、重いノートを鞄に詰め込む。


「良かった。じゃあ正面玄関で待ってるね」拓海は軽く彼女の肩に手を置くと、鞄を持ち直して爽やかにそう言った。


...


5分後、二人は並んで中央階段を下り、昇降口へと向かっていた。夕暮れの温かい日差しが、ガラス窓を熔融した金と深みのある琥珀色に染め上げている。お母さんが試作している新メニューについて楽しそうに話す拓海の声を聞きながら、彼の隣を歩くという単純な幸せが、美雪の胸に心地よく満ちていった。


しかし、磨き上げられたメインロビーを通り抜け、校門へと続くガラス扉に近づいたその時、角から背の高い鋭い人影が現れ、二人の行き先を遮るように立ちはだかった。


「天童くん、朝比奈さん。敷地を出る前につかまえられて良かったわ」


美雪の足がピタリと止まった。目の前には、黒い革の書類ファイルをごしごしと胸に抱えた橘澪が立っていた。文芸部部長である彼女は、相変わらず完璧な隙のなさだった。背筋をピンと伸ばし、茶色の髪を綺麗に肩に垂らし、鋭い暗色の瞳には一切の妥協を許さない強い光を宿している。その佇まいが、一瞬で和やかな空気を押し潰した。


拓海は驚いて目を丸くした。「橘先輩? どうしたんですか? 急いでいるみたいですが」


「緊急事態よ」澪は一切の迷いもなく、静かで簡潔な声で言った。彼女は書類ファイルを少し掲げる。「地域青少年文芸アンソロジーの実行委員会から急報が入ったの。うちの部活の特集グループ原稿の締め切りが繰り上げられたわ。来週の金曜日ではなく、明日の朝9時提出よ」


拓海は息を飲み、目を大きく見開いた。「明日の朝!? でも、まだ最終校正が終わっていない章が丸々2つ残ってますよ! あと1週間あると思ってたのに!」


「だから緊急事態と言っているの」澪は顔色ひとつ変えずに淡々と返した。「今夜中に最終校正を終えた完成原稿を提出しなければ、うちの部活は地域誌全体の表紙特集枠を失うわ。天童くん、今すぐ部室に来てちょうだい」


美雪の胃がキュッと痛んだ。彼女は本能的に一歩前へ踏み出し、拓海と澪の間に割り込むように立ち、眉をひそめて抗議した。


「ちょっと待ってください、橘先輩!」美雪は強い声で、警戒感を露わにして言った。「いきなりこんな風に拓海くんを引き留めるなんて無茶です! 定期テストまであと3日もないんですよ。このテスト勉強は拓海くんにとっても、誰にとってもすごく大事なんです! 部活のプロジェクトを個人の成績より優先するなんておかしいじゃないですか!」


澪はゆっくりと視線を美雪へと向けた。その瞳は冷ややかで、計算高く、美雪の苛立ちにも全く動じる様子はなかった。


「天童くんの学業を心配する気持ちは理解するわ、朝比奈さん」澪は洗練された、苛立つほどに論理的な甘さを込めたトーンで言った。「けれど、今回の特集記事の連名著者であり主編集者として、彼は学期初めに部活に対して正式な誓約を結んでいるの。学業で優秀な成績を収めることももちろん大切だけど、自分の約束に対する責任感と誠実さこそが、生徒としての本当の品格を決めるのではないかしら? 今ここで天童くんが逃げ出せば、文芸部がこの半年間積み重ねてきた努力はすべて水の泡になるわ。スケジュールが不都合になったからという理由だけで、彼に仲間との責任を捨てろと言うの?」


美雪は言葉に詰まり、その場に凍りついた。鞄のストラップを強く握りしめ、唇をわずかに震わせる。澪の言い分はぐうの音も出ないほど正論で、これ以上反論すれば、自分が拓海の責任感を邪魔しようとする我が儘な彼女に見えてしまう。


*またこの人は、こうやって……*


昨日の記憶が蘇り、美雪の体に冷たい寒気が走った。


昨日の奇妙で気味の悪い出来事が頭をよぎる……澪から「部室に来てほしい」という謎のメッセージを受け取り向かったのに、誰もいない暗がりで、蓮だけが一人で自分を待っていたあの一件……。


美雪は目を細め、部長に直接問い詰めようと口を開いた。「橘先輩、部活といえば……昨日、私を部室に呼び出した時——」


「あ、これ以上時間を無駄にはできないわね」美雪の口から『蓮』の名前が出る前に、澪は滑らかに言葉を遮り、彼女の台詞を断ち切った。


澪は瞬きひとつせず、徹底的な冷淡さで美雪の質問をあしらった。「昇降口で過去の勘違いについて議論して時間を潰す余裕は無いの。天童くん、今すぐ始めるわよ」


そして澪は少し首を美雪の方へと向け、目元に親身で温かい笑みを浮かべてみせた。だが、その瞳の奥には一切の温もりは無かった。


「この緊急修正で深夜までかかるわけではないわ、朝比奈さん」澪は心にもない同情を込めた優しい声で言った。「ただ……数時間はしっかりかかるでしょうね。誰もいない学校で一人で彼を待ち続けるのも気の毒だわ。ここで一人で座っていたら退屈でしょう? だから、もう家に帰るか、どこか快適な場所でリラックスして過ごした方が良いと思うのだけど」


拓海は澪の譲らない視線と、美雪のこわばったストレスに満ちた表情を交互に見つめた。彼の口から重く苦い溜め息が漏れる。彼は手を伸ばし、美雪の手を優しく握りしめた。その顔には心からの申し訳なさが溢れていた。


「本当にごめんね、美雪ちゃん……」拓海は彼女の拳の背を親指で優しく撫でながら、低く囁いた。「でも……締め切りが早まったなら、先輩一人に20ページの編集をやらせるわけにはいかないんだ」


美雪は胸が沈み込むのを感じた。けれど、拓海の真面目で責任感の強い顔を見ていると、彼を責める気にはなれなかった。彼は昔からずっとこうなのだ。優しくて、真面目すぎて、困っている人を放っておけない。


「ううん……大丈夫だよ、拓海くん。分かってるから」口の中に苦い味が広がったが、美雪は無理に優しい笑顔を作って囁いた。


「絶対に埋め合わせするから!」拓海は真剣な瞳を輝かせて急いで言った。「今夜はどう? 編集が終わったら、そのまま美雪ちゃんの家に行って遅めの夕飯を作るよ。何が食べたい? 何でも作るから!」


美雪が返事をする間もなく、澪が二人の間にすっと割り込み、拓海の肩に軽く手を置いて部室棟へと続く廊下へ向けて背中を押した。


「素敵な約束ね、天童くん」澪は早足で歩かせながらそっけなく言った。「さあ、行きましょう。一刻を争うわ」


「あ、うん! 美雪ちゃん、終わったらすぐ連絡するね!」澪に促されながら階段を下りていく拓海は、名残惜しそうに振り返りながら叫んだ。


美雪は昇降口の近くでじっと立ち尽くし、拓海の制服が階段の角に消えるまで、二人の後ろ姿を見送っていた。


胸から長くて重い吐息が漏れた。誰もいない玄関ホールの静けさが、重く息苦しい重圧となって彼女にのしかかる。


突然、左肩をトントンと優しく叩かれた。


美雪は驚いて即座に振り返った。拓海を階段の上へ行かせたはずの澪が、いつの間にか戻ってきて目の前に立っていた。


「橘先輩……?」美雪は一瞬で警戒心を爆発させた。


澪はスカートの正面を整え、完璧な姿勢を保っていた。「朝比奈さん、まだ行くあてが無くて困っているように見えたから。どうせ彼が終わるのを待つのでしょう? それなら親切な提案をしてあげようと思ったの」


美雪は黙ったまま、澪の読めない顔を見つめ返した。


「ええ」澪は洗練された優雅な仕草で首を少し傾げながら続けた。「駅からの大通り沿いにあるゴンチャで、文芸部の部員たちが数人集まっているわ。今夜の勉強会の前に少し休憩しているの。彼氏を待つ間の時間潰しをしたいなら、あそこへ行って一緒に過ごしたらどうかしら?」


美雪は彼女を見つめ返した。澪のトーンはどこまでも丁寧で親切そうに聞こえたが、美雪の直感は昨日の不可解な出来事がまだ解決していないと告げていた。


なぜ澪が急にこんなに親切にするのか? なぜ特定の部員たちの場所へ自分を誘導しようとするのか?


*罠……? それとも、あの部室で拓海くんと二人きりになるために、私を遠ざけようとしてるだけ……?*


鞄のストラップを握る手に力が入る。胸の奥で、静かだが頑固な決意が芽生えた。澪の意図を完全に信用できたわけではない。けれどゴンチャへ行けば、文芸部で一体何が起きているのか、その裏側を突き止める手がかりが得られるかもしれない。それに、一人で学校の周りをうろつくよりはマシだ。


「分かりました」美雪は声を乱さず、完璧に落ち着いたトーンで言った。「提案してくれてありがとうございます。そうさせていただきますね。彼氏を待つ間の良い時間潰しになりそうです」


美雪は『彼氏』という言葉を、優しく、しかしはっきりと強調してみせた。


他の人間なら見逃してしまうほどのほんの一瞬、澪の丁寧な仮面が崩れた。暗い瞳が冷たく鋭い刃のように細められ、唇が一線の不機嫌な形に結ばれる。仮面が剥がれ落ち、その下に隠されたひんやりとした不快感が露わになった。


「そう」澪は声から温もりを一切削ぎ落とし、平坦で乾いた声で呟いた。「それじゃあ、お茶を楽しんでね、朝比奈さん」


それ以上何も言わず、澪は踵を返して部室棟へと去っていった。廊下の影の中で、スカートが静かに揺れる。


---


15分後、美雪がガラス扉を押すと、ゴンチャの店内に可愛らしいベルの音が響いた。


焙煎された黒糖、タピオカパール、そして淹れたてのジャスミンティーの甘く豊かな香りが一気に彼女を包み込む。店内は近くの高校から来た生徒たちで賑わっており、ポップミュージックのBGM、氷のカチャンという音、そして楽しげな話し声が入り混じっていた。


美雪は入口の近くで足を止め、明るい客席を見渡した。


窓際の陽の当たる心地よい角のボックス席に、自分と同じ高校の制服を着た3人の女子生徒を見つけた。色鮮やかなボバのカップが並ぶテーブルに身を乗り出し、噂話に花を咲かせて笑い合っている。


*3人の女の子……橘先輩が言っていた文芸部のメンバーね*


美雪は静かに深呼吸をして心を落ち着かせた。


拓海が文芸部に所属していることは昔から知っていたが、廊下ですれ違いざまに見かけるくらいで、他の部員たちとまともに話す機会はなかった。拓海は部活の人間関係よりも自分の執筆について話すことが多かったからだ。


*もしかしたら……*


スカートを整えながら美雪は考えた。*文芸部で本当は何が起きているのか……そしてあの橘先輩の本性が何なのかを知る、絶好のチャンスかもしれない*


肩の鞄を持ち直し、美雪は上品な足取りで彼女たちのテーブルへと歩み寄った。


「あの……すみません」テーブルの横で立ち止め、美雪は丁寧で可愛らしい笑顔を向けた。「みなさん、文芸部の方ですか?」


3人の会話がピタリと止まり、一斉に美雪を見上げた。短い茶髪に丸メガネをかけた女の子が驚いたように瞬きをし、残りの2人は興味深そうに視線を交わした。


「あ! うん、そうだよ」メガネの女の子が温かい笑顔を返した。「誰か探してるの?」


「橘先輩から、みなさんがここで過ごしてるって聞いたんです」美雪は柔らかく話しやすい雰囲気を保ちながらスムーズに説明した。「先輩に教えてもらって……私、朝比奈美雪といいます。彼氏が学校で急な原稿修正に入っちゃって、終わるまでの時間潰しにお邪魔してもいいですか?」


3人の瞳が、瞬時に理解と興奮で輝いた。


「待って! 天童くんの彼女さん!?」サイドのツインテールが特徴的な元気いっぱいの女の子がパンッと手を叩いて叫んだ。「2年A組のあの学年トップの優等生! うそ、座って座って! もちろん大歓迎だよ!」


「うん、椅子持っておいでよ!」3人目の女の子も楽しそうにクッションベンチを詰めてスペースを作った。「橘先輩が本気モードに入った時の修正作業がどれだけ惨劇か、ちょうど話してたところなんだ。天童くんかわいそうに!」


美雪は心から安心したように微笑み、木製の軽い椅子を引き寄せて輪の中にしなやかに腰掛けた。「ありがとうございます。本当に……橘先輩、締め切りに関しては容赦なさそうですね」


「でしょ!?」ツインテールの子はストローでボバを混ぜながらクスクス笑った。「提出が近くなると部活を軍隊みたいに仕切るんだから。でもマジで、朝比奈さんに会えて嬉しい! 天童くん、たまに朝比奈さんのこと話すんだけど、詳しく聞こうとするとすぐ照れて真っ赤になるんだよ!」


友達に自分のことを話して赤くなっている拓海を想像し、美雪の頬に温かい照れくささが広がった。「拓海くんが……?」


「本当だよ!」メガネの子はメガネを押し上げながら笑った。「ねえ、教えてよ! つき合ってどれくらいなの? どっちから告白したの? 部活の『パワーカップル』の本噂、ずっと気になってたんだから!」


それからの20分間、最初の気まずさは完全に消え去り、賑やかで温かい会話が弾んだ。美雪もすっかりリラックスし、楽しそうにお喋りに加わった。拓海との交際についての無害で無邪気な質問に答え、拓海が家でどれだけドジかを明かすと彼女たちが大袈裟に驚くのを見てクスクス笑い、美雪を喜ばせようと一生懸命な彼の健気さを褒められて嬉しそうに微笑んだ。


そして今度は、美雪がさりげなく部活についての話題へと誘導した。他の部員が澪をどう思っているのか、日々の様子、部活全体の雰囲気を頭の中で分析していく。すべてが驚くほど普通で、甘酸っぱく、ごく日常的に見えた。だからこそ、昨日の蓮との一件に対する美雪の胸の騒ぎは、より一層謎めいて感じられた。


「あ、残りのドリンクが来た!」メガネの子が美雪の肩越しにレジカウンターの方を見ながら声を上げた。「もう、遅いよー! レジ前の行列、ちょっとした戦場だったでしょ」


「でも美味しいから許せる! ご褒美だね!」ツインテールの子が歩み寄ってくる人物に向かって明るく声をかけた。


美雪は丁寧な笑顔を浮かべ、プラスチックカップとストローが載ったトレーを持って戻ってきた4人目の女の子を迎えるため、自然と椅子の上で体を向けた。


「待たせてごめんね」柔らかく心地よい声が響いた。「レジでオンライン決済のトラブルがあったみたいで——」


トレーを持った少女が窓際の温かな光の中に足を踏み入れ、木製のテーブルの上にパチパチと音を立ててドリンクを置いた。彼女が顔を上げると、そのエレガントな瞳が美雪の視線とぶつかった。


美雪は息を飲んだ。唇に浮かべていた作り笑いが瞬時に凍りつき、心臓が胃の底へと急速に落ちていくような感覚に襲われる。


そこに立ち、華奢な手でドリンクスリーブを持ちながら、どこか読めない複雑な表情で美雪を見下ろしていたのは——京一郎由美子だった。


由美子は少し首を傾げ、アイラインを濃く引いた目を細めて美雪の視線を受け止めた。「私の顔に何か付いてる?」少し警戒したような素っ気ないトーンで問いかける。


美雪は急いで冷静さを取り戻し、引きつった笑顔を作ってスカートを整えた。「ううん、何でもないの。一瞬驚いちゃって……き、今日集まってる文芸部のグループに、あなたがいるなんて思わなかったから」


由美子は無頓着に肩をすくめ、ボブヘアの茶髪を肩の後ろへ払いながらトレーを置いた。「ああ、ううん。私、この子たちと仲良いからいただけ」そう答えると、他の女子たちの隣のボックス席の角へと滑り込んだ。


テーブルの雰囲気はすぐに元の賑やかさへと戻った。由美子が座る前も恋バナや高校生の恋愛についての雑談で盛り上がっていたため、話題は自然と由美子の今の恋愛事情へと移っていった。


美雪は完全に口をつぐみ、冷たい紅茶を手元に引き寄せて耳を傾けた。


けやきの木の下で百合から受けた警告の光景が、脳裏をよぎる。特に、蓮が『アラタ』という男から由美子を奪い去ったという痛ましい過去の経緯が、鮮明に思い出された。


「ぶっちゃけ、元カレと別れたのは人生最高の決断だったわ」由美子はスマホを取り出し、自慢げで高飛車な笑みを浮かべながら席の背もたれに寄りかかった。「アラタなんて、本当に毒親ならぬ毒カレで、救いようのないオタクだったし。口を開けば受験勉強の文句か、成績のストレスばかり。私を良いお店に連れて行ってくれることすら出来なかったんだから」


「そうなの?」文芸部の女の子の一人が、少し躊躇いがちな声で尋ねた。「アラタ先輩、中学の頃はすごく由美子ちゃんに優しかった印象があるけど……」


「はあ? 優しさなんかじゃイイ物なんて買えないでしょ」由美子は冷たく言い放ち、手をひらひらと振った。「あいつはただの負け組。私はレンみたいな人と出会えてラッキーだったの。レンは超絶イケメンなだけじゃなくて、本当の将来性がある。元カレと違って、私が欲しいものは何でも買い与えてくれるし」


美雪の胸が冷たく締め付けられた。自分をあれほど深く愛してくれていた男の子を侮辱し、蓮の派手で人工的な『トロフィー』として作り直されることを正当化する由美子の言葉を聞いていると、胃がむかむかして吐き気がした。


突然、由美子の目が輝いた。不自然な色をしたカラコンが光を反射し、ゴンチャの正面ガラスを見つめる。ツヤツヤした唇に、鋭く嬉しそうな笑みが広がった。


入口のベルが軽やかに鳴り、ドアが開いた。美雪は頭を向け、乱れた金髪に制服のジャケットのボタンを外した背の高い人影が入ってくるのを見て、驚きを隠せなかった。


——真人 蓮だった。


由美子はボックス席から飛び出すように立ち上がり、タイル張りの床を駆け抜けて彼の首に必死にしがみついた。「レン! 本当に来てくれたんだ!」


蓮は彼女を抱き返しもしなかった。片手で無造作に彼女の腰をポンポンと叩くだけで、店内を見渡す彼の視線は冷たく冷淡で、自分たちに注がれる周囲の視線など完全に無視していた。美雪は居心地悪そうに椅子の上で姿勢を正し、膝を揃えて視線を逸らした。


テーブルの文芸部の3人の女の子の間で、ひそひそ話が始まった。


「わあ……本当に由美子ちゃんが言ってた通りイケメン……」ツインテールの子が声を潜めて呟いたが、その声には困惑が混ざっていた。


「うん、でも……公共の場でいくらなんでもベタベタしすぎじゃない?」丸メガネの子が眉をひそめて小さく囁いた。「それに正直……私、中学の頃アラタ先輩のこと知ってるけど、全然悪い人じゃなかったよ。由美子ちゃん、いくらなんでも言いがかりが酷すぎる気が……」


会話がそれ以上広がる前に、蓮が二人のテーブルへと歩み寄ってきた。隣の席から椅子を引き寄せると、ボックスの真ん中に腰掛けた。由美子はすぐさま彼の腕に抱きつき、トロフィーのように顎を彼の肩に乗せた。


わずか30秒で、蓮はその場の空気を完全に支配し、会話の中心をすべて自分へと誘導した。


「昨日、流星大学のスカウト責任者から電話があってさ」蓮は机に肘をつき、慣れた不敵な笑みを浮かべて身を乗り出した。「来月、非公開のスポーツ特待生のセレクションに招待されたんだ。普段通りのプレーができれば、中間テストが終わる前に監督から推薦を取り付けてやるって保障されたよ」


「流星大学への推薦!?」ツインテールの子が手を叩いて息を飲んだ。「すごいですね、真人さん!」


「でしょ!?」由美子が誇らしげに声を弾ませ、自分が達成したことかのように他の女の子たちに微笑みかけた。「プロのサッカー選手になるっていう夢にどんどん近づいてるの! レベルが全然違うって言ったでしょ?」


「ところで、真人先輩」メガネの子が丁寧だがどこかぎこちない声で尋ねた。「噂で聞いたんですけど……お父様が今度の市議会議員選挙に出馬されるって本当ですか? それに、街の中央にある大きな建設会社を経営されているとか……」


蓮は金髪を手でかき上げながら、低く洗練された笑い声を漏らし、注がれる注目を全身で浴びた。「ああ、そうだよ。親父の当選はもう確定みたいなもんだ。今の市議会は無能だからな。どうせうちの会社が新しい再開発プロジェクトを取り仕切ることになる。戦う前から勝ちは決まってるようなもんさ」


彼は実家の権力や高級な人脈、通っている高額な店について自慢を続け、そのトーンには高慢さが滲み出ていた。美雪は文芸部の3人を注意深く観察していた。丁寧なお辞儀や作り笑いの下に、彼女たちの瞳には明らかな居心地の悪さが浮かんでいた。


蓮は喜びを共有しているのではない。支配力を誇示しているのだ。


そして、蓮の鋭く暗い視線がテーブルを滑り、美雪へと真っ直ぐに注がれた。


計算高そうな薄笑いが、彼の唇を歪める。


「まあ、今日は気分が良いからさ。みんなに奢ってやるよ。何でも好きなものを頼みな、俺のツケでいいから」


彼は美雪を直視し、心にもない寛大さを滲ませたトーンで言った。「お前たち、今すぐ新しいドリンクを買いに行ってきなよ。美雪の分も好きなものを買ってやって」


蓮は上着から分厚い革財布を取り出すと、高額紙幣を何枚かテーブルの真ん中に叩きつけ、カウンターを指さした。


「きゃー! ありがとう、レン!」由美子が歓声を上げて現金をひっ掴んだ。「みんな、行こ! 特製の黒糖スラッシー頼もうよ!」


3人の部員たちも、蓮の圧迫感のある空間から逃げ出す絶好の口実を得たとばかりに立ち上がり、由美子の後に続いてレジへと向かった。


テーブルで突然蓮と二人きりにされることに気づき、美雪の胸に鋭いパニックが走った。彼女は急いで椅子を引き、立ち上がろうとした。「私……お手洗いに行ってきます——」


「座れよ、美雪」


蓮の低い声が、絹のように滑らかだが鉛のように重く空気を切り裂いた。声を張り上げたわけではない。だが、その声に込められた突然の冷たい威圧感に、美雪は足止めを喰らった。


蓮は向かいの空いた席をだるそうに指さした。「まだちゃんと話してないだろ。そう冷たくするなよ」


美雪は躊躇した。胸の中で心臓が激しく鐘を打つ。だが、他の女の子たちが騒がしいレジ前に並んでいる以上、ここで大騒ぎをすれば無用なトラブルを引き起こすだけだ。彼女はゆっくりと席の端に腰を下ろし、体を強張らせて膝の上で固く手を握りしめた。


「なあ」蓮はテーブル越しに身を乗り出し、鋭い暗い瞳で彼女を捉えて言った。「昨日、文芸部の部室で起きたことについて謝りたいんだ。後から思えば、少し強引すぎたかもしれない。君の立場をもっと思いやるべきだった」


美雪は表情を一切崩さなかった。心の中では、彼の言葉に本心の反省など一微塵もないことを見抜いていた。自分に対する警戒心を解くための、計算された策略に過ぎない。


「謝罪なんて結構です、真人……先輩」美雪は冷たく言った。


「それに、名前で呼ぶことを許可した覚えはありません。私達、お互いをよく知っているわけでもないですし」


「かたいこと言うなよ」蓮は口元に薄っすらと嘲笑を浮かべて呟いた。「だって俺は、君がどんな重圧に晒されているか知ってるんだからさ、美雪。君が自分の彼氏との関係について悩んでることもな」


美雪は目を細めた。「何です特?」


「君の彼氏……天童……拓海、だろ?」蓮は首を傾げ、テーブルの上の空のプラスチックストローを弄びながら言った。「あいつはすごく一途な奴だよ、そこは認めてやる。自分自身の執筆の夢を全力で追ってる……俺が自分の夢を追ってるのと同じようにな」


蓮は言葉を切り、ほんの少しだけ顔を近づけた。その声は、耳元に毒を流し込むような危険で甘い囁きへと変わる。


「けど、俺たちみたいな男が目標に取り憑かれた時、どうなるか知ってるだろ? 男が自分の野望に完全に飲み込まれた時、他のすべてを忘れてしまうんだ。一番近くにいる人間のことさえもな。教えてくれよ、美雪……最近、少し寂しいって感じてたんじゃないか? あいつが大事な原稿を理由に、何度デートをキャンセルした? あいつが君を置いて先へ進んでいく間、二人の関係が退屈でマンネリ化した日々に沈んでいくように感じたことが、何度あった?」


美雪は胸に突然の鋭い痛みを覚えた。蓮の言葉は恐ろしいほど正確に、ここ数週間の悪夢の中で彼女の心を苛んでいた潜在的な不安の傷口をピンポイントで突いてきた。


「拓海くんはそんな人じゃありません」美雪は拳の関節が白くなるほど強く握りしめ、自分を守るように低く抗議した。


「本当に?」蓮は不敵に笑い、冷酷な愉悦で瞳を輝かせながら背もたれに寄りかかった。「だって俺が聞いた話じゃ、昨日の埼玉への校外学習の時、拓海は随分と楽しそうだったらしいぜ。それどころか……あの新しい転校生と、驚くほど親密そうにしてたらしいじゃないか」


「誰だっけな?」蓮は思い出そうとするように指を数回鳴らし、それから目を薄く開いた。「ああ、そうそう。葛城 凛、だっけ?」


美雪の呼吸が激しく詰まった。


蓮はさらに深く針を刺した。そのトーンはどこまでも滑らかで同情的だったが、その裏にある強烈な悪意を美雪は感じ取っていた。「俺の後輩の何人かが、ちょうど同じ研修旅行に行っててさ。あいつと転校生は、博物館の研究班の時に実質二人っきりでベタベタしてたって言ってたぞ。あいつ、彼女に対して親密『すぎる』振る舞いをしてたんじゃないか? ハイタッチしたり……」

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