予兆
柔らかな砂に深く刻まれし、幼き日の誓い。
夜を這い寄る影に抗い続ける。
然れど、運命は黄金の手を差し伸べ、
夢の糸は静かに光の中へと踏み出していく。
東校舎の中庭の端にそびえる銀杏の古木。その広々とした木立ちの隙間から、午後の陽光が木漏れ日となって降り注いでいた。芝生の上で光の粒が踊り、大木の下の木製ベンチに並んで腰掛ける深雪とユリの姿に、柔らかく揺らめく影を落としている。
中庭には人影もなく静まり返り、三百度ほど離れたグラウンドからかすかに届くサッカーボールを蹴る音だけが響いていた。心地よい春の冷気が葉を揺らし、ささやかな音を立てる。
ユリは両腕を膝の上に置き、アップルグリーンのショートヘアを風にそよがせていた。
長い間、彼女は一言も発しなかった。足元の芝生に緑色の瞳を向け、深雪がここ数日間に起きたすべてを打ち明けるのを、時折小さく頷きながらただ静かに聞いていた。
深雪は、繰り返し見る悪夢の息が詰まるような重圧について語った。自分が引き起こした公開処刑のような侮辱、愛する人たちからの冷たく疎遠な視線、蓮雅人の恐ろしい存在感、そして血に染まり惨烈に破壊された拓海の人生。目が覚めてからもまとわりつく圧倒的な恐怖、日常に忍び寄る妙な疎外感、そしてまるで夢が現実へと侵食してきているかのような気味の悪い感覚を、ひとつひとつ言葉にしていった。
深雪の声が消え、頭上で風にそよぐ葉の音だけが残ったとき、ユリは鼻から重く長い息を吐き出した。
「正直に言うね、深雪ちゃん」ユリは頭上の葉を見上げていた視線を深雪に向け、いつになく低い落ち着いた声で口を開いた。「もし他の誰かにこんな話を聞かされたら……『寝る前に韓国ウェブトゥーンの読みすぎだよ』って笑い飛ばしてるところだわ」
「だってさ……」ユリは首の後ろを掻いた。「正夢とか予知夢とか、絶対にあり得ないとは言わないけど、数百万分の一の確率だし、いきなり呑み込むのは難しいよ」
深雪は膝の上で指をきつく組み、俯いた。「どんなに馬鹿げた話か分かってる……だから誰にも言えなかったの。拓海くんにだって」
ユリは体勢を変え、大木のゴツゴツした幹に背を預けた。
「で……その悪夢の『具体的な内容』だけどさ。深雪ちゃんが拓海くんを裏切ったとか……あんな仕打ちを他人に許したとか、そういう部分?」
痛烈な恥ずかしさが急激に深雪の首筋から頬へと駆け上がり、赤く染めた。
彼女は磨かれた革靴を見つめ、恥ずかしさと自責の念で顔を歪めた。
「それが……それが一番恐ろしいの、ユリちゃん」深雪は風の音にかき消されそうなほど小さな声で認めた。
「口にするのも気持ち悪い。あそこまでの裏切りなんて、異常で歪んだ妄想の中にしか存在しないよ。私が拓海くんにそんな仕打ちをするなんて、絶対にあり得ない。この10年間、彼が私のためにしてくれたことを思えば……彼は、私の世界のすべてなんだよ、ユリちゃん」
「分かってるよ」ユリは疑いの余地もない強い口調で言った。「深雪ちゃんと5分も話せば、あのバカのことをどれだけ大切に思ってるか誰にでも分かる。だからこそ、その夢の話を聞いたとき、深雪ちゃんらしくなさすぎて違和感しかなかったんだ」
ユリは言葉を切り、ガラスと鉄骨でできた校舎の本館を見つめながら、緑の瞳をわずかに細めた。
「でも……」ユリは分析的な響きを帯びた声で、ゆっくりと続けた。
「蓮雅人と直接出会うずっと前から、まったく同じ出来事の夢を見続けていたっていうのが、一番引っかかるんだよね。やっぱり、ただの夢として無視できるものじゃないかもしれない」
ユリは肩をすくめた。「この世界って意外と奇妙な場所だからさ、深雪ちゃん。置かれた環境や潜在意識の中で何かが狂っているとき、脳は必死で叫び声を上げるものなんだよ。何かが深雪ちゃんに警鐘を鳴らそうとしてるのかも」
深雪は息を呑み、ユリの言葉の重みが胸の奥深くに沈んでいくのを感じた。「警告、か……」
「噂をすれば……」ユリは手を挙げ、中庭を見下ろす校舎南棟の2階の廊下の窓を指さした。「あそこを見て」
深雪はユリの指す方へ視線を向け、ガラスに反射する午後の眩しい光に目を細めた。
開いた廊下の窓ガラスの向こうに、二つの影が立っていた。
一人は間違いなく蓮雅人だった。制服のブレザーのボタンを外し、乱れた金髪に日差しを浴びながら、手慣れた尊大な態度で会話を交わしていた。そしてそのすぐ目の前には、彼の存在に完全に魅了されたかのように身体を寄せている、栗色のショートボブの少女が立っていた。
「あいつと話してる女の子、見える?」ユリが二人に視線を固定したまま静かに尋ねた。
深雪はゆっくりと頷いた。「うん……」
「前に話した、あいつの彼女だよ」ユリの声が重く苦々しいトーンに落ちた。「名前は、恭一郎由美子」
深雪はその名前を呟いた。「恭一郎……由美子……」
「中学の頃、二人とも知ってたんだ」ユリは膝に手を戻し、過去を語り始めた。「当時の由美子は今とは全然違ってさ。礼儀正しくて静かで、校則もきっちり守る理想的な生徒だったんだよ。髪だって元々は黒髪だったしね。深雪ちゃんと拓海くんみたいに、アラタっていう男の子とすごく睦まじい付き合いをしてた。誰もが二人はずっと一緒にいると思ってたんだ」
ユリは喉の奥で鼻で笑うような、暗い音を漏らした。
「全部が順風満帆だった……」ユリは顎に力を込めて続けた。
「蓮雅人が現れるまではね。あいつは由美子をターゲットにし、いつものキザで巧みな揺さぶりをかけて、彼女の小さな不安を突いてアラタから完全に奪い去ったんだ。アラタはボロボロになって成績も急降下してさ、学年が一つ遅れるほど落ち込んだんだよ」
深雪は窓の向こうの栗髪の少女を見つめた。木の下という距離からでも、由美子の容姿の劇的な変化は痛いほどよく分かった。
由美子は高校の校則にはおよそ不釣り合いな濃いアイメイクを施し、唇には艶のある濃いピンクのリップを塗っていた。元は黒かったという髪は茶色に染められ、制服の襟元は大きく肌を晒し、スカートの丈は校則を大きく無視して短く詰められていた。
「見れば分かるでしょ?」ユリは再び窓を指さした。
「蓮があいつをどれだけ変えちまったか。雅人が望む歪んだ型にはまるためだけに、昔の性格も、友達も、評判も全部投げ捨てたんだよ。あの子は『イケてる男』の隣にいるから自分は特別だと思い込んでるけど、雅人にとって彼女はただの戦利品に過ぎないのにさ」
雅人の言葉に笑い声を上げ、彼の関心にすがるような由美子の姿を見て、深雪の背筋に冷たい戦慄が走った。自分自身も一歩間違えれば、まったく同じ蜘蛛の巣に足を踏み入れていたかもしれないという事実に、血管が凍りつくような吐き気が込み上げた。
ユリは草の上に置いたメッセンジャーバッグに手を突っ込むと、ビニール包装されたものをポンと深雪の膝に置いた。
深雪が目を落とすと、それはツナマヨのおにぎりだった。
「食べな」ユリは優しく命じ、自分のおにぎりのフィルムを剥がした。
深雪は弱々しくも感謝の笑みを浮かべた。「ありがとう、ユリちゃん……」
彼女は慎重にフィルムを剥がし、小さく一口かじった。塩気のある味わいが心地よく、荒れていた神経を現実へと連れ戻してくれた。
ユリも自分のおにぎりを一口かじり、味わうように噛んだ後、鋭い緑の視線を深雪に戻した。
「ねえ……」ユリは淡々と言った。「もしあの変な夢を見てなかったら……頭の中にあの警告が残ってなかったらさ、橘さんに連絡先を渡されたとき、どうなってたと思う?」
深雪は咀嚼の手を止め、口元で手が凍りついた。
「そうでしょ」ユリは非難の色を一切含めず、純粋に分析的な静かな声で追い打ちをかけた。
「深雪ちゃんは寂しかった。拓海くんは執筆で忙しかった。二人の関係がマンネリ化してるんじゃないかって、不安を感じてた。そんなときに文芸部の部長から『恋愛に詳しい男』の連絡先を渡された。少しは興味を持っちゃわなかった? 今日の部室でのあいつの口の上手い言葉が……少しは心地よく聞こえちゃってたんじゃない?」
深雪は静寂の中に佇み、頭上の葉が風にそよぐ音だけが聞こえていた。
今日の午後、文芸部の部室で聞いた蓮の声の、妙に誘惑的な響きを思い出した。放置されていると思い込んでいる少女に甘い言葉をかけるように、彼が距離を詰めてきたあの瞬間。もし拓海の血まみれの顔や葵の冷たい拒絶の鮮明な記憶によって心が恐怖で凍りついていなかったら、自分はあの椅子にもう少し長く座っていたのだろうか。彼の『アドバイス』に耳を傾けてしまっていたのだろうか。
重く、認めたくない真実が深雪の喉の奥にのしかかった。
深雪はゆっくりと、重々しく頷いた。
「そういうこと」ユリはおにぎりを平らげ、ナプキンで指を拭きながら言った。「つまりあの悪夢は、どれほど恐ろしいものだったとしても、深雪ちゃんが取り返しのつかない大失敗をするのを救ってくれたってことだよ」
ユリは再び幹に背を預け、新しい疑問が浮かんだように目を細めた。そして真剣な好奇心を瞳に宿らせて深雪を振り向いた。
「それで……もうひとつ気になってることがあるんだけどさ」ユリのトーンが変わった。「その悪夢の中で……ある女の子の話をしてたよね? 拓海くんのお母さんのお店で彼の隣に立ってた子。屋上で深雪ちゃんに詰め寄ってきた子だよ」
深雪は顔を上げ、半分残ったおにぎりを握る手に力が入った。「うん……」
「もう一度、その子の特徴を教えてよ」ユリが求めた。
深雪は静かに息を呑み、悪夢の中の鮮明な情景を記憶から手繰り寄せた。
「その子は……絹糸みたいに光を弾く、目を奪われるような美しい金髪のロングヘアで。瞳は射るように冷たいアイスブルーだったの。息を呑むほど美しくて……まるで天使みたいだったけど、近付けないような冷たくて完璧なオーラを纏ってた」
「金髪」という言葉が深雪の唇からこぼれた瞬間、ユリの背筋がピンと伸びた。心当たりがあるというような表情が顔に浮かぶ。
「葛城凛だ。それ、絶対に葛城凛のことだよ」ユリが淡々と言い放った。
深雪は驚きに目を丸くした。「え……知ってるの?」
「知ってるに決まってるでしょ」ユリは丸めたフィルムをバッグに放り込みながら呆れたように言った。「全校生徒のほとんどが知ってる有名人だよ、深雪ちゃん! よく今まで知らずに済んでたね?」
「最近……中間テストと拓海くんの下稿のことで頭がいっぱいだったから……」深雪は恥ずかしそうに白状した。
ユリは小さく溜息をつき、信じられないといった様子で首を振った。「葛城凛は1ヶ月ほど前にうちに転校してきた1年A組の生徒だよ。で、たった4週間でこの学校の絶対的な伝説になっちゃったの」
「どういうこと……?」深雪の目がさらに丸くなった。
「盛ってなんかいないよ」ユリの声には、珍しく心からの感嘆が籠もっていた。
「陰じゃ『黄金の女帝』なんて呼ばれてる。とんでもない美人なのは当然として――男子なんて全滅レベルで夢中になってるけど――能力面でも完全な化物なんだから」
ユリは真面目な顔つきで指を折り数え始めた。
「学業? 先月のテストで学年1位。運動? 入学3日目に陸上部に入って、最初の試技で100メートル走の校内記録を塗り替えた。でおまけに、1年なのに2週間前の地区大会の学校代表に選ばれたんだよ」
怒涛のような実績のリストを聞き、深雪は呆然と座り込んでいた。
「歩く天才そのものだよ」ユリは真剣そのものの瞳で深雪を直視した。「完璧な成績、圧倒的な運動神経、ミケランジェロの絵画から飛び出してきたような顔立ち。礼儀正しいけど、誰に対しても冷徹なまでに距離を置いてる。ナンパしてきた男子を冷たくあしらうことでも有名でさ、先週だけでも15人はフッたらしいよ」
ユリは深雪に顔を近づけ、友人を庇うような重々しい囁き声にトーンを落とした。
「だからね、深雪ちゃん……あんな特別な子が、夢の中で拓海くんの隣に立ってたなんて話……深雪ちゃんにとっては最大の警鐘であるべきなんだよ」
深雪は息を詰まらせた。
「拓海くんは本当にいいやつだよ」ユリは友への温かい思いやりを滲ませ、優しく続けた。「優しくて、誠実で、あいつなりに才能もある。まさに理想の彼氏だよ」
彼女は一呼吸置いた。「でも、もし葛城凛みたいな子が本気で拓海くんに興味を持ったり……深雪ちゃんが彼の存在を当たり前だと思い続けたりしたら……争うことすらおこがましいような相手に、彼を奪われちゃうかもしれないんだよ」
ユリは深雪の肩にそっと手を置き、ギュッと力を込めた。
「あの男の子を大切にしなきゃダメだよ、深雪ちゃん」ユリの緑の瞳が激しいほどの真摯さで輝いた。
「不安なんかに負けて蓮雅人みたいなゴミに引き寄せられてないで、深雪ちゃんを全力で愛してくれてる人を、しっかりと捕まえておきな」
深雪はユリの目を見つめた。友人の手の温もりが肩から染み込み、不安の最後の一片までを打ち消していく。悪夢の冷たい恐怖は急速に小さくなり、代わりに強い決意が心を満たしていった。
彼女は校舎を見上げた。蓮と由美子が立つ窓の向こう、広がる鮮やかな青空へと視線を向ける。
「うん、そうする」ここ数日で初めて、深雪の声は力強く澄んでいた。
「あんな悪夢なんて……絶対に実現させない」
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午後の風に揺れる銀杏の葉の音がゆっくりと遠のき、代わりに10年近く前の、冷たい秋の公園の記憶が蘇ってきた。
深雪は学校の木陰で静かに座り、足元の草を茫然と見つめながら、意識を小学生の頃へと巻き戻していた。
7歳の誕生日を迎えて間もない、肌寒い曇り空の午後だった。公園の砂場は朝の小雨で湿っており、錆びたブランコの鉄鎖が風に揺れてキィキィと小さな音を立てていた。今のベンチと同じような木製ベンチに座り、小さな膝を抱えて、泥のついた赤い長靴を見つめていたのを覚えている。
その隣では、7歳の拓海が傷だらけのゴムボールを砂場のコンクリートの縁に打ち付けて弾ませていた。髪はボサボサで、走り回って頬を桃色に染め、右膝には砂利道で転んだ勲章である新品の絆創膏が貼られていた。
「ねえ、深雪!」幼い拓海は両手でボールをしっかり受け止めると、無邪気で元気いっぱいの笑顔で駆け寄ってきた。「なんで座ってるの? 一緒に遊ぼうよ!」
深雪は顔を上げなかった。ただ膝をいっそう強く抱きしめ、消え入るような擦れた声で呟いた。
「拓海くん……私、明日学校に行きたくない……」
幼い拓海は大きな茶色の目をパチクリさせ、心底不思議そうに首を傾げた。膝の上にボールをポトリと落とす。「え? どうして?」
深雪は小さくしゃくりあげた。当時の彼女の小さな肩にのしかかっていた重圧は、潰れてしまいそうなほど重かったのだ。
父が心臓麻痺という突然の病で一晩にして他界してから、まだたったの3ヶ月だった。残された母の小春は、生き残るために必死の生活へと追いやられた。二重のシフトをこなし、毎晩疲労困憊した青白い顔とクマの浮いた目で遅くに帰宅し、深雪に聞かれないようキッチンに隠れて静かに泣いていた。
母の荒れた手を見るたび、暗く息苦しい罪悪感が深雪の胸を切り裂いた。
(私が居なかったら、お母さんはこんなに働かなくて済むのに。お母さんが泣いてるのは、私のせいだ……)
「お母さん……前よりずっと大変そうに働いてるの」幼い深雪は声を震わせ、まつ毛の端から涙をこぼした。
彼女は唾を飲み込み、小学校のクラスメイトたちの残酷で容赦のない言葉を思い出していた。7歳の子どもというのは、言葉の重みも理解せずに残酷になれるものだ。
「みんな、私をからかうの……」深雪は小さな両手で顔を覆い、すすり泣いた。「お父さんが居なくなったからって、ひどいことばかり言うの……」
幼い拓海は数秒間、黙って彼女を見つめていた。その丸く幼い顔から無邪気な笑顔が消え、年齢不相応な静かで強い決心の色が宿っていく。
彼はボールを脇に置き、ベンチから立ち上がると、深雪の真正面に立った。そして泥で汚れた温かい手で、顔を覆っていた彼女の震える両手を力強く引っ張った。
「じゃあ、僕が一緒に行く!」幼い拓海は、誰もいない公園に響き渡る大声で宣言した。「毎朝絶対に! 日が昇る前に君の家の門の前に行って、一緒に行く! 教室のドアの前までずっと一緒だよ!」
深雪は息を呑み、涙で霞む目で彼を見つめた。「だ、ダメだよ拓海くん!」彼女は必死で首を振った。「私と一緒にいたら、拓海くんまでからかわれちゃう! 変なこと言われて、私と遊んでるから変なやつだって言われちゃうよ!」
「言わせとけばいい!」拓海は湿った砂を踏みつけ、意地になって叫んだ。胸を張り、揺るぎない決意を込めて彼女の目をまっすぐ見つめた。「バカたちの言うことなんて気にしない! 意地悪言うやつがいたら、やめるまで僕が大声で怒鳴ってやる! 僕が隣にいるんだから、深雪は何も怖がらなくていいんだよ!」
深雪は胸を深く高鳴らせながら、彼を見つめた。
そして、拓海はその言葉をすべて実行したのだった。
翌朝の7時ちょうど、深雪が玄関のドアを開けると、黄色い通学帽をかぶり、赤いランドセルを背負い直しながら、誇らしげな笑顔で待っている幼い拓海の姿があった。そしてその日から――雨の日も雪の日も、小学校、中学校、そして高校に至るまで。彼は一度たりとも、その門の前に立つことを欠かしたことはなかった。
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「深雪ちゃん?」
温かく元気な声が静かな追憶を破り、深雪をハッと現実へと連れ戻した。
深雪はパチクリと目を瞬かせた。
もはや学校の中庭のベンチにはいなかった。午後の日差しは居心地の良い金色の夕暮れへと変わり、彼女はカフェ『花道』のテーブル席に座っていた。出汁の煮立つ匂い、煎りゴマや淹れたてのお茶の芳香が店内に漂っている。土曜日の夕暮れ時。2年生の埼玉校外学習が正式に終了し、彼女は拓海の帰りを待つために彼のお母さんの店へとやってきていたのだった。
厨房のカウンターに立ち、布巾で磁器の皿を拭いていたのは天道葵だった。オレンジ色の長い三つ編みを肩に垂らし、楽しげで愛おしそうな笑みを浮かべて深雪を見つめている。
「もう、深雪ちゃんたら」葵はクスクスと笑い、皿を置いてカウンターに肘をついた。「空のお湯呑みを5分間もじっと見つめてたわよ? なんだか暗い顔してぼーっとしちゃって」
深雪は慌てて背筋を伸ばし、頬を淡いピンク色に染めた。「あっ! す、すみません葵さん! ちょっと……考え事をしていて」
葵は大袈裟に息を呑み、胸に手を当てると、その若々しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もしかして……」葵は茶目っ気たっぷりに目を輝かせてからかった。「言わないでよ……もう深刻な『拓海不足』にかかっちゃったの? 埼玉の旅行なんて、たった1日居なかっただけじゃない! 未来の可愛いお嫁さんが、ダーリンが居なくて寂しすぎて憂鬱の世界に浸っちゃったのかしら?」
「あ、葵さん! そんなんじゃないです!」深雪は顔を真っ赤にし、パニックになって手を横に振った。「私はただ――」
「あらあら、どうしましょう?」葵は深々と溜息をつくフリをし、厨房の奥へと向かって声を張り上げた。「可愛い深雪ちゃんが寂しさでしおれちゃう前に、今すぐ呼んきてあげなくちゃね!」
「待ってください、葵さん、お願いだから――!」
「拓海~!」幸いにも客の途絶えていた店内に、葵の声が響き渡る。「誰が会いに来てくれたか見てみなさい! 早く来なさい!」
深雪は真っ赤になった顔を両手で覆い、お手上げといった風に小さく唸った。
磨かれた板張りの床に足音が響いた。直後、引き戸が開き、拓海が客席エリアへと足を踏み入れた。
彼は制服を脱ぎ、動きやすいグレーの長袖シャツとスラックスに着替えていた。腰にはクリーム色の綿のエプロンをきっちりと結び、淹れたての温かい麦茶が入ったふたつのマグカップをトレーに載せている。
テーブル席に座る深雪の姿が目に入った瞬間、1日の旅の疲労は一瞬で吹き飛んだ。パッと明るく、心からの笑顔が彼の顔に浮かぶ。
「深雪ちゃん!」拓海は温もりのこもった声で言った。「来てくれたんだ! 30分前に埼玉から戻ったよって、連絡しようと思ってたところなんだ」
「無事に帰ってきたか……見にきたの」深雪は顔から手を下ろし、彼を見つめながら胸に押し寄せる安堵感に満たされた。
拓海は麦茶のトレーをテーブルに置き、向かいの椅子を引いて腰掛けた。
「今日はどうだった?」拓海は温かいマグカップを彼女の手に近づけながら優しく尋ねた。「僕がいない間、ちゃんと休めた?」
「うん……とても静かだったよ」深雪は愛おしそうに微笑みながら答えた。「ユリちゃんが一緒にいてくれたの」
「そっか、よかった」拓海は笑った。
すると、彼は何かを思い出して目を輝かせた。「あ! そうだ! 埼玉の工芸品街を散策したときに、深雪ちゃんにお土産買ってきたんだ」
彼はエプロンのポケットに手を入れ、金の紐で結ばれた和柄の紙に包まれた小さな正方形の箱を取り出した。それをテーブルの上にそっと置き、深雪の方へと滑らせた。
深雪は上品な包装を見つめ、嬉しそうに眉を上げた。「お土産……私に?」
「うん、開けてみて」拓海はテーブルに肘をついて身を乗り出し、褒め言葉を待つ少年のようにワクワクした表情で見つめた。
深雪は慎重に金の紐を解き、包装紙を開いた。箱の中の黒いベルベットの上に、繊細に作られた腕飾りが収まっていた。深いミッドナイトブルーとシルバーの絹糸がきっちりと編み込まれ、中央の輪には桜の花びらの形をした小さな真鍮の鈴が揺れている。
深雪は指先でそれをそっと持ち上げた。手を動かすと、小さな鈴がかすかで綺麗な音色を響かせた――その澄んだ優しい音は、部屋に残る不安の影をすべて払い去ってくれるかのようだった。
「神社がある街の伝統工芸品なんだ」拓海は彼女の反応を見ながら、照れくさそうに頬を掻いた。「職人さんが、その鈴は厄除けと身守りになるって言っててさ。シルバーの糸を見た瞬間……深雪ちゃんに絶対似合うと思って。気に入ってくれた?」
深雪は繊細な腕飾りを胸に抱きしめた。指先の中で、小さな鈴がチリンと優しく鳴る。
彼女はテーブル越しに拓海を見つめた。柔らかい茶髪、真っ直ぐで誠実な瞳、そして愛おしさに満ちた穏やかな表情。疲れるはずの旅行中、混雑した日程の中でも、彼はまず自分に素敵なものを持ち帰ろうと考えてくれていたのだ。
湿った砂場で泣いていた幼い頃の記憶と、大木の下でのユリの強い言葉が脳裏をよぎった。
『不安なんかに負けて蓮雅人みたいなゴミに引き寄せられてないで、深雪ちゃんを全力で愛してくれてる人を、しっかりと捕まえておきな』
深い愛しさと感謝の波が深雪の心を満たし、迷いをきれいに押し流していった。
深雪はさりげなく店内を見回した。
葵は厨房のコンロに向かい、煮立つお味噌汁の鍋を確認しながら、背を向けて鼻歌を口ずさんでいる。
周囲に誰も見ていないことを確認すると、深雪は椅子から立ち上がり、狭い木製テーブル越しに身を乗り出して、柔らかい手で拓海の右頬をそっと包み込んだ。
拓海は驚いて目を瞬かせた。「深雪ちゃん……?」
彼が状況を理解する前に、深雪は顔を近づけ、彼の左頬に柔らかい唇を押し当てた。
そのキスは優しく、息を呑むような愛おしい時間が2秒間続いた。温かく、柔らかく、言葉にならない誓いが込められていた。
彼女が身を引いたとき、拓海は椅子の上で完全にフリーズしていた。目を丸くし、耳の先端まで一瞬で真っ赤に染まっている。唇が触れた自分の頬にゆっくりと手をやり、思考回路が完全にショートしていた。
「すごく嬉しいよ、拓海くん」深雪は愛おしそうに瞳を輝かせ、とびきり眩しい笑みを浮かべて囁いた。「本当にありがとう」
「キャアアアアアアアアア!」
甲高い、歓喜に満ちた悲鳴が店内に響き渡り、通りがかる歩行者すら思わず店の方を振り返るほどだった。
葵はコンロの前からくるりと振り向き、おたまをマイクのように握りしめ、母親としての興奮を爆発させていた。真っ赤になった二人を指さしながら、その目は星のように輝いている。
「ちょっと待って! なんてことなの!」葵は歓喜のあまり手を叩きながら大騒ぎした。「今の見た!? 可愛い深雪ちゃんから仕掛けるなんて! 私の目の前でほっぺにキス!? こんなロマンチックな展開、心臓が持たないわ! アルバムに永久保存しなきゃ!」
「お、お母さん!」拓海は恥ずかしさの限界に達し、真っ赤な顔を両手で覆って叫んだ。「声が大きすぎるってば!」
「叫ばずにいられる!? こんなに可愛い二人を見て!」葵は嬉しそうに笑いながら歩み寄り、深雪の肩を後ろから抱きしめてギュッと力を込めた。「ああもう、私は世界一幸せな母親ね!」
深雪はクスリと微笑み、天道家の温かく揺るぎないぬくもりに包まれるのを感じた。ここ数週間で初めて、悪夢の暗い影が完全に力を失ったように思えた。
カランコロン。
ドアベルの澄んだ音が店内に響いた。
葵は手を止め、不思議そうに瞬きをしながら深雪を解放した。「あら? お客様かしら?」
「僕が出るよ」拓海は真っ赤な顔を隠す絶好の口実を得て、急いで椅子から立ち上がった。
葵はお茶を注ぎ足すために厨房カウンターへ戻り、深雪は再び席に着いて、銀糸の腕飾りを慎重に左手首へと通した。結び目を調節すると、小さな鈴がチリンと繊細な音を立て、肌にぴったりと馴染んだ。
足音が聞こえ、拓海が客を深雪の座るテーブルへと案内して戻ってきた。
「こちらです」通路から拓海の声が届く。「母と深雪ちゃんが客席にいますので」
「突然のお邪魔を許していただき、ありがとうございます、天道先輩」凛とした、上品な少女の声が応じた。「何かのお邪魔になっていなければよいのですが」
深雪は常連客か誰かだろうと思い、気楽な様子で入口の方へと視線を向けた。
だが、その訪問者が姿を現した瞬間――深雪の肺から一気に酸素が抜け落ちた。
全身が硬直する。心臓が恐怖で凍りつき、一瞬だけ鼓動を止めた。
店内の琥珀色の光の中に立っていたのは、他に類を見ない幻想的な美しさを持つ少女だった。仕立ての良い白いブラウスに、深い紺色のプリーツスカート。肩を越えて流れる艶やかな長い金髪は、まるで紡がれた絹糸のように光を弾いている。完璧に整った鼻立ちと、射るようなアイスブルーの瞳は、容易に人を寄せ付けない圧倒的な存在感と凛とした品格を漂わせていた。
夢に出てきた、あの少女だ。
1年A組の『黄金の女帝』。
深雪はテーブルの縁をきつく握りしめ、指関節が白くなった。顔には生々しい衝撃が走り、瞳が小さく揺れている。
「凛……?」深雪の唇から、無意識のうちにその名前が零れ落ちていた。
金髪の少女のすぐ後ろを歩いていた拓海が、その小さな囁きを拾った。彼は驚いて目を瞬かせ、深雪と客の顔を見比べた。
「え?」拓海は首を傾げた。「深雪ちゃん……葛城さんのこと、もう知ってるの?」
深雪はハッと我に返り、全身にアドレナリンが駆け巡るのを感じた。急いで姿勢を正し、衝撃を冷静さの仮面の下に押し込めると、必死で首を横に振った。
「う、ううん!」深雪は声を引きつらせながら慌てて否定した。「ううん、個人的に知り合いってわけじゃ……ただ学校で見かけたことがあって。すごく有名な子だから」
金髪の少女――葛城凛は、その鋭い青い瞳を深雪へと向けた。ほんの短い一瞬、彼女の冷ややかな眼光の奥に解読不能な興味の揺らめきが走ったが、それは現れた時と同じ速さで消え去った。
凛は深雪に向かい、完璧で礼儀正しいお辞儀をした。「こんばんは。2年B組の朝日奈さんですね。1年A組の葛城凛です」
「こ、こんばんは……」深雪は警戒心を込めた声で返した。
凛は視線を拓海へと戻した。冷徹という評判からは予想もつかないほど柔らかく温かい笑みが、その完璧な唇に浮かぶ。
「お忙しいところ、お邪魔して申し訳ありません、先輩」凛は湧き水のように澄んだ滑らかな声で優しく言った。
彼女は洗練された革の通学バッグに手を入れ、きれいに折り畳まれた厚手の紺色のニットセーターを取り出した。生地は汚れひとつなく美しく整えられ、ほのかにシダーウッドの香りが漂っている――間違いなく、拓海が愛用している秋物のセーターだった。
凛は両手でセーターを拓海に差し出し、再び丁寧にお辞儀をした。
「これをお返ししに伺いました」凛は彼を見上げ、青い瞳に偽りのない深い感謝を宿らせて言った。「校外学習のとき、セーターを貸していただき本当にありがとうございました、天道先輩。城跡で雨が降り出したとき先輩が貸してくださらなかったら、きっと酷い風邪をひいていたと思います」
その言葉は、温かい店内の空気を切り裂く青天の霹靂となって響き渡った。
深雪は椅子に座ったまま完全に凍りついていた。静まり返った店内で、彼女の手首にある小さな真鍮の鈴が、震えるように一回だけ「チリン」と音を立てた。凛の手の中にある紺色のセーターに視線を固定したまま、冷たく鋭い現実が深雪の胸の奥深くに突き刺さっていた。




